手を伸ばせば⋯⋯ 35
久々にゆっくり過ごす日曜日。
雲一つなく晴れ渡る空を窓から眺め見る。
これなら洗濯物もあっという間に乾きそうだ。
今日は朝から洗濯をし、掃除をして。日頃、仕事に殆どの時間を費やしている私にとっては、家事をするのも休息となる。
全ての家事を終わらせてから遅い昼食を一人で取り、後片付けをしているところにスマホが鳴った。
画面を見れば、珍しい人からの電話だった。
『もしもし、つくし?』
「優紀⋯⋯久しぶり」
優紀との電話は本当に久々で、帰国祝いの時に連絡先だけは教えてはいても、掛けたことも、掛かってきたことも一度もない。
留学する、と伝えた時以来だ。
「何かあった?」
『うん、実は⋯⋯。あ、でも、忙しいようならまた改めるから』
「大丈夫よ。今日は久々の休みで家にいるから、気にしないで? ただ、優紀から電話なんて久しぶりだから、何かあったのかと思って」
『うん。つくしにね、訊いてもらいたいことがあって。つくし、これから出て来られる?』
「優紀、今どこにいるの?」
優紀は既に外出していて、私が住むマンションから、そう遠くない場所にいた。
優紀がわざわざ連絡してきたくらいだ。よっぽど大事な話のはず。
外で話すよりも、人目の気兼ねがない場所の方が良いだろうと、家に誘うことにした。
そういえば、この家に誰かが来るのは初めてだ。
引っ越し時の美作さん以外は⋯⋯。
そんなことを考えながらコーヒーを用意していると、程なくして優紀はやって来た。
「突然ごめんね、つくし」
「ううん、気にしないで」
優紀が手土産で持ってきてくれたケーキと淹れたてのコーヒーを出し、向かい合いに座る。
当たり障りのない話が暫く続き、話の区切りが見えたところで、私から切り出した。
「それで? 話って?」
うっすらと頬に赤みが差した優紀は、ゆっくりと口を開いた。
「実はね。最近、お付き合いを始めた人がいるの。そのことを、つくしに真っ先に知らせたくて⋯⋯。相手、西門さんなんだ」
え? と心の中で驚く。
「本当に西門さんと?」
うん、と恥じらいながら優紀は頷いた。
「ずっと思い続けていたって訳じゃないんだけどね、でも私の中のどこかに、いつも西門さんの存在はあったの。
西門さん、つくしが日本を離れてからも、たまに連絡をくれたりしてね。西門さんもつくしを心配してたし、私のことも気に掛けてくれてたの。
それで、つくしたちが帰ってきて集まった日、あ、やっぱりこの人しかいないって気がついて⋯⋯」
「そう⋯⋯でも、」
「分かるよ、つくしが心配になるのも」
私の言葉を遮り、優紀は続けた。
「大変だと思う。育った環境も家柄も違いすぎるし、西門さんが今まで沢山の女性と付き合ってきたことも、気にならないって言ったら嘘になる。でもね、それを上回るほど好きな気持ちが勝っちゃうんだよね。だから、諦めたくないんだ」
そう言って柔らかく微笑む優紀はとても綺麗で⋯⋯。恋する女性は、こんなにも輝けるものなのかと、吸い寄せられるように見つめてしまう。
私には、無縁な話だ。
「つくし。私、どんなことがあっても負けないから。喩え、西門さんとの未来がなかったとしても、今のこの一瞬を大切にしたい。自分の気持ちに正直でありたい。怖がっていたら、何も手に入らないもの」
「⋯⋯優紀」
優紀の優しい強さに圧倒される。
「つくしも逃げないで欲しい。少なくとも、自分の気持ちから逃げたりなんかしないで?」
「別に逃げたりなんか⋯⋯」
力の入らなかった小さな反論は、耳にまで届かなかったのか、
「あー、良かった! つくしに直接報告できて」
この後にも予定があるらしい優紀は席を立った。
「私、そろそろ行かなきゃ。ねぇ、つくし。また電話したり会ったり出来る?」
眉尻を下げて不安そうに待つ優紀に、「うん」と答える。
「約束ね!」と、不安そうな顔を消し去り憂いのない笑みを見せた優紀は、きっとこの後、西門さんと約束をしているのかもしれない。
またね、と言い残した優紀は、急いだ様子で帰って行った。
優紀が帰ってから、どれくらい時間が経っただろう。
雲行きが怪しくなり洗濯物を取り込んでからは、何をするわけでもなく、ただぼんやりと煙草をふかし意味もなく窓の外を眺めていた。
けれど、いつまでも無駄に時間を消費しているわけにはいかない。
気持ちを切り替え机に向かい、週明けから始まる重要な打ち合わせや会議に必要な書類に目を通していく。
訂正箇所を認めて、直しに掛かろうとした時、部屋のチャイムが鳴った。
勧誘だろうか。
確認するためにモニターの前に立てば、小さな画面には道明寺が映っていた。
どうして家にまで?
