手を伸ばせば⋯⋯ 36
高い空はどこまでも青く、陽光が燦々と地上に降り注ぐ。
まるで、昨日の激しい雨が嘘のように⋯⋯。
週明けの今日からは、重要な会議等が目白押しで怒濤の忙しさが予想されている。一時も気が抜けない。
今も道明寺HDの一室で、一時間後から始まる大事な打ち合わせに向け、美作さんと二人、意見の擦り合わせをしているところだった。
「失礼致します」
そこへ、慌てた様子の西田さんが現れた。
「お忙しいところ申し訳ございません。本日ですが、支社長は体調不良のため、打ち合わせに出席出来なくなりました。本日のところは美作副社長の元、打ち合わせを纏めて頂けませんでしょうか」
「体調不良!? で、司は大丈夫なのか?」
大事な打ち合わせよりも、美作さんは親友の心配を優先させるのかと、妙に感心してしまう。
「はい⋯⋯休養すれば、大丈夫かと」
西田さんにしては、どこか歯切れが悪い。
「今日の打ち合わせは、司の意見を反映させる場でもあったんだが、何かそれを纏めた資料とかはないのか?」
「申し訳ありません。支社長のグランドデザインでしたら、牧野様ならお分かりになるだろうと仰ってまして⋯⋯。必要でしたら、こちらでも可能な限りのものをご用意致します」
「牧野、どうだ?」
美作さんが真剣な面持ちに変わる。
「はい、以前からお話されていたものでしたら頭に入っています」
「ふぅー。よし、時間がない。簡単に俺に説明しろ」
「分かりました」
直ぐに準備に移ろうと動く私たちに、「ご迷惑をお掛けし、申し訳ございません」と西田さんが頭を下げた。
その体を直立に戻した時、何か言いたげな西田さんの目とぶつかる。
「まだ何かございますか?」
問いかければ、「いえ、失礼しました」と、急ぎ足で西田さんは部屋を出て行った。
道明寺が担っているのは、この仕事だけじゃない。その全てに対応していかなくてはならない西田さんも、相当忙しいに違いない。
一時間後、定刻通りに始まった打ち合わせは時間がなかったにも拘わらず、流石はこの人の能力も高く、美作副社長の元、事なきを得た。
しかし、翌日の今日。
昨日に引き続き、明日行われる重要会議のための打ち合わせにも、道明寺の姿はない。
代わりに出席した西田さんは、配られた資料に何度もペンを走らせている。
おそらく、道明寺に渡すつもりで補足を書き付けているのだろう。
この打ち合わせも何とか無事に終わることが出来たが、流石に明日も道明寺が居ないとなると、様々な方面に混乱を招きかねない。
それだけは何としてでも避けなければ。
どうするべきか⋯⋯。
誰も居なくなった会議室で、資料を整理しながら考えを巡らせていると、一度は出て行ったはずの西田さんが再び顔を出す。
「牧野様、少し宜しいでしょうか」
「はい」
「実は⋯⋯、支社長のことなんですが、一昨日の晩以降、部屋から出て来ない状態が続いておりまして。もしや、牧野様なら何かご存知かと思ったのですが⋯⋯。このままでは、明日の会議にも出られるかどうか」
馬鹿な男。口の奥で呟く。
「私は何も」
「そうですか⋯⋯。お忙しいところ申し訳ありませんでした」
疲れが滲んでいるようにも見える西田さんは、頭を下げてからドアへと向かう。
その背中を呼び止めた。
「西田さん?」
「はい」と振り替えった西田さんの手元を目線で差す。
「その資料、支社長に届けるものですか?」
先ほどの打ち合わせで西田さんが書き込みをしていた資料だ。
体ごと向き直った西田さんが「はい、そうです」と答えたのを受け、願い出た。
「その資料、私が支社長に届けても良いですか?」
日頃から表情を崩さないのが常の西田さんが、希望を見い出したように顔を明るくさせ、
「はい。是非とも宜しくお願い致します」
資料を私に差し出した。
✾
いつもより大分早く会社を出て、見覚えのある景色の中を歩く。
街並は、あの頃とあまり変わっていない。
この道を歩くのも、あの日以来だ。
道明寺家の敷地に沿うように歩き、やがて立派な正門の前に辿り着けば、西田さんから事前に連絡が入っていたのか直ぐに中に通され、玄関ではタマ先輩が私を待ってくれていた。
「つくし、元気だったかい?」
当時よりも更に小さくなったように見える先輩の目には、涙が薄っすらと滲み、私の右手を温かい両手が包む。
包まれた手から先輩の思いが伝わってくるようで、気持ちが落ち着かない。
「タマ先輩、お久しぶりです。お元気そうで何よりです。本日は、支社長に資料を届けに参りました」
落ち着かない私は、だから敢えて、これは仕事で来たんだと強調するように、道明寺を肩書きで呼ぶ。
昔とはもう違うんだと、線を引くように⋯⋯。
それでも何も変わらない先輩は、包み込んでいる私の手を、何度も何度も、しわしわな手で優しく撫でた。
「坊ちゃんなら、東の角部屋にいるよ」
「分かりました。では、急ぎますので」
案内を断り、私は先輩から逃げるように部屋へと向かう。
十年以上振りの訪問でも、あれだけ通った道明寺邸だ。迷うことはない。
この部屋に来るのもあの日以来。
東の角部屋の前に着き、小さく息を一つ吐き出してから、ドアを3回ノックする。
暫くしても応答がなく、もう一度叩いてみても結果は同じ。
私は、構わずドアノブを回し部屋の中へと入った。
数歩ほど足を進めたところで、
「勝手に入ってくんじゃねぇーっ!」
