手を伸ばせば⋯⋯ 24
【第3章】
「⋯⋯ゃ⋯⋯ぃゃ⋯⋯⋯⋯いやーーっ!」
自分の悲鳴で飛び起き、バサッと勢いよく布団を撥ね除け荒い息を吐く。
呼吸が乱れて息が苦しい。
右手を胸に押し当て、ゆっくりと深呼吸を心がける。
いつものことだ。
長いこと私を苦しめる夢。
視線の先には太陽に照らされ凶悪に光る鋭利な刃物。
段々とそれは近づき何かに突き刺さる。
茫然と立ち尽くす私の視界には、アスファルトに広がる赤い血の海と、そこに頽れるシルエット。
そこでいつも私は目を覚ます。
夢とも現実とも分からず慄く自分の悲鳴に驚いて。息を荒くし起きれば、いつだって頬は濡れている。
十年以上前からよく見るこの夢。
ここ暫くは見なかったのに、久々に道明寺に会ったからだろうか。
久々に会った道明寺は、記憶を取り戻していた。
会議で顔を見たとき、直ぐに異変には気づいた。目つきの鋭さが違う、と。
だから、記憶が戻ったと訊いても驚きもしなかった。
運命とは本当に皮肉だ。
見返したい相手と漸く対峙出来たと思ったら、よりによって、このタイミングで思い出すなんて。
あまつさえ、都合の悪いところは忘れたままとは、滑稽がすぎて笑い話にもならない。
ここまで這い上がり、女でも男にも負けない能力を得ることが出来る。自分が弄び馬鹿にした女の今の姿がこれだ。そう見せつけてやりたかったのに⋯⋯。
呼吸は落ち着き、代わりに左手がシーツを掴み、皺を作っていた。
でも、いい。
胸に押し当てていた右手を離し気持ちを切り替える。
やるべきことは何も変わらない。自分の持てる力を全力で発揮すればいい。
ただの高校生だった私が手に入れた力を、あの男の前で証明するだけ。
そして、いつか。
もしも、先の未来で全てを思い出す日が来れば、その時は⋯⋯、苦しめばいい。
全てを思い出す日、初めてあの男は罪の深さを知る。
時計を見れば、まだ5時前だった。
起きるのにはかなり早い時間だけれど、一度起きてしまうともう眠りには付けない。これもいつものこと。
ベッドから降りてカーテンを開け、ソファーに移り膝を抱える。
ぼんやりと眺める窓の外はまだ暗く、夜明けの遅い冬の朝日の訪れを、ただひっそりと静かに待った。
❃
ベッドに横になりながら、吐息を吐く。
一睡も出来なかった。
久々に会った、誰よりも何よりも大切な女の残像が脳裏を占領し、ついに眠気はやってこなかった。
残像は二つ。現在と過去。
弾ける笑顔と、感情を削ぎ落とした無の表情。
重なり合わない、二つの顔を持つ一人の女。
あれからもう直ぐ11年。
人が変わるには充分すぎるほどの時間が流れてたってことだ。
冷たい視線。頑なまでの拒絶。吐き出される言葉は耳を塞ぎたくなるもんばっかで、昔とは違うって現実だけをまざまざと見せつけられた。
尖った声に抉られる胸。
確かに存在した幸せな思い出もまるごと闇に葬られるような、残酷な現実。
絶望に打ちひしがれ、頭が真っ白になりそうだった。
牧野だけを忘れ牧野を傷つけた俺への、与えられたこれが罰。
当然の報いだ。
だが、この痛みこそが11年前に牧野が味わったもんだ。
今こそ、牧野が受けたあの時の心の傷を、本当の意味で理解する。
ならば、俺はこの痛みを甘んじて受ける。牧野が負った傷を俺も負う。辛辣な言葉を、何度だって俺に突き刺せばいい。
それでも。
────やっぱり俺は諦めねぇ。
