手を伸ばせば⋯⋯ 23
薄い笑みを浮かべる牧野に戸惑いを覚えながら、もう一度言う。
「本当に悪かった。おまえが許してくれるなら、俺は何だってする」
俺をジッと見つめたまま、牧野は徐に口を開いた。
「もう許してるわよ?」
許してくれるのか!
喜びと安堵感がせり上がり、気持ちが前のめりになる。
が、それは直ぐに打ち消されることとなった。
「あんなの大したことじゃない。忘れられたくらいで、大騒ぎするほどのもんでもないでしょ」
笑みは崩さずともすげなく言われ、嫌でも端々から刺々しさが伝わってくる。
先走った気持ちは、簡単にへし折られた。
大したことじゃねぇ、か。
忘れたのを大したことないと斬って捨てんなら、前提にある俺たちが恋人だったこと自体も、価値のねぇものとして処理されていると分かる。
当然だ。
あんな仕打ちをした俺との過去なんて、牧野からしてみたら大事に思うどころか、汚点だと思われても仕方ねぇ、消したい過去だろ。
ゼロからのスタートじゃない。マイナスから始めるしかない。もとより覚悟の上だ。
「牧野⋯⋯俺は、まだ記憶が定かじゃねぇとこはあるが、おまえを思い出してから、ずっと後悔してた。
あんな酷ぇこと言って牧野を傷つけて、辛い思いを沢山させて。
あれからおまえはどうやって過ごしてたんだって、おまえのことばっか考えてた」
「ご心配なく。私は今、幸せなんで」
身体は正直だ。
決して、牧野の不幸を望んでたわけじゃねぇ。
だが、牧野の言う『幸せ』のたった一言で、ドクンと胸を打つ鼓動は、心臓の負担になる嫌な跳ね方をする。
離れていた長い間、牧野がもしも不幸せだったとしたら、それは俺にとっても胸を掻きむしりたくなるほど辛ぇことなのに、裏腹に、気持ちは身勝手にもざわめく。────男の影を意識して。
頭を掠めるのは、幸せだと言わせるだけの男の存在。
考えなかったわけじゃない。
寧ろ、こんなにも長い時間が流れたんだ。居ない方が不自然で、俺だって覚悟はしている。
しかし、憶測の域での覚悟と、事実として知る覚悟は次元が違う。
牧野から打ち明けられれば、かなりのダメージは避けらんねぇだろうが、それでも確かめるしかない。
喩え男が居ようとも、打ちのめされてる場合か。
この想いを抱えて諦めずにぶつかるだけだ。かつての幸せを、もう一度取り戻すために⋯⋯。
どんな返答が来ようとも動じないように、気持ちに鎧を纏い腹を据えて訊く。
「なぁ、牧野。今、おまえを幸せにしてくれる奴は⋯⋯、付き合ってる男は居るのか?」
かなりの覚悟を持って問えば、真っ先に返ってきたのは、「ふっ」と蔑んだ小さな含み笑いだった。
そして次の瞬間。牧野の放った言葉に、纏った鎧は意味を無くす。
「馬鹿馬鹿しい。そんなものに何の意味があるのよ。恋人なんてくだらない存在は邪魔なだけ。私には必要ない」
男が居ないらしい事実を喜ぶ以前に、心に衝撃が走る。
昼間見た時から、どこか冷めている気はしていた。無表情にしても、瞳の奥の冷ややかさからしてみても、俺が過去に知っている牧野とは、何かが違うと。
俺の存在が疎ましくて、冷淡にとりすましているのかとも思ったが、そうじゃなく、まさか心まで冷めきってんのか。
「⋯⋯本気で言ってんのか?」
「冗談は言わない主義なの」
すかさずの切り返しに頭が混乱する。
俺の知っているかつての牧野は、バカが付くほどお人好しで、どこまでも心が綺麗で温かな女だった。
誰かや何かを嘲るような女じゃねぇ。
でも、だからだったのか、と気づく。
だから、あきらは忠告したのか。昔とは違う、と。
だとして、これが今の牧野の有りのままの姿だとして、俺の気持ちは変わるのか。直ぐに自分に問いかけるが、答えは最初から決まってる。
これが現実だとしても、牧野の本質を俺は知っている。なら、答えは一つだ。
俺は嘘偽りのない想いを告げる。
「俺の気持ちは10代の頃と何一つとして変わってねぇ。滋の島で、おまえを守る、おまえだけは離さねぇって誓った、あの頃と想いは同じままだ。今度こそ誓いは違わねぇって約束するから、もう一度、俺のところに戻って来て欲しい。今度こそ絶対に牧野を幸せにする」