耳を劈く道明寺の怒声と、私の足下近くでガラスが割れる音がした。
何かを投げつけたらしい。
そんなものも気にせず、更に足を進めて道明寺へと近づく。
「ノックをしても返事がなかったものですから、勝手に失礼させて頂きました」
間接照明の淡い光が一つだけ。薄暗い部屋の中、驚いたように道明寺が顔を上げた。
「っ!⋯⋯牧野」
私が来ることは知らされていなかったようだ。
「支社長、何をやっていらっしゃるんでしょうか。昨日も今日も大事な打ち合わせが入っていたことは、支社長なら把握されていたはずだと思いますけど」
体調不良じゃないのは明らかだ。
部屋に入るなり漂ってきたアルコール臭。
道明寺が座るソファーの前には、空になったものも含めて、何本もの酒の瓶がガラステーブルの上に置かれてある。
道明寺は、グラスに残っているアルコールを呷ってから、小さく言った。
「俺がいなくても、あきらとおまえで何とかなるだろ」
言い終わると、道明寺は再びグラスにお酒を注ぐ。
私は一歩踏み出し、口元へ運ぼうとしていたグラスを取り上げると、それをテーブルの端に置いた。
「いつまでも私たちだけでフォローは出来ません。あなたは、道明寺司なんです。いるだけで存在価値がある。残念ながら、その代わりは誰にも出来ません。
それと、私がいることで支社長の仕事に支障を来していますので、明日の会議を最後に、私がプロジェクトから外れます」
道明寺司の代わりはいない。
でも、私の代わりなら幾らでもいる。喩え、私がプランの提案者だとしてもだ。
プロジェクトが立ち行かなくなることだけは、絶対に避けなければならない。
私は手にしていた資料を道明寺の傍に置き、用は済んだと背を向けた。
「⋯⋯⋯⋯でだよ」
出口に向かおうとする私の背後から、聞き取れない小さな声が届く。
何を言ったのか分からず、向きを変えて、少しだけまた道明寺へと近づいた。
「⋯⋯んで⋯⋯なんで俺を責めねぇんだよ。どうして何も言わない。あれだけ酷いことされて⋯⋯。
おまえにとって俺は、誰よりも憎い存在だよな。それをちゃんとぶつけろよ。
⋯⋯俺も努力するから。おまえを好きでいる資格なんて、俺にはなかった。だから⋯⋯諦めなきゃな。おまえを⋯⋯、忘れる努力する」
────忘れる。
私の中で得体の知れない何かが、荒波に押し出されるように溢れ出す。
これをどうやって説明つければ良いのか、私自身が理解できない。
ただ、目の前にいる弱りきった男の姿と、発せられた言葉が私の何かを刺激した。
本来ならば、この男が弱ろうがどうなろうが構わない。知ったことじゃない。
寧ろ、この日が来るのを望んでいたはずだ。
全部、思い出した時。男が藻掻き苦しめばいいと。自分の罪への後悔に埋もれてしまえばいいんだと。
その望み通りの光景が、今、目の前にある。
待ち構えていた瞬間だ。冷ややかに笑って見下ろしてやればいい。
なのに、猛り狂う感情が頭からの指令に従わない。連動してくれない。
『忘れる』と言った男の言葉が私の理性を打ち破り、勝手に言葉が躍り出る。
「私に、責められたい? そんなに責められたいの? 責められれば少しは楽になるとでも?
だとしたら、私は一生あなたを責めたりかしないっ! 私に悪いって、一生後悔し続けながら生きればいいのよっ!」
叫ぶ私を、道明寺が驚きを貼り付けた顔で見る。
でも、一度爆発した感情は収まりがつかない。
「17歳だった私は、この部屋であなたに傷つけられた。弄ばれて、そしてあなたは何事もなかったように、何も言わずにNYへ行ったわ。私を捨てたのよ。飽きたおもちゃを捨てるのと同じようにね! それからは、夢中で勉強や仕事に取り組んできた。何故だか分かる?」
道明寺の答えを待つでもなく、勝手に続ける。
「全てはあなたを見返すため、ただ、それだけのためよ! 弄ばれた女でも、男に負けない力を手に入れ見せつけてやる、その一念だけでね!
でも流石に、私も挫折しそうになったこともあったわ。女が一人、何の後ろ盾もなく這い上がるのは、相当な努力をしなければならなかった。
でもね、そんな私を支えたのは、他でもない⋯⋯、あなたよ。同じNYであなたの噂や、世間の賞賛を浴びて自信に漲るあなたをニュースや雑誌で見る度に、私は自分を奮い立たせてここまできたの!」
道明寺は、もう私を見てはいなかった。力をなくしたように頭を垂れている。
「私に申し訳ないって気持ちがあるなら、あなたは道明寺司のままでいなさいよ! 生きてく糧がなければ、十年以上も掛けて積み重ねてきた経験も努力も、全部が無駄になるじゃない!
私の人生、これ以上壊さないで! いつまでもそんな弱々しい姿なんて見せないでよ! あなたは、どんな時だって道明寺司のままでいて。私に憎まれ、見返してやるって思わせる存在のままで!
⋯⋯じゃなきゃ⋯⋯私が、困るのよ」
漸く理性が感情に追いつき、気持ちにブレーキを掛ける。
何とかいつもの自分を取り戻した私は、ビジネスモードで告げた。
「明日の会議は、午前10時からです。それまでに、そちらの資料全てに目を通しておいて下さい。では、私はこれで」
早足に出口へと向かい、もう道明寺を振り返ることはしなかった。

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