これが一晩かけて着地した思い。
出した答えは至ってシンプルだ。
牧野から笑顔が消えたんなら、取り戻すまで。
心を傷だらけに刻まれようが、牧野も、牧野の笑顔も、絶ってぇに俺が取り戻してみせる。
現実に怖気付いて落ちてる場合じゃねぇ。
牧野だってそうだったんだ。罵られて傷つこうとも、諦めずに俺の元へと通ってくれた。
俺だって諦められるか。どんなに冷たくあしらわれようが、あいつへの想いを抱えぶつかるだけ。胸の痛みすら牧野が近くにいる証だ。
どんな牧野であっても、俺にとっては唯一の女。牧野を諦める術なんて、どのみち知らねぇんだから。
腹を決めた俺はやる気が漲り、寝不足も全く気にならねぇほど、寧ろすっきりとした気分だった。
数日後。
検討の結果、プロジェクトは牧野のプランを採用。最終確認のために再び選抜されたメンバーに招集をかけ、牧野もうちのオフィスで打ち合わせ中だ。
牧野は、先日の俺との一件などまるでなかったような振る舞いで仕事に集中。必要とあらば、俺にも普通に話しかけ、あくまで公私は別と割り切っているようだった。
その打ち合わせも無事に終わり、まだPCを弄っている牧野よりも先に席を立つ。
牧野の背後を通り過ぎる時、素早く身を寄せ牧野の耳元にそっと告げた。
「諦めるつもりねぇから」
牧野はまるで無視で、PCに乗せた指の動きも全く乱れない。
でもいい。今日のところは、一先ず宣戦布告ってだけで。
それから数日は、俺も別の仕事が立て込んでいて、折角、牧野がうちのプロジェクト本部に顔を出してるってのに会えず仕舞い。
やっと今日、午前中の今から、プロジェクト関連にいずれ関わりそうな取引先に出向くってところで、漸く俺は仕掛けた。
「牧野、これから取引先に打ち合わせにいくから、同行してくれ」
「私が出向く必要はないと思いますが」
難色を示すのは予測済み。
「おまえがこのプランの発案者だ。顔は売っとけ、チャンスは逃すな」
最もらしいことを少しきつめに言えば、このプロジェクトの総指揮を執る俺の発言をいつまでも退けるわけにはいかないと判断したのか、何とか説得に成功。一緒に取引先へと向かった。
これは大事な事案だ。失敗は許されねぇ。
間違っても、取引先との打ち合わせのことじゃねぇ。この後、牧野とランチに流れ込めるかどうか。それが何より大事で、他に付随するもんは全部おまけみてぇなもんだ。
実際、外に連れ出す口実として、無理やり予定にぶち込んだ打ち合わせだ。
牧野の顔を売るには丁度良い相手ではあるが、長々居座るつもりはねぇ。そんなもん直ぐに終わらせてやる。
車中では、西田と別件のミーティングをしつつ、貝のように口を閉ざしタブレットを弄る牧野を盗み見しながら意気込んだ。
果たして、俺は目論見通り早々に打ち合わせを終わらせた。
時刻は昼を少し回ったところ。
取引先の社長から昼を誘われたが、冗談じゃねぇ。次の予定が入ってるからと間髪入れずに断り、牧野と西田と共に、再び車に乗り込んだところで切り出した。
「牧野、昼メシ付き合え」
「次の予定が入っているのでは?」
さっき取引先に言ったのを真に受けてるらしい。
だが嘘じゃねぇ。予定は入っている。
ランチする店、予約しちまってるし。
⋯⋯牧野には言わねぇけど。
「昼メシ食う時間くらい余裕である」
「折角ですが、お断りします」
そんなんで諦めると思うなよ?
