手を伸ばせば⋯⋯ 37
全ての記憶を取り戻したあの日。牧野のマンションを出てきた俺は、車も呼ばずに土砂降りの雨の中を歩いた。
どこをどう歩いて来たのかも分からず気づけば邸で。全身ずぶ濡れのまま部屋に入り、ソファーに頽れた。
─────なんてことをしたんだ、俺は。
仕出かした罪の大きさに震慄し、絶望が俺の全てを支配する。
何よりも大切な愛する女を、俺がこの手で傷つけた⋯⋯。
両手を開き、見る。
雨のせいで濡れた手は、寒さは感じねぇのに、いつまでも震えが止まらなかった。
翌日。
朝から何度も鳴る電話には出ず、ひたすら酒を飲んだ。
夢であったらいい。全部が消えてなかったことに出来れば⋯⋯。
酒に逃げ込み意識を溺れさせてぇのに、頭ん中では牧野の悲鳴が訊こえて止まない。
ドアが叩かれているのも無視した俺は、悲鳴に怯えて更に酒を流し込み、気づいた時には、目の前に西田がいた。
「司様、今日は大事な打ち合わせが入っております」
返事をする気力もない。
「司様! 今日の打ち合わせに出席なさいませんと、美作副社長にご迷惑がかかます。美作副社長だけではありません。牧野様にもです」
牧野の名前を出せば、俺が動くとでも思ってんのか。
その牧野がいるから、合わせる顔なんてねぇのに。
あいつに恨まれ、傍にいることも許されねぇんなら、俺にはもう何もねぇ。この世にいる価値すらも。
気怠さを纏ったまま、重くなった口を開く。
「俺がいなくても何とかすんだろ。俺の考えなら⋯⋯多分、牧野が理解してる。俺は体調不良とでも言っとけ」
「司様、自分のお立場をお忘れですか?」
「ぁあ? 立場? んなもん直ぐにでも捨ててやるよ! いいか、西田良く訊け。俺はもう何もいらねぇ。どうなろうが構わねぇんだよ! 分かったらさっさとここから出てけーっ!」
夜になってもストレートでウィスキーを呷り続け、気づいた時にはまた夜が明けていた。
どんだけ時間が経ったのかも、もう分からねぇ。
目を瞑ってみても、瞼の裏には少女だった牧野の怯えた顔が映り込む。
あん時だって、そんな牧野の顔を見るのは辛かった。
けど、他の男に取られるくらいならと、目茶苦茶にして俺のもんにしたくて。
────最低だ。
自分本位で、体を手に入れば俺のもんに出来るなんて浅はかさ。で、結局、手に入れるどころか、牧野から輝きを奪った。
ガラス玉みてぇな無機質な目が生まれた瞬間、俺は傍にいた。俺があんな目にさせたんだ。
⋯⋯消えて無くなりてぇ。
いつの間にかソファーで眠っていたようだ。
ドアが叩れる音に気づき、目が覚める。
永遠に目なんか覚めなきゃいいのに、こうして意識が戻るのが辛い。
再びドアが叩かれるが、無視して窓に目を向ける。外は暗く、気づかねぇ内にまた夜だ。
あと何度、朝を迎えてこんな夜をやり過ごさなきゃなんねぇのか。
気が遠くなりかけたところに、足音が聞こえた。
「勝手に入ってくんじゃねぇーっ!」
また西田が来たんだろうと、床に転がってた空き瓶を投げつける。
それでも止まらない足音。
睨みつけた先に、
「ノックをしても返事がなかったものですから、勝手に失礼させて頂きました」
「っ!⋯⋯牧野」
牧野がいた。
どうして。なんで牧野がここにいる。
牧野にとっちゃ忌まわしい記憶しかねぇ、この部屋に⋯⋯。
「支社長、何をやっていらっしゃるんでしょうか。昨日も今日も大事な打ち合わせが入っていたことは、支社長なら把握されていたはずだと思いますけど」
