手を伸ばせば⋯⋯ 29
日頃、よっぽどのことがない限り、顔を合わせようとはしない司が私の部屋を訪れたのは、司が突然に倒れ、病院から退院した日のことだった。
ひと目見て気付く、倒れる前とは違う司の眼差し。
NYへ来てからというもの、こんな瞳を一度たりとも見たことがない。
いつだって司の瞳は澱んで昏く、一人の少女と出会う前、荒れていた当時の延長線上にあるような、世の中への絶望を常に纏っている目だった。
それが、記憶を取り戻したのではないか。そう一瞬で察せられるほど、記憶と共に失っていた感情が、瞳の奥に滲み出ている。
一人の少女と出会い、生まれ変わったあの頃と同じように⋯⋯。
あの事件さえなければ、司は絶望の淵を遠回りすることもなかったかもしれない。そう考えるほどに、後悔と懺悔は尽きることを知らない。
全ての責任は自分にある。仕事での強引な遣り口が怨恨を生じさせ、無関係な司に矛先が向かってしまったのだから。
結果、牧野さんにまで辛い思いをさせてしまった。
11年前。司の命が危ぶまれても、私は感情を露わには出来なかった。気持ちの出し方が、自分自身分からなくなっていたのもある。
そんな私に怒りを正面から叩き込み、手を上げた彼女。
その後も、己が間違っていたと思えば、私を追いかけ謝ってくる彼女の瞳は、どこまでも真っ直ぐで穢れを知らず、いつしか私は、司と同様に彼女に魅せられていたように思う。
彼女に与えた一年の猶予。しかし、司が彼女だけを忘れたことで意味をなくした。
記憶が戻らないまま自分の意思でNYへやって来た司は、過去に自分が理想としていた次期後継者の像そのものなのに、反して私の中を駆け巡るのは、不安を含んだ動揺。
司は勉強にも真面目に取り組み、やがて本格的に仕事を就いてからも抜かりはなかった。
次々と大きな仕事を成功へと導き地位を確立していった姿は、かつてなら理想とも言えたはずが、自分が犯してきた冷徹非道を凌駕するほどの手腕に心が曇る。
プライベートでは、女遊びを繰り返し手をつけられず、このままではいけない、と本格的に危機感を覚えた時。私は依頼した。牧野つくしの調査を⋯⋯。
そうして手に入れた調査内容は驚きの連続で、世界でも上位の大学に入れただけでも、彼女がいかに優れているのか証明するには充分なのに、就職した先はNYで名を馳せる一流企業。
しかし、そんなものを上回って、あの子が私たちと同じNYにいる。その事実に驚愕し、書類を舐めるように見ていた目を瞠った。
初めは司を追ってここまで来たのかと思いもしたが、どうも様子がおかしい。そう思ったのは、彼女を自分の目で確かめたからだ。
あの子が通勤で通る道で待ち伏せをし車内から眺め見た彼女は、幼さが抜け、洗練された美しい女性へと成長していた。
でも何かが違う、と違和感を覚える。
その正体は、車体の脇を彼女が通り過ぎる至近距離で見たとき、はっきりした。
表情には起伏がなく、まるで造られた人形のようで、彼女の特徴でもある大きな瞳からは、生き生きとした輝きはない。あるのは翳りか。
────まさか、あなたも司と同じように生きてきたと言うの?