誠心誠意、想いを込めたつもりだった。
だが、俺の想いは、クスクスと笑い出した牧野に一蹴された。
「何を言い出すのかと思えば、本当に笑える。
ねぇ、分かってる? あれから十年以上も経ってるの。その間、一度だって会ったことはない。それなのに気持ちは同じ? 笑わせないで。
あなたが好きだった子は、17歳の私。今の私じゃないわ」
「違う。俺は何年経ったって、牧野つくしじゃねぇと駄目なんだ!」
「今の私を何も知らないくせに」
「おまえはおまえだろ、牧野つくしだ。今まで会えなかった分、お互い知り得なかったことは、時間かけて埋めていけばいい」
牧野の口元から完全に笑みが消えた。
一層冷ややかに翳りが差した眼差しで、俺を真っ直ぐに見る。
「さっきも言ったわよね? 恋人なんて邪魔なだけで必要ないって。
愛情があろうとなかろうと、所詮、男と女が行き着くとこなんて同じじゃない。だったら、煩わしい感情なんてない方が良い。恋人なんて作らず、割り切った関係の方が私は気が楽なの。そういう関係しか結ばない。⋯⋯⋯⋯言ってる意味、分かるわよね?」
「っ⋯⋯なに⋯⋯、な、何を言って⋯⋯」
一気に心が冷える。
形になんねぇ言葉が精一杯で、その先が続かねぇ。
歪な感情を突き付けられた衝撃で、冷水を浴びせられたように、頭から爪先まで感覚が失せていく。
俺だけじゃねぇ。
総二郎も目も瞠って牧野を凝視し、驚きを隠せないでいる。
あきらだけが顔も上げず、意味なく手元のグラスを眺めていた。だが、その顔は険しい。
もしかして、あきらは知ってたのか?
衝撃が生み出した沈黙は、いち早く立て直した総二郎が拭った。
「牧野、こう言っちゃなんだが、おまえも良い歳だ。男とは体の構造からして違ぇし、傷を受けることだってある。もっと自分を大事にしろ。じゃねぇと、本当の幸せ逃しちまうぞ」
ふふっ、と牧野が笑う。
「西門さんに説教されるとはね。別に私の言ってることが特別可笑しいとは思わない。少なくとも西門さんや道明寺支社長には、理解してもらえると思ったんだけど?」
「⋯⋯止めろ」
小さな声が洩れる。
思い出に亀裂を作ろうとする言葉に、耳を塞ぎたくなった。
感情が千々に錯乱し、こんなの牧野じゃねぇ、と心が叫ぶ。
「止めてくれ⋯⋯。もういい、何も言うな⋯⋯。何も言わずに俺のところに戻ってきてくれ」
懇願するように、詰まる喉から声を絞り出せば、俺の話を聞き流した牧野は、バッグからある物を取り出し、更に俺を混乱の渦に突き落とした。
取り出したのは、タバコ。
加熱式のそれを平然と銜えて吹かす姿に、衝撃の追い打ちを掛けられた俺は、目の前の牧野を茫然と見つめた。
「ねぇ」
煙を吐き出した牧野が、声を失う俺を呼ぶ。
「私に、NYに置いてきた大勢の彼女たちの代わりをさせたいわけ?」
一体何を言われたのか。
ショート寸前の頭で考え、やっと理解すると、硬直していた体内から一気に激情が迸り、気づけば声を張り上げていた。
「ふざけんじゃねえーっ! んなこと言ってねぇだろうがっ!」
考えるより先に、乱れた感情に押されて飛び出た声。
同時に固めていた拳でテーブルを叩きつけ、倒れたグラスの中身がテーブルの上を濡らしていく。
「落ち着けっ、司!」
慌てて止めに入る総二郎と、焦った様子で椅子から腰を浮き上がらせたあきら。
牧野だけが一人、ピクリとも表情を動かさず、
「思い通りにならなければ、今度は力でねじ伏せる気?」
白い煙を燻らせ動じもしねぇ。
「牧野、あまり挑発するな」
牧野を窘めたのは、今の今まで静観を決め込んでいたあきらだ。
「挑発なんてしてない。私は事実を話してるだけ」
⋯⋯これが十年以上が経過した今の牧野なのか。
この現実こそが、牧野を忘れた俺への罰か。
「あきら、総二郎。牧野と二人で話させてくれ」
「駄目だ」
テーブルを片付けるあきらが、間髪入れずに退ける。
たった今、怒鳴ってテーブルを殴ったばかりだ。
感情に任せて、牧野に暴力を振りかねねぇ、そんな心配をしてんだろう。
「手は上げねぇ。約束する。だから、頼む。二人にさせてくれ」
「これ以上話しても噛み合わないと思うけど」