何故、おまえは何も言わねぇんだよ。
敬語使って、あくまで仕事だって立場を崩さねぇ気か。
平然と仕事なんかしてねぇで怒れよ。俺を罵れ。おまえにはその権利があるだろうが。
それとも、俺がそこまで、おまえの感情を奪っちまったってことか⋯⋯。
愕然として、震えそうになる体を押さえ込むように、グラスに残っていた酒を一気に空ける。
「俺がいなくても、あきらとおまえで何とかなるだろ」
詰まる喉から無理やり声を絞り出す。
空になったグラスに酒を注ぎ、もう一度口に含もうとすれば、牧野がそれを奪った。
有無を言わせない強い視線で俺を捉え、奪い取ったグラスを隅っこに置く。
「いつまでも私たちだけでフォローは出来ません。あなたは、道明寺司なんです。いるだけで存在価値がある。残念ながら、その代わりは誰にも出来ません。
それと、私がいることで支社長の仕事に支障を来していますので、明日の会議を最後に、私がプロジェクトから外れます」
道明寺司が何なんだよ。そんな名前に付随するもんなんて、俺は要らねえ。
俺はただ、おまえの前でだけ一人の男でいられれば良かった。
その望みを自らの手で永久に葬った俺に、何の価値がある。生きる力さえねぇ、この俺に。
牧野は資料を置くと背を向けた。
これを届けるためだけに来たのか。
おまえの怒りはどこに行っちまったんだよ。
「⋯⋯⋯⋯でだよ」
俯きながら出した声は震えてまともな言葉にならず、もう一度、声帯に力を入れる。
「⋯⋯んで⋯⋯なんで俺を責めねぇんだよ。どうして何も言わない。あれだけ酷いことされて⋯⋯。おまえにとって俺は、誰よりも憎い存在だよな。それをちゃんとぶつけろよ。
⋯⋯俺も努力するから。おまえを好きでいる資格なんて、俺にはなかった。だから、諦める。おまえを⋯⋯、忘れる努力するよ」
俺は、一番したくない大きな覚悟を口にした。
愛する女をこれ以上傷つけないために。
俺がおまえを求めれば、きっとおまえを苦しめる。俺を見る度、忌まわしい過去が思い出されるはずだ。
もう二度と、牧野を苦しめたくはない。
最後に牧野の顔を焼き付けようと顔を上げ、そして、ハッと息を呑んだ。
そこには感情を露わにした牧野がいた。
滾る怒りを表情に刻み、憎しみが籠もった眼差しが俺を貫く。
再会して初めて、牧野の感情が綻びを見せた。
「私に、責められたい? そんなに責められたいの? 責められれば少しは楽になるとでも?
だとしたら、私は一生あなたを責めたりかしないっ! 私に悪いって、一生後悔し続けながら生きればいいのよっ!」
無表情の下に隠していた怒りの発露。
苦しみに歪んだ顔で言う牧野の思いは、決して俺を楽にはしてやらない、そういうことだ。
それでいい。それでいいんだ、牧野。
一人で苦しみを取り込まず、ほんの少しでもおまえの気持ちを軽く出来んなら、俺に容赦なくぶつければいい。俺がその苦しみを引き受ける。
赦してもらおうなんて思ってねぇから。
俺は生涯、おまえに懺悔し続けるから。
「17歳だった私は、この部屋であなたに傷つけられた。弄ばれて、そしてあなたは何事もなかったように、何も言わずにNYへ行ったわ。私を捨てたのよ。飽きたおもちゃを捨てるのと同じようにね! それからは、夢中で勉強や仕事に取り組んできた。何故だか分かる?」
俺は黙って牧野の胸に秘めていた叫びを受け止めた。
「全てはあなたを見返すため、ただ、それだけのためよ! 弄ばれた女でも、男に負けない力をつけて見せつけてやる、その一念だけでね!