司に似た瞳を持つ彼女に愕然とした。
彼女を調べようとしたのは、息子を心配するあまり、身勝手にも司には牧野さんしかいない、そう思ったからに外ならない。
愚かにも、司が再生できるよう力を貸して欲しいと、心の何処かで望んでもいたのだ。
なのにその彼女までが、こんな風になっていただなんて⋯⋯。
自分の罪深さを改めて思い知った。
いつか司が記憶を取り戻すことがあれば、息子はきっと今の牧野さんを知って傷つくだろう。
それでももし、司が牧野さんを求めようとするならば、私はもう何も言わない。
喩え、どんなに彼女が変わっていようとも、息子の望みを尊重しよう。
そう思っていた私の前で、確固たる意志を携えて頭を下げた司。
その時が来たのだ。
『頼む! 直ぐにでも俺を日本に行かせてくれ!』
『突然、何事ですか?』
『記憶が戻った。俺は牧野を取り戻しに行く。頼む、日本に帰らしてくれ! 駄目だと言われようが俺は行く!』
迷いのない目だった。
まるで命を吹き返したかのように強い決意が漲っている。
私は司が日本へ帰国出来るよう直ぐに動いた。
それは、親らしいことを何一つしてこなかった罪滅ぼしとも言えるし、11年前、未来ある若い二人の人生を歪める切っ掛けを作ってしまった、贖罪でもある。
もし二人が再びやり直せるのなら⋯⋯。
そう願う一方、二人が再会したところで、必ずしや明るい未来があるとは限らないことも知っている。
事実、今日会った彼女は感情が欠落したままで、運命の糸を撚り合わせるには厳しい状況だと言わざるを得ない。
それでも願わずにはいられない。息子の幸せを⋯⋯。
そして叶うならば、もう一度会いたい。
生命力に溢れた、光り輝く彼女に⋯⋯。
✾
「牧野っ!」
会場とは離れた場所にあるエレベーター。そこから牧野が降りてくるのを見つけ、血相を変えた司が突進して行く。
⋯⋯良かった、見つかって。
トイレに行ったっきり牧野が戻って来ず、心臓をバクつかせながら牧野を探す俺の異変にいち早く気づいた司は、状況を知るなり、今にも発狂しそうな勢いで動揺した。
会場にも化粧室付近にも居ない。
なら、もっと別の場所か。と探す範囲を広げたところで、牧野が姿を現したわけだ。
あわや、馬鹿な男に攫われたんじゃ⋯⋯、と不吉な考えもあっただけに、一先ずホッと胸を撫で下ろす。
「牧野、どこ行ってたんだ!」
牧野に詰め寄り言う。
「申し訳ありません。楓社長に呼ばれお会いしておりました」
「は? ババァだと? あいつになにか言われたのか? くそっ、勝手な真似しやがって!」
司が興奮するのも無理はない。
かつての仕打ちを思えば、警戒したくもなる。
だが、牧野の様子は至って落ち着いて見える。
尤も、今の牧野に落ち着きのない態度なるものがあるかは甚だ疑問だが⋯⋯。
「で、何も問題はなかったのか?」
興奮する司に割り込んで、牧野に訊ねる。
「はい。⋯⋯労い?⋯⋯アドバイス⋯⋯? とにかく、心配されるようなことはありませんでしたし、プロジェクトを頑張るよう言われただけです」
語尾を上げて話す辺り、牧野にしてみても奇異な出来事に思えたんだろう。
いきなり司のお袋さんに呼び出され激励されりゃ、そりゃ牧野だってびっくりするってもんだ。過去が過去だけに。
兎に角、厄介な状況に発展はしなかったようだ。
が、それじゃ納得しない男が一人。
「ホントか、牧野! ホントは何か言われたんじゃねぇのか? 隠さずちゃんと言えっ!」
「今更、楓社長が何を言うんです? 支社長と私は関係がなく何もないんです。楓社長が口を挟む必要性がありません。昔とは違うんですから」
「関係がない、か⋯⋯そうだな」
冷たく言い放たれ、らしくない司の小さな声が哀れみを誘う。
しかし、どこまでも牧野は容赦なかった。
「安心して下さい。これから先も支社長との関係が変わることはありませんから、楓社長への警戒も不要です」
「安心しろ。いつかおまえのその言葉を覆して、ババァからも守ってやる」
経った十数秒で瞬く間に立ち直る司。変わり身が早すぎる。哀れんだ俺の同情を返せ。
