手を伸ばせば⋯⋯ 44
「え⋯⋯、なに?」
開けたばかりの牧野の目が大きく見開く。
起きたら隣には俺が横たわってんだから、驚くのも無理ねぇ。
「おはよ。目ぇ覚めたか。⋯⋯なぁ、牧野。おまえいつもそうなのか?」
「いきなり何の話よ」
「おまえ、昨夜も魘されてた」
「⋯⋯⋯⋯」
言葉を詰まらせた牧野が目を伏せる。
「悪りぃ。見てらんなくておまえを抱きしめて寝た」
「⋯⋯⋯⋯」
「で、どうなんだ? 牧野、黙るなよ」
「⋯⋯⋯⋯魘されるなんて、そんなのいつもじゃない。たまたまよ。体調が良くないせいだと思う。迷惑掛けて、悪かったわ」
目線を下げたまま言う牧野の声は、いつになく弱い。
俺は堪らず牧野を引き寄せた。
「迷惑なんかじゃねぇ。俺が放っておけなかっただけだ。苦しそうなおまえを見てらんなかった。
こんな風に抱きしめるのも、俺がしちゃいけねぇのは分かってる。けど⋯⋯、俺にしてやれることはねぇか? もしおまえが苦しんでんなら、何だってしてやりてぇ」
牧野は、俺を押しのけ距離を作った。
「道明寺の睡眠の邪魔をして悪かったと思ってる。でも、本当にただの夢で寝ぼけてただけよ。何の意味も持たない、ただの夢」
話を終わらせるように、さっさとベッドから下りて窓辺に佇んだ牧野を声で追う。
「牧野。牧野を苦しめている夢は、俺が関係してるのか?」
「そんなわけあるはずないじゃない。自惚れないで」
バッサリと返され、引き下がるしかなかった。
「そうだな⋯⋯。飯、喰いに行くか」
これ以上の話は見込めなくて、俺もベッドから起き上がった。
この日も昨日と同じく、書斎で俺は仕事をし、牧野は本を読んで過ごした。
────そして、牧野と過ごす最後の夜。
牧野がベッドに入るのを見届けてから、書斎でまた時間を潰すつもりでいた俺を牧野が呼び止める。
「道明寺。今夜はベッドで寝たら?」
最後の最後でまたそれか。
「俺はソファーでいいって言ってんだろ?」
「そうじゃなくて⋯⋯。一緒にベッドで寝れば良いでしょって言ってるの」
思ってもみない提案に、どうしていいか戸惑い固まる。
「どうせ昨日も一緒に寝てたみたいだし、明日からは会社なのに、ソファーじゃ体が休まらないだろうから言ってるの。別に深い意味はないから勘違いしないで」
「イヤじゃねぇのか⋯⋯俺と一緒で。⋯⋯怖くねぇか?」
「散々抱きしめておいて、何を今更。一緒に寝るくらい大したことじゃないじゃない」
冷めた口調で言った牧野が、どうすんのか決めろと言わんばかりの目を寄越してきて、戸惑いつつも俺は、書斎には向かわず牧野と同じベッドに入る。
牧野は俺と距離を取ると、背を向けて横になった。
眠れるはずがねぇ。
ベッドに入ってから一時間は経っただろうか。
全く眠れそうにない俺は、月明かりだけが差し込む部屋の高い天井を、見るともなしにぼんやりと眺めながら思いを巡らせる。
牧野と過ごし、抱きしめて眠ったこの数日。
こんな時間を過ごしてしまった俺が、この先、苦しいまでの牧野への想いを本当に封印なんて出来んのか。
諦めなきゃなんねぇって頭じゃ分かってるのに、幸せにしがみつきたくなる自分との葛藤が膨らむばかりで、今のこの時だって、隣で眠る牧野を抱きしめてぇって思ってしまう。
感情をぶつければ牧野を苦しめるだけ。牧野がどんなに普通を装うとも、俺は憎まれた存在でしかねぇ。無表情の下に隠されていた怒りを俺は見たはずだ。そう自分に言い聞かせても、せめて今だけでは、と情けなくも溢れる思いを止められなくなる。
もし許されるならば⋯⋯。
ここで過ごす残りの数時間、おまえをもう一度だけ抱きしめてぇ。
「⋯⋯牧野」
小さく呼ぶ。
もう寝てるはずだ。寝てるなら諦める。そう心に決めながらも、もう一度だけ呼ぶ。
「もう⋯⋯寝てるよな」
一時間も経ってんだ。起きてるはずがねぇ。
そう諦め掛けたときだった。
「⋯⋯⋯⋯なに?」
愛しい声を訊く。
まだ起きてたのか、それとも俺が起こしちまったのか。
どちらにしても確かに返ってきた声に縋る。
「牧野⋯⋯抱きしめてもいいか?」
問いかけておきながら、俺は返事を待つのが怖くて、何か言われるより早く傍に詰め、牧野を腕の中に閉じ込めた。
「ごめん⋯⋯今夜だけ。今夜だけでいい。牧野⋯⋯、今だけ俺を赦してくれねぇか?」
何も言わない牧野を強く掻き抱く。
これが最後だと自分に言い聞かせ、牧野の温もりを忘れないよう胸に刻む。
抱きしめれば、誂えたようにしっくり合う華奢な体。牧野から漂う甘い香り。
刻み込むほどに想いは溢れるばかりで、俺は腕の力を抜き、牧野の顔を覗き見た。
交わる視線と視線。
目を逸らさない牧野に「ごめん」と一言謝りを入れて、少しずつ牧野との距離をなくしていく。
牧野が逃げてもいいように、拒絶できる時間を与えるようにゆっくりと⋯⋯。
それでも逃げない牧野の唇に、俺は触れるか触れないかだけのキスをした。
一瞬だけ触れ、そして離れた柔らかな唇。
でも、互いの視線は離れないままで────。
俺は迷わず、もう一度牧野に口付けを落とした。
二度、三度、と啄むようなキスを落とし、唇が触れあう度に溢れ出す狂おしいほどの想いが、やがて深い口付けへと変えた。
髪を撫でていた手で頭を抱え込み、触れあう唇をこじ開け舌を差し込めば、牧野の舌を追い掛け蜜を塗すように絡めとる。
深く絡めた舌を吸い上げ、激しさの増した合間に漏れる牧野の吐息さえも奪いとりたくて、水音を立たせ夢中で貪った。
唇が熱を持ち痺れ始めた頃。
散り散りになっていた理性の欠片を必死に掻き集め、漸く牧野の唇を離す。
「悪かった⋯⋯⋯⋯。最後のキスだ。
これ以上、何にもしねぇから、もう寝て良いぞ」
呼吸が乱れている牧野の顔をまともに見れずに引き寄せて胸に隠し、乱れた髪を整えるように優しく撫でる。
夜が明ければ、もう決して触れることが赦されない愛する女。
その体を腕に閉じ込めたまま、こみ上げてくるものを飲み下し、俺は静かに瞼を下ろした。
この夜。牧野は魘されることなく、俺の腕の中で朝を迎えた────。
翌朝。
送って行くと言う俺の申し出を退けた牧野は、
「お世話になりました。ありがとう」
そう言って、この部屋から一人出て行った。
あれから日常を取り戻した俺たち。二人で過ごした時間などなかったかのように、以前と変わらず互いに仕事に打ち込んでいる。
仕事以外で交わす会話はなく、あの三日間の愛しい時間は、俺にとっての最後の奇蹟。
もう二度と俺の元へは戻って来ない、幸福な時間だった。

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