でも流石に、私も挫折しそうになったこともあったわ。女が一人、何の後ろ盾もなく這い上がるのは、相当な努力をしなければならなかった。
でもね、そんな私を支えたのは、他でもない⋯⋯、あなたよ。同じNYであなたの噂や、世間の賞賛を浴びて自信に漲るあなたをニュースや雑誌で見る度に、私は自分を奮い立たせてここまできたの!」
牧野の葛藤を思うと堪らなくなり、体から力が抜け頭が落ちる。
ずっと敵対視してきた俺を、牧野はどんな思いで見続けてきたのか。
女遊びの良くない噂だって沢山耳にしてきたはずだ。
女はただの道具、性を発散させるためだけのもの。そう思ってきた俺は、女を大事に扱ったことなどない。
そんな噂を聞いたおまえは、思ったんだろ? 自分も同じだと。性を発散するために弄ばれたんだと⋯⋯。
会えない空白の時間に、どれほど自分の行いが牧野の心に刃を突き刺してきたのか。
大罪を犯した罰は、長い年月を経て俺を奈落の底に突き落とす。
「私に申し訳ないって気持ちがあるなら、あなたは道明寺司のままでいなさいよ! 生きてく糧がなければ、十年以上も掛けて積み重ねてきた経験も努力も、全部が無駄になるじゃない!
私の人生、これ以上壊さないで! いつまでもそんな弱々しい姿なんて見せないでよ! あなたは、どんな時だって道明寺司のままでいて。私に憎まれ、見返してやるって思わせる存在のままで!
⋯⋯じゃなきゃ⋯⋯私が、困るのよ」
俺が道明寺司のままでいれば、おまえは強く生きていけるのか。
俺と同じ厳しい世界に飛び込んだおまえは、俺を怨むことで立っていられるのか。
牧野は急速に声量を落とすと、いつもの無表情に戻り、明日の会議のことだけ告げると、足早に去って行った。
────道明寺司のままでいて。
一人になってからも牧野の声が木霊する。
俺は、牧野を手に入れたいと、愛する女を求めるだけの男だった。
でも牧野が望む俺は、おまえを求めず、NYにいた頃のように仕事には妥協知らずで手を抜かない、道明寺司なんだな。
ふらつきながら立ち上がり、バスルームへ向かう。
頭から冷たい水を散々浴び、シャワーから出た後は、飲めるだけミネラルウォーターを飲んだ。
体内からアルコールを排出するために。
それから俺は読み耽った。牧野が持ってきた資料を。
合間合間に水を飲みながら、読む側から頭に叩き込んでいく。
牧野が望むなら、牧野が崩れ落ちないように俺はあいつの糧になろう。何もしてやれない俺が唯一出来ることは、もうそれしかねぇ。
牧野⋯⋯、俺は黙ってそれを受け入れるよ。
翌日の会議。
酒漬けだった頭を何とか切り替え、俺は出席した。
席には、参加者全員に配られた資料と、その他にももう一つ。
中身を見れば一目瞭然、俺だけに用意されているものだと分かる。
俺が休んでいた二日分の要点が分かりやすく纏められてあるそれは無駄のない仕上がりで、牧野以外にこんな完璧な資料を作成出来る奴はいない。
あれから作ったのか。寝る間も惜しんで────。
俺の胸は激しく痛んだ。
牧野の助けもあり、無事に会議は終了を迎えた。
他の仕事が詰まっているのか、終わるなり急いで出て行こうとするあきらを牧野が呼び止めた。
「美作副社長、お話があります」
それを見て思い出す。昨日、牧野が言っていたことを。
この会議を最後にプロジェクトを外れると、牧野はそう言っていたはずだ。
俺は慌てて牧野へ駆け寄った。
「牧野」
近づくなり、あきらと牧野に割り込むように声を掛ける。
「二日間、心配掛けて悪かった。ただの過労だったが、もう問題はねぇ。これからもサポートを頼む。分かったな」
仕事に支障なんて来さねぇ。おまえのために。だから、プロジェクトから外れるなんて言うな。
思いを伝えるように牧野を見る。
牧野もまた、推し量っているのか表情のない顔で俺を見て、何拍かの間ののちに答えた。
「分かりました」と。
「で、牧野の話って何だ?」
割り込んだ俺と牧野の会話が終わるまで大人しく待っていたあきらが牧野に訊く。
「いえ、すみません。私の勘違いでした。何でもありません」
俺が伝えたかった思いは、ちゃんと牧野に届いたようだ。
「勘違い? 珍しいな。牧野、疲れてんじゃないのか?」
「そうかもしれませんね」
あきらと話ながら遠ざかっていく、小さな背中。
その背中に誓う。
おまえが望むように俺は生きる。懺悔し続けながらも牧野の糧となれるように。
おまえが憎むべき相手、「道明寺司」として⋯⋯。

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