手を伸ばせば⋯⋯ 31
帰宅した部屋の明かりも点けずにソファーに身を沈める。
⋯⋯疲れた。
先ほどまで一緒にいた男のせいで。
道明寺に渡したプレゼントは、高級ボールペン。
今までも、取引先や仕事で関係ある人たちにプレゼントを贈ることはままあった。
だから特別な意味などないと説明したのに、破顔するあの男は聞く耳持たず。
送ってくれる間中も機嫌の良い男は何かと騒がしく、このマンションに着くまでそれは続いた。
久々に見た少年のような笑顔。
道明寺の18歳の誕生日にも、同じ顔を私は見ている。特別、上手に出来たわけでもない、手作りのクッキーを渡したときに。
あれだけの立場にいる男だ。昔の比ではないほど贈り物なんてもらってるはず。
それ以前に、欲しいものがあれば幾らだって自分で手に入れられる。その男が、あんなプレゼント一つで大喜びするだなんて。
29歳なる大人になった今でも、無邪気に笑える男なんだと知って、正直、驚きを隠せなかった。
抱きしめられて、キスをされて⋯⋯。
突き飛ばそうと思えば出来たはずなのにそうしなかったのは、驚きが先行して反応が遅れたせいか。
⋯⋯止めよう。
考えるなんて不要だ。たいしたことじゃないのだから。
事故だと思えば良い。
気にすることも、目くじら立てて怒ることもない程度の出来事。
記憶に留めて置く必要すらない。
意図して思考を切り上げ立ち上がると、身体にも気持ちにも溜まった疲れを取り除くために、バスロームへと向かった。
✾
「牧野⋯⋯?⋯⋯おはよう」
朝一でプロジェクトチームの部屋に顔を出した俺は、牧野に近づき恐る恐るの態で声を掛ける。
「おはようございます」
「あ、あのよ。昨日は大丈夫だったか?」
「⋯⋯⋯⋯」
軽~く無視だな。
「悪かった、送り役を勝手に変えて。司がな、どーしても自分で送るって聞かなくてよ。分かるだろ? あいつが一度言い出したら、それは絶対だ。それに、司がいれば変な輩が近づいてくる心配もないしな」
「お陰で一番厄介な相手に捕まりました」
申し訳ない、と心で謝り、パナマ・ゲイシャの最高級豆を使ったコーヒーを、牧野の前にそっと置く。
「なぁ、牧野? 俺ってここの副社長だよな?」
不審げな顔で俺を見てくる牧野。
「私の記憶に間違いがなければ、そうだと思いますが」
「あぁ、そうだとも。牧野の記憶に間違いはないぞ! その立場にある俺がだ。こうしてコーヒーを差し入れてるわけだから、とりあえず機嫌直してくれないか?」
立場に物言わせようとしながら口調は弱腰。何とも格好が悪い。
再び牧野がチラッと俺を見た。
「私、元々機嫌は悪くないのですが⋯⋯。コーヒーありがとうございます。いただきます」
え、怒ってねぇのか?
すげぇー分かりづれぇぞ、その顔!
何はともあれ、怒ってないんなら良かった。
怒りの矛先がこっちに向かってくんじゃないかとヒヤヒヤしていた俺は、ホッと胸を撫で下ろした。
ホッとした途端に、さっきの牧野の言葉が気になる。
牧野は、司に捕まったと言っていた。もしかして司のヤツ、送るだけじゃ足らず、どっかに連れ回したのか?