容赦のねぇ牧野の言葉を無視し、あきらたちに向けて、今日何度目かの頭を下げる。
暫く思案していたらしいあきらは、息を一つ吐き出した。
「絶対に乱暴なことはすんなよ、司。いいな?」
俺が頷くのを認めると、あきらは牧野に視線を移す。
「牧野も言葉を選んで話せ。分かったな」
牧野の肩を軽く叩いて言い聞かせたあきらは、カウンターにいるからと言い残し、総二郎と共に個室を出て行った。
二人きりになった空間。
気持ちを鎮めて、真正面の牧野の目を見ながら訊く。
「おまえが変わったのは、俺のせいか?」
「自惚れないでよ⋯⋯って言いたいとこだけど、全く関係ないって言ったら嘘になるわね。きっかけにはなったわ。
でも、これでも感謝してるの。無駄な感情など必要ないって、そう思わせてくれたのは、あなただから。
感情を捨てたら楽になれたし、お陰でこの十年以上、何事にも惑わされず、勉強にも仕事にも取り組めたわ」
感情を捨てた⋯⋯まるで同じだ、俺と。
「記憶を失ってた俺も同じだった。それが不幸だとも感じねぇほど感情が欠落してた。
けど、記憶を取り戻した今なら分かる。そんな生き方は不幸でしかねぇって。おまえを思い出してからは、おまえの笑顔を思い浮かべては心が温まって、同時に後悔に苛まれて。でも、それが生きてるってやつだ。
俺はもう、中身が空っぽの死んだようには生きたくねぇ。幸せの喜びだけじゃなく、悲しい痛みを伴ってでも、俺はちゃんと生きていきてぇ。
牧野、俺ともう一度自分の人生に向き合ってみねぇか? 俺は本気で牧野と一緒にやり直してぇと思ってる」
牧野はタバコをケースにしまい、綺麗な顔で冷たく笑った。
「やり直す? あなたが一人の女性で満足するとでも? NYでは、夜な夜なお盛んだったみたいじゃない。よく噂を耳にしたわよ。そんなあなたが何を今更。冗談も大概にして」
思わず目線が下がる。
女関係を突かれるのは痛い。牧野だけには触れて欲しくない、引け目を覚える愚かな行い。
けど、これも自業自得だ。
「確かに、記憶を失くしてる間、馬鹿なことした。女とも関係を持った。けど、惚れたことは一度だってねぇし、そんな女に何の感情もねぇ。おまえを想う気持ちとは全く違う!」
牧野の瞳が僅かに細まる。その奥が一瞬、鋭く光った気がした。
「そうね。あなたはそういう人よ。あなたにとって女性は、性の捌け口でしかないんでしょうから」
⋯⋯否定出来ねぇ。
牧野には軽蔑されるだろうが、俺の金や名誉に眩んで近づいて来る女など、どう扱っても構わねぇ、そう思って非情な扱いをしてきた愚行の数々。それは事実だ。
「今までの俺はそうだった。けど、おまえをそんな風に見ちゃいねぇ。おまえだけは俺にとって特別なんだ。
もう馬鹿な真似はしねぇと誓うから、だから、俺にチャンスをくれないか? 俺はおまえの傍で、おまえが笑う顔をもう一度見てぇんだよ」
「今の私は、今ここに居る私でしかない。17の私を求めても無駄よ。迷惑なだけ。
もう良いでしょ。これ以上、あなたと話すことはないわ」
そう言ってバッグを持って立ち上がった牧野は、会話を一方的に打ち切り、出口へと向かう。
だが、扉に触れる直前に足を止め、俺へと振り返った。
「プライベートはともかくとして、仕事に関しては、道明寺支社長とご一緒出来るのを光栄に思ってます。私にとっては、メリットの方が多いですから。色々と勉強させて下さいね。では、失礼します」
人形のような顔で、口元だけに笑みを貼り付けた牧野は、それっきり二度と振り向きはしなかった。
⋯⋯これが、現実か。
制服のスカートを翻し、バイトへと駆け出す17歳の牧野。こうした今だって、生き生きとした当時の牧野を直ぐにでも頭に浮かべられる。
そんな牧野には、もう二度と会えないのか。
日差しにも負けない弾ける笑顔を、俺は永遠に失ったのか。
記憶の中の牧野はこんなにも鮮明なのに、手を伸ばしても触れられない。まるで蜃気楼のように⋯⋯。
牧野を忘れた代償の大きさに愕然とし、暫し俺は、指先一つ動かせないでいた。

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