手を伸ばせば⋯⋯ 20
あきら達と別れて邸に戻った俺は、冷たい風が突き刺さるのも構わず、東の角部屋のバルコニーに立った。
⋯⋯28になるんだな。
色鮮やかに脳裏で再生されるのは、庭を這いつくばり、このバルコニーを登ってきた17歳の頃の牧野。
今はこうして思い出せるのに、どうして俺は、長い時間を無駄に捨て忘れたままでいられたのか。
牧野を思い出してからというもの、心が潰れそうなほどの後悔に苛まれている。
長い夢でも見ていたように目を覚ませば、悪夢より酷い現実が俺を待ち受けていた。
冷てぇ態度を取って、非情な言葉を投げつけて。
よりによって、牧野の記憶だけ失くしちまうなんて。自分の命よりも大切な女を、なんで⋯⋯。
幾つもの後悔が雪崩のように押し寄せ、自分を殴り殺したとしても足りない。
記憶を失くす前に行った滋の島で、絶対にこの小さな手だけは離さねぇ。俺が必ず守る。牧野にも自身の心にも、そう固く誓