「牧野、あれからどっかに拉致られたか?」
「えぇ。強引に飲みに連れて行かれました」
へぇ、牧野と司が二人で飲みに。
⋯⋯うん、悪くない。
牧野に気付かれないよう、俺はひっそり笑った。
多少、いや、かなり強引なところがある司だが、二人の距離が縮まるならそれに越したことはない。
11年前は、向き合うことを途中棄権したんだ。
こうしてまた距離を詰めることで、牧野の中の負の感情も少しずつ変わるかもしれない。
「まぁ、たまには息抜きに飲むのも悪くないだろ。じゃ、仕事頑張れよ」
ここに来たときとは雲泥の差。
気持ち同様に足取りも軽く、俺は顔を綻ばせながら部屋を出た。
✾
ここ最近、司の機嫌がすこぶる良い。あのパーティー以来ずっとだ。
牧野と飲みに行けたのが良かったのか、さらには、そこで嬉しいことでもあったのか。もう二週間以上も経つというのに牧野効果は絶大らしい。
そんな二人は、仕事でも一緒にいる時間が長くなり息もピッタリだ。
司の仕事の遣り方は手際が良く、無駄なものは一切排除し、スマートにした形でスピードを上げていく。
それに付いていくのはなかなか至難の業で、余裕でこなしてるのは牧野だけだろう。
司が必要とした資料を先回りして用意していたり、司が求める情報も事前に集めてあったり。牧野は常に先を見越して動いているようだった。
しかし、これだけの働きぶりだ。見えないところで相当な努力をしているだろうと推し量れる。
おそらく自宅に帰ってからも牧野は、仕事を頭から切り離していない。
自宅でできる仕事があれば、休みも取らずに取り組んでいると思われた。
そんな牧野を司も心配している。
牧野は、以前から昼飯を飛ばしてデスクから離れないことがあったが、最近はその回数が増えたと松野からも報告を受けている。
だから司は、仕事で牧野と一緒の時には、騙し討ちだろうが強引だろうが、あの手この手で食事に連れて行っているようだ。
帰国したときよりも少し痩せた牧野。
自分を労っているようには見えず、いずれ無理が祟るんじゃないかと、司が心配するのも無理ない。俺だって同じだ。
ただ、二人が仕事だけじゃなく、食事まで一緒にしているとなると、面白くないと思う奴が中にはいる。
司狙いの女たちだ。そこだけが少し気がかりだった。
そんなある日の今日は、午前中から道明寺HDで司と二人、プロジェクトを世間に発表するための最終確認を行っている。
滋は後から参加。牧野もまだうちの社で仕事をしているが、午後からはこっちに出社する予定だ。
今日のように牧野がここにいない時、プロジェクトに関する急ぎの仕事は道明寺の社員がカバーしていくわけだが、資料一つ作るにしても牧野と同じようにはいかなかった。
プランの発案者である牧野は、多角的な観点から、成功へ導くプロセスを計算し尽くし頭にインプットしているのだから、それと同じ働きをしろというのも酷な話だ。それだけ牧野は抜きん出てる。
そして今も、司が頼んだ資料を持った女性社員が、この支社長室を行ったり来たり。もう何往復目になるのかも分からないほど、リトライの嵐を受けている。
「司、牧野がやるべきなんじゃないか?」
女性社員がまたやり直しを命じられたところで司に言う。
何度も訂正されては、あまりにも不憫だ。
「しょうがねぇだろ、これぐらい出来ねぇと。大体な、牧野が一人で抱えてる仕事量が多すぎんだよ。他の奴らに振れるもんは振らねぇと、牧野の体が保たねぇ。
⋯⋯にしてもだ。牧野なら、あっという間に片付けんだろうな」
司は重い息を吐き出した。
「まぁな。でも、今回のプランに関しちゃ牧野は発案者だ。隅々まで知り尽くして抜かりなく頭に叩き込んであんだから、比べるのは気の毒だぞ? あの社員だって、本来は優秀なんだろ?」
「ああ。将来有望視されてる」
「だろ? ああいうタイプの女性はプライドが高いから扱いには気をつけろよ。しかも俺が見る限り、あれは間違いなくおまえ狙いだ」
「気持ち悪りぃこと言うんじゃねぇよ」
散々、女を取っ替え引っ替えしてきた男の台詞とは思えない。
と、その時、テーブルの上に置いてあった俺のスマホが鳴った。
「司、悪い。電話だ」
相手は牧野。
仕事の確認の電話だったが、既にこっちに出社していると訊いた俺は、念のため司に確認を取る。
「司、牧野がこっちに着いたみたいだけど、さっきの資料どうする? 牧野に頼むか?」
束の間、司は思案し、
「しょうがねぇか。牧野に頼んでくれ」
溜息交じりに言った。
「牧野。悪いが支社長室まで直ぐに来てくれ」
電話を切り、牧野の到着を待つ。が、その前に、また先程の女性社員が資料を片手にやって来た。
一応、司は差し出された資料に目を通すものの、その顔を見れば一目瞭然。またもや納得いく出来ではなかったらしい。
そこへ、ドアがノックされ牧野がやって来た。
「失礼します。お呼びでしょうか」
⋯⋯これって、タイミング悪くないか?