「このまま社に戻れば、1時は余裕で回るだろうが。いいから黙って付き合え。俺とおまえが昼取らねぇと、西田も運転手もメシにありつけねぇんだよ、可哀想にな。⋯⋯西田、おまえ腹減ってねぇ?」
「はい。実は先ほどから気合いで抑えているのですが、今にもお腹の虫が騒ぎ出しそうでして。お昼を取って頂けると我々も助かります」
牧野が西田を見る。
西田も牧野に目を向け、無表情 vs 無表情の視線が交わった。
能面みてぇに表情が停止している者同士の対決は、
「⋯⋯分かりました」
牧野が折れ、生真面目秘書に軍配が上がる。
「すみません、牧野様」
「いえ」
「西田たちも好きなの食えよ。ご馳走してやる」
「ありがとうございます」
西田たちも誘えば、牧野も幾分は気持ちも楽になんだろう。勿論、席は別、店に入っちまえばこっちのもんだ。
こうして西田の協力を得て、予約時間通りに着いたイタリアンの店。
だが、しくじった。
「いらっしゃいませ、道明寺様。お待ちしておりました」
支配人の言葉に反応したらしい左隣から、ただならぬ気配を感じる。
「に、睨むなっ!」
隣を見下ろせば、氷のような視線が俺を遠慮なく突き刺し、おもわず仰け反る。
お待ちしておりました、は余計だ!
予約してたのがバレバレじゃねぇか。
「副社長、お言葉に甘えて私たちは、あちらの席で食事をさせて頂きます」
牧野の危険な香りを察知したのか、危機管理能力の高い西田は、運転手と共にテーブル席にさっさと移り、個室を予約していた俺を今度は見捨てた。
とはいえ、折角ここまできたのに、怯んでなんていられるか。
「んな怖ぇ顔すんな。ほら、行くぞ」
鋭さを持つ眼差しに堪え、牧野の腰に手を添え案内される個室へと促す。
きっと内心では不満タラタラだろうが、流石の牧野も今更ここで文句を言っても仕方ねぇと諦めたのか、大人しく個室へと入り席に着く。
だが、料理を注文し、二人きりになったところで、牧野は早速クレームを入れてきた。
「こういうのは、これっきりにして下さい」
「飯に誘うなってことか?」
「ええ。迷惑です」
迷惑なのは百も承知だ。
牧野の冷淡な態度に慄いて諦めてたら、俺たちの距離は縮まらない。
「俺、おまえに言ったよな?」
「何をでしょう」
「諦めねぇって」
「⋯⋯⋯⋯」
うんざりしたのか、小さな溜息を吐いた牧野は、窓の方へと視線を移し、真向かいに座る俺を見ようともしねぇ。
構わず想いを告げる。
「俺にはおまえしかいねぇ。17だろうが28だろうが関係ねぇよ。俺に愛情がねぇっつーなら、それでもいい。けど必ず俺は、失くした感情ごとおまえを取り戻す」
牧野は黙ったまま。一言も喋らず、バカみてぇに俺の声だけが空間に踊る。
生まれて初めて、人から完全無視されるっつう痛い経験を俺に味合わせた牧野は、料理が来てもなかなか手をつけず、
「料理に罪はねぇだろ? 早く食え」
言われてやっと口に運び出す。
その姿は品が良く、高校生の頃、何でも美味そうに食っていた、あの頃の可愛らしい面影はない。
あの懐かしい姿にも会いてぇが、目の前にいる今の牧野も凄ぇ綺麗で、思わず見惚れちまった俺は、無意識に呟いていた。
「⋯⋯綺麗だ」
チラリと牧野が目線を上げる。
「そんなに見られては、食べ難いんですが」
「あ、悪りぃ。⋯⋯つーか、その敬語止めろよ。何か落ち着かねぇんだよ。それよりよ、牧野。おまえ、俺のことどう思ってる?」
重い口がやっと開いたんだ。文句しか出て来ねぇ口ではあるが、チャンスは逃さねぇとばかりに、直ぐに質問で会話を繋げる。
牧野がナイフとフォークを静かに置き、俺を見た。