眉を顰めながら、モニターのスイッチを押す。
「何の御用でしょうか」
『話があるから開けろ』
「明日、会社で窺います」
『バカか、プライベートな話だ! 開けねぇんならここで騒ぐぞ?』
本当に質が悪い。子供より始末に負えない男だ。
言いなりになるのは癪だけど、騒がれても困る。
スイッチを乱暴に押し、仕方なくオートロックを解除した。
✾
次に食事に行く時には、改めて自分の想いと牧野の気持ちを確かめるつもりでいたってのに、全くそのチャンスを作れないでいた。
外せない仕事が重なり、食事に行くどころか自分の飯を摂る時間さえ危うく、漸くまともな時間が作れたのは今日、日曜日になってだ。
休みの日に牧野を呼び出したところで出て来てくれる可能性は低い。
かといって、また別の日に時間が作れるまで待つのも、気持ちが落ち着かねぇ。
俺が動けねぇ間に類が牧野に近づいてるんじゃないかって思うと居ても立ってもいられず、遂に俺は、牧野のマンションまで訊ねるという手段に出た。
エントランスで脅しを掛け、何とかマンション内に入り込む。
牧野の部屋の階へと辿り着けば、開いたドアに寄りかかる牧野が、冷たい視線を引っさげ俺を待っていた。
こんなところまで何の用だ、と冷たい目が言っている。
「上がってもいいか?」
牧野は黙ったまま部屋に入ろうとするが、何も言わないってことはOKだろ。すかさず牧野の後を追った。
初めて上がった部屋の中は無駄なもんがなく、シンプルを通り越して殺風景。
唯一、リビングの片隅にある机の上にだけ、物が多く置いてある。
沢山の本と資料の山。と、その脇には煙草。それに、起動したままのPCだ。
突っ立ったまま部屋を見渡し終わった俺は、
「休みだってのに仕事してたのかよ」
キッチンにいる牧野に声を掛けるが、やはり無視。押しかけて来たのを怒ってるらしい。
キッチンから出てきたかと思えば、ローテーブルにブランデーと氷、グラスを置き、ニコリとも笑わずすげなく言う。
「飲みたければ勝手にどうぞ」
俺が惚れてる女は、どこまでも愛想が悪りぃ。
注ぐくらいしてくんねぇのかよ。世話好きなあきらなら、直ぐに作ってくれるぞ。
拗ねたように牧野を見てもどこ吹く風、
「要件は?」
さっさと用事を済ませろとばかりに言ってくる。
「そんな急かすなよ。それよりよ、この部屋に類は来たことあんのかよ」
牧野の部屋に意外にもすんなり上がり込めたことで、もしかしたら他の男も? と心配と不安と最大の嫉妬が湧き上がり、訊かずにはいられなくなる。
「ないけど、そんなの道明寺には関係ないでしょ」
「あるだろ」
「私の部屋なんだから、とやかく言われる筋合いはないわ」
尤もだが、俺が気にいらねぇんだよ。
「惚れてる女が他の男を連れ込んでだとしたら、面白くねぇに決まってんだろ」
俺はここに来た目的を果たすために、想いを言葉に乗せていく。
「俺がおまえに惚れてんのは、おまえもよく知ってんだろ? けど、改めて言う。俺は牧野が好きだ。どうしようもねぇほどおまえに惚れてる。牧野に再会して半年、俺の気持ちは膨れる一方だ。
なぁ、牧野。おまえは? おまえの気持ちはこの半年で少しも変わらねぇ?