なーんか、嫌な予感がする。
司は資料に落としていた顔を上げると、一度女性社員を見てから牧野に視線を流した。
「牧野、悪いがこれを作り直して欲しい。30分で出来るか?」
おいおいおいおい。俺はさっき、プライドの高そうな女の扱いには気をつけろ、と言ったはずなんだが。
こんな露骨すぎる言い方じゃ、女性社員の立場がないだろうが。
牧野も何かを感じ取った様子だったが、責任者である司に命じられれば断れるはずもなく、「分かりました」と書類を受け取る。
「そこのパソコン使ってくれ」
指示に従い牧野がPCに向かうが、幾らなんでも配慮に欠ける。
女性社員は行ったり来たりを繰り返してきたのに、牧野にはこの場所での作業を許し、それを目の前で見せられては、女性社員の立場もなければ自尊心だって傷つく。
信用している者しかこの場所に留め置けないのも分かるが、せめて女性社員を下がらせてから牧野に指示出すべきだった。
危惧したとおり、女性社員が声を昂ぶらせた。
「支社長、お願いします! ここまでやって来たんです。最後まで私にやらせて下さい!」
「いや、もういい。おまえが悪いわけじゃない。忙しい思いをさせて済まなかった」
女性社員の必死の形相に、流石の司も気付いたんだろう。配慮が足りなかったと。
納得がいかない女の当たり所が牧野に向かないようにするためか、珍しく謝罪までしている。
しかし、プライドの高そうな女は、大人しく引き下がってはくれなかった。
「こんなの納得できません! 牧野さんも、支社長や美作副社長に気に入られてるからって、調子に乗らない方が良いわよ」
遂には矛先が牧野に向かい、直ぐさま司が口を挟む。
「何をくだらないこと言ってる。もう用はない、下がれ」
牧野を攻撃されたからか、司の声は威嚇するように低くなった。
それでも女は動かない。
巻き添えを食らった牧野はというと、既に仕事に取りかかっていて、自分の名前が出されても我関せずの完全無視。
PCの画面から目を離さずに、キーボードを打つ音だけがやけにカチャカチャと目立つ。
その態度もまた、女の苛立ちに拍車をかけたようだ。
「牧野さん。あなたが何て言われてるかご存知? 体使ってのし上がってきたって専らの噂よ? 支社長とも関係があるんでしょ? どんなに出来る女気取ったって、やってることは売春婦と一緒じゃない!」
ここまで侮辱されているのに、牧野は全く気に留める様子もない。
黙っていられないのは司だ。
「言って良いことと悪いことがあんだろうが! 牧野に謝れ!」
「どうして彼女を庇うんですか!」
「おまえ、本気で俺を怒らせてぇみたいだな。もういい! 明日から、いや、今すぐおまえにはこのプロジェクトから外れてもらう」
女性社員の眦が吊り上がった。
「だったら尚更、遠慮せずに言わせてもらいます! 三年前、一度だけあなたに抱かれました。私が道明寺の社員とは知らず、その後も気付いても下さらず⋯⋯。私と彼女とやってることは大して変わらないのに、どうして牧野さんばかり肩入れするんですか!」
⋯⋯マジかよ。
てか、その顔。全く覚えてねぇって顔だな。
司が眉をピクリと動かし固まった隙に、攻撃の矛先は再び牧野に向けられる。
「あなた、一体どんな手を使ったのよ! あなただって支社長と寝てるんでしょ? 私と同じことしてる癖に何が違うのよっ! 何とか言いなさいよ! いつまで気取って黙ってるつもりなの!」
そこまで言われて初めて牧野は、椅子をゆっくりと回転させ女と向き合った。
女を捉える瞳は、一段と磨きのかかった冷ややかさで、自分が睨まれたわけでもないのに俺はゴクリと唾を飲む。
「あなたみたいな人がいるから、まだまだ女性の地位は甘く見られるのよ。悪いけど、あなたと同じにしないで。支社長と寝るなんて冗談でしょ。時間が勿体ないわ。体を張るなんてくだらない真似しなくても、周囲を納得させるだけの力をつけてきた、それだけのことよ。
自分の不出来を人のせいにして気が済むなら、どこで何を吹聴してくれても構わないけど、これ以上、仕事の邪魔だけはしないでくれるかしら」
決して声を荒げたりはせず、けど、氷のような視線で刺し、とことん辛辣に言い放った牧野は、再び椅子を回転させ何事もなかったように仕事を再開した。
血が上った女とは対象的な態度。女に向けた痛烈な言葉の途中、寝るなんて冗談でしょ、と一緒に斬り付けられた司は完全フリーズ。
過去に関係を持った一夜限りの女と、この世で一番愛しい女の戦いは、司にとっては身の毛がよだつ地獄絵図。
牧野にまともに相手にされなかった女の方は、悔しさからか整った顔が無残に歪み、
「許さない⋯⋯絶対に許さないっ!」
捨て台詞を吐いて凄い剣幕で出て行った。
────喧噪の後の静けさ。
司からはビシバシと緊張が伝わってくる。
つーか、社員にまで手を出すな!