「その質問、美作さんにもNYで訊かれたわ」
「あきらが? で、何て答えたんだよ」
「かなり仕事が出来る男で遊び人」
⋯⋯ぐらっ、と気持ちがよろめく。
酷ぇ言われようだ。
つっても、否定も出来ねぇんだからどうしようもねぇ。
俺の黒目が無駄に泳いだ。
「あ、あのな? おまえを思い出してからは、女は全部切った。遊び人ってところは、認識改めてくれよ。
つーか、そういうことじゃなくてよ、他にもあんだろ?」
「別にないけど」
「良く考えろ」
「強いて言えば、初めての男。それ以外に思うところはない」
「⋯⋯⋯⋯」
何の感慨も含まれずに言われた『初めての男』。
思い出を語る風ではなく、記憶を正しく答えただけの無味乾燥で、かつての幸せな時間に対する思い入れなど、微塵も含まれちゃいねぇ。
「おまえな、そんな平然と言うんじゃねぇよ。少しは恥じらうとか、それか、あん時は幸せだったとか、懐かしいとか、少しは思い入れってもんがあんだろうが」
「あると思う?」
「っ!」
⋯⋯瞬殺。
真顔で瞬き一つもせずに言うな。マジで怖ぇから。
「さ、さっきから冷たくしやがって。冷たくあしらえば、俺が大人しくなると思ってんなら大間違いだかんな。俺のしつこさ舐めんなよ!
⋯⋯とは言え、流石の俺もへこむだろうが。ちっとは優しくしろよ」
俺の願いを聞き流した牧野は、ちっとも優しくしてはくれず、無言で食事を再開する。
やがてメイン料理も終わり、予め頼んでおいたデザートが牧野の前に置かれた。
それを不思議そうに見つめる牧野。
そりゃそうだ。高級イタリアンじゃ、まず出さねぇもんだ。
「牧野、それ好きだろ?」
「⋯⋯⋯⋯」
「昔、食ったよな。ねずみ屋だか、うさぎ屋だかで」
牧野に出されたのは、キャラメルパフェ。特別に作らせた。
「⋯⋯ねぇ、私28なんだけど」
「あ? んなの知ってるよ」
「この歳でパフェを出されて喜ぶとでも? 大体、昔ほど甘えものは食べないの」
「ふーん。パティシエに頼んで特別に作らせたんだけどよ、嫌なら仕方ねぇ。パティシエには悪りぃけど、無理なら残せよ。捨てるのは勿体ねぇけどな」
ネチネチ言えば、軽く眉根を寄せた牧野は、柄の長いスプーンを持ってパフェを食い始めた。
⋯⋯やっぱりな。
そういうとこ、ちっとも変わってねぇじゃん。
他の奴への気遣いとか、勿体ねぇ精神とか。
変わってねぇ本質の一端に触れ、自然と俺の顔は緩む。
それだけじゃねぇ。
高校ン時の牧野は、キャラメルパフェを前にして、大っきな目をキラッキラさせてたが、今はスーツをビシッと着こなしたクール美人。
そんな大人の女にパフェだ。アンバランスな組み合わせがおかしい。
当時は、メルヘンな店に似合わない俺が合成写真みたいだと笑われたが、今はまるで逆。
遂には笑いを噛み殺せず吹き出した。
「ブッ、あははは!」
牧野がスプーンを置く。
「その締りのない顔、目障りだわ。早く引っ込めて」
随分な言われようだが、引っ込めろと言われても無理だ。
「気にすんな、いいから早く食え。ちゃんと食べねぇと、パティシエががっかりするぞ」
恨めしげな目を寄越しながらも、またパフェを食べ出した牧野。
時折、笑いが止まらねぇ俺に氷の視線が向けられるが、今の俺には効果はゼロ。
俺が過ごす時間の中に牧野がいる。
暗闇のような世界だったこれまでの11年を思えば、何て幸せなことか⋯⋯。
牧野がパフェを食べ終えるまで、どう頑張ってもニヤける顔を元には戻せなかった。

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