しかし、こんなところにいつまでもいる訳にはいかない。
「司、いい加減戻るぞ。主役が居なきゃ大騒ぎになんだろ」
頷いた司は、同時に牧野の手首を掴んだ。
「これからは、俺と一緒に回るぞ。俺といれば、ヤロー共も簡単には近づいてこねぇ」
「いえ、結構です」
「駄目だ! もう我慢ならねぇ! さっきだって散々囲まれてたじゃねぇかよ! あんな奴ら相手にすんの疲れんだろ?」
おまえの相手すんのが、牧野は一番疲れんじゃないのか? と、心で素朴な疑問を語る俺の前を、
「心配だから、俺といろ! 分かったな!」
牧野の手を離さないまま、司が力強く歩き出す。
どうやら実力行使に出たようだ。
引きずられる格好になった牧野は、背後を歩く俺を振り返る。
その顔は、毎度同じみの感情が読み取れない表情で。だが俺には分かる。『何とかしろ』と訴えているのが。
でも、俺は気づかないふりをした。
「前を向いて歩かねぇとぶつかるぞーぉ」
俺がそう返せば、牧野の眉が寄った気がするが、きっと気のせいだ。何かの間違い、気にし過ぎ。
それでもなくても既に疲労困憊。深く考える余力のない俺よりも、司と一緒にいてくれれば安心安全、俺の負担も軽くなる。
牧野は女狐に睨まれるかもしれないが、大丈夫だ。今のお前なら負け知らず。おまえの方が絶対に強い。
だから、
「頑張れよ〜」
心からのエールを生温く送った。
更に牧野の眉間の溝が深まったように見えたが、多分、これも気のせいだ。きっとそうに違いない。
こんなに疲れるパーティーも珍しいが、それも漸く終わった。
牧野を見つけて会場へ戻った後も、俺の元へは牧野に興味を持ったヤツが次から次へと現れて、情報を聞き出したがる者への対応で精一杯の忙しなさ。
近づいて来てくる女性だっていたのに、話す隙さえなく、お知り合いになる機会も潰された。
そんなこんなで疲労感満載な俺は、着替えている牧野を待っているところだ。
牧野を自宅まで送り届ければ、俺の本日の任務は無事終了。
なのに、俺の目の前に現れたのは、今夜の主役の司だった。
「あきら、牧野を送ってくんだよな?」
「ああ。何かあったか?」
「牧野を送る役、俺に譲れ。あきらは、もう帰っていい」
簡単に言うがな、牧野が納得すると思うか?
それでなくとも、パーティーでは司に連れ回され、あいつの機嫌は絶賛低下中だ。
傍迷惑なことに牧野は、女たちからの恨み妬みが籠もった目を散々向けられてきたんだ。神経だってピリピリと尖ってんだろうよ。
そんな牧野を司に託したとして、明日の俺の身の安全は、誰が保証してくれるんだ!
冷たい視線の脅威に晒されるのは俺だ!
「今日は諦めろ。おまえに連れ回されて牧野の機嫌が良いはずがないだろ。牧野が大人しく送られるかよ」
「んなもん、抱えて無理やり車に押し込んじまえば済む。あきらには迷惑かけねぇよ」
司なら牧野を抱えるなんて朝飯前。いざとなったら本当にやる男だ。
それに、言い出したら聞かないのも良く知っている。
反論する元気も残っていなかった俺は、『悪い、牧野』早々に牧野を見捨て心の中で謝罪した。
「しょうがねぇな。でも、あんまり牧野を怒らせるなよ?」
「するかよ。つーか⋯⋯、昔みてぇに顔真っ赤にして、殴るなり蹴るなりして怒んなら、寧ろ嬉しいんだけどな」
司の微笑みが儚げで、悲しそうで。結局、そんな親友の姿に弱い俺は、「ああ、そうだな」とコクリ頷く。
「そういう日がいつか来るといいな。今の牧野は、冷ややかな目で静かに怒んだよ。俺はそれに堪えられん! おまえは堪えて頑張れよ!」
じゃあな、と付け足した俺は、メープルを後にした。
帰る道すがら、一人になり襲われるのは、一抹の不安。
キラリと眼光を光らせる牧野を想像して、明日はとびきりのモーニングコーヒーを差し入れしよう、そう決めた。
決して、機嫌取りなんかじゃないぞ。部下を思いやる優しい上司の気遣いだ。
誰もいないのに、ひたすら心の内で言い訳を重ねながら、俺の長かった一日は終わっていく。

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