「⋯⋯ま、まき⋯⋯牧野」
牧野が相当怖いらしい司は、それでも勇気を振り絞ったのか、おどおどしながらも声を掛けた。
「良いんですか、追いかけなくて。彼女だったんでは?」
画面を見たまま話す牧野に、「彼女じゃねぇっ!」途端に声を荒らげて否定するのは、追い詰められたバカ男。
「ですが、支社長と関係があったようですし」
「ちがっ、いや⋯⋯、ち、違くねぇ⋯⋯かもしんねぇけど⋯⋯違う!」
動揺と恐怖に包まれている司は、まともな言葉の組み立てが出来なくなったようだ。
『遊びはしたが気持ちはなく、牧野を想うのとは全く違う』言いたいのは、そんなとこだろう。
だが、訳しはしても牧野に通訳はしてやらん。司の自業自得だ。牧野の恐ろしさに打ち震えてろ。
「ま、牧野⋯⋯悪かった。⋯⋯嫌な思いさせて」
絞り出した司からの謝罪に、牧野は手を休めることなく答える。
「別に気にしてませんから。こういう言われ方は今までもありましたし、女性が仕事で這い上がろうすれば、よくあることです」
何度となく辛酸を嘗めてきたのだろう。
しかし、強い強いと思ってはいたが、ここまでとは。
「流石は、雑草のつくしちゃんだな。叩かれても負けないもんな」
未だ動揺と恐怖から抜け出せない司を尻目に、敢えて明るく言ってみる。
「ええ。英徳時代の非人道的な虐めに比べたら大したことじゃありません」
「うっ!」
しかし、返ってきたのは、まさかの皮肉。
更なる追い込みに、司の目は異常な早さで泳ぎ出す。
俺だって、どう反応すりゃいいんだ!?
余裕をなくす俺たちを知ってか知らずか、
「誰かさんたちのお陰で、随分と鍛えられましたから」
牧野は嫌味を上乗せした。
誰かさんたちの中に俺も入ってるのか?⋯⋯って、そりゃ入ってるよな。
結局、一纏めに撃沈され沈黙する俺たち。
ホラーでしかない無音の時に堪え忍ぶ男二人を気にもしてくれない牧野は、椅子から立ち上がると、誰かさんたちの中の首謀者に資料を渡した。
「も、もう終わったのか。さす、流石だな」
司は資料に目を落としているが、動揺を隠しきれてないぞ!
内容だって頭に入ってないとみた!
そこへ天の助けか、ノックと同時に大きな声が響き渡った。
「お疲れ! きゃーーっ! つくしも居たのねーっ!」
緊張を孕んだ空気を突き破ったのは、滋だ。俺は人知れず、詰まっていた息を吐き出す。
滋の顔を見てホッとする日が来ようとは⋯⋯。
例の如く滋は牧野に飛びつき、飛びつかれた牧野は苦しそうに噎せ込んでいる。
「滋てめぇ、牧野を殺す気か!」
司が牧野を救出すべく滋を引き剥がしにかかるが、滋のお陰で張り詰めていた空気は一変。今の俺には、滋が女神に見えた。
「ごめん、つくし。つくしって何か抱き心地いいんだよね、だからついね! ね、司もそう思うでしょ?」
要らぬことを言う滋に、まんまと反応して顔を真っ赤に染める司。
さっきまでは青褪めていたくせに、忙しい奴だ。
「あっ、そうだ! 忘れてた!」
もう一人の忙しい奴がドアへと戻り、外へ向かって叫ぶ。
「おーい、早く入って来なよ!」
「⋯⋯失礼します」
滋に促されて部屋に入ってきたのは、一人の男。年頃は俺たちの同じくらいか。
一同を順に見ていった男は、
「つく⋯⋯⋯⋯牧野」
牧野を見るなり驚いたように目を見開く。
この男、牧野を『つくし』と呼ぼうとしなかったか?
誰なんだ、こいつは。
司を見れば最早顔芸とも呼べる変わりようで、さっきまであった赤みは完全消失。代わりに出現した幾つもの青筋をピクピクと痙攣させていた。

にほんブログ村
- 関連記事
-
- 手を伸ばせば⋯⋯ 32
- 手を伸ばせば⋯⋯ 31
- 手を伸ばせば⋯⋯ 30