俺のこと、一人の男として見るつもりはねぇか?」
黙ったままの牧野は窓辺へと近づき、外に目をやり俺に背を向けた。
「牧野の気持ちを訊かせてくれ。まだ俺を許せねぇか?」
「⋯⋯半年前と何も変わらない」
俺に顔を向けないまま告げられた言葉に、一瞬、気持ちが塞ぐ。
だが、諦めるわけにはいかねぇ。
「そうか⋯⋯。じゃ、質問を変える。牧野、俺のことが嫌いか?」
返事がないことで生まれた長い沈黙の中、牧野は机の上に置いてあった煙草に手を伸ばし、それを咥えた。
煙を吐き出した牧野はまだ窓を向いたままで、乏しい表情と言えども全く見えずでは、何を考えているのか探りようもない。
いよいよ沈黙に痺れを切らし声を掛けようとした、その瞬間。
スコール並の激しい雨音と共に稲光が走り、大きな雷鳴が轟いた。
窓辺にいた牧野は、まともに光を食らったせいか「きゃっ!」と小さな悲鳴を上げる。
日頃、弱さを見せない牧野でも、怖いモンはあるんだな。
それが可愛いやら、可哀想やらで、とにかく放っては置けなくて、直ぐに牧野に駆け寄る。
今の牧野が悲鳴なんて、と内心で呟き小さく笑ったところで、再び眩いばかりの光が差し込み、『牧野の⋯⋯悲鳴?』ふいに何かが脳の片隅に引っかかった。
続けざまに突き刺す雷光。
その光が刺激となったのか、急に頭痛に襲われ、あまりの痛みに頭を抱え目を瞑る。
そして突如──────。
『いやぁーーーーーーっ!』
頭の中を悲鳴が占拠した。
痛みと共に、聞き覚えのある声が脳内を震わし迸る。
『止めてっ!』
必死に叫ぶ少女の声。
何度も何度も繰り返される悲鳴と、徐々に脳裡で形を成していく映像。
霞がかっていた少女の顔が、ベールを剥ぐようにクリアになり、
『────道明寺お願い! お願いだから止めてぇっ!』
はっきりと、少女の姿が俺の瞼の裏に映し出される。
「道明寺⋯⋯? どうしたの?」
「⋯⋯⋯⋯」
「どこか痛むの? ねえ、道明寺!」
抱えていた頭を持ち上げ、ゆっくりと開いた瞼。
様子のおかしい俺を、焦りを滲ませ見る大人になった牧野の顔と、頭の中で泣き叫ぶ制服を着た少女の顔が、
──────今、一つに重なった。
『煩ぇっ、黙れっ!⋯⋯抱いてやるよ、おまえの望み通りに』
空白の記憶が再生されていく。
押し倒した制服姿の牧野に押し掛かり、怯えるのも構わず怒鳴りつける自分。
泣いて抵抗する牧野を無理やり抱き⋯⋯
『いつまでそうしてる気だ。動けねぇほど良かったかよ。それともまだ抱かれ足りねぇのか?』
冷酷な言葉で斬り付けたとき、牧野の瞳から────輝きが消失した。
次々と浮かび上がった記憶に戦慄する。
俺が⋯⋯、俺が⋯⋯奪ったのか。
牧野から笑顔を。全て俺が⋯⋯。
「道明寺、しっかりして!」
普通じゃない俺に一途に視線を向ける牧野は、体に触れようと手を伸ばしてくる。
何でだよ⋯⋯、そんな目で見るなよ。心配そうな、そんな目で。
直視できなくなった俺は視線を逸し、伸ばされた手から逃げるように後退った。
「⋯⋯悪かった、牧野」
「え?」
「俺が⋯⋯、俺がこの手で奪った⋯⋯牧野の笑顔を。
全部、思い出した。⋯⋯牧野を好きになる資格なんて、俺にはなかったんだな。悪かった⋯⋯。本当に済まない」
気配で分かる。牧野が背を向けたのが。
自分の犯した罪の大きさに吐き気を覚えた俺は、口元を押さえながら、力を失った縺れる足で牧野の部屋を後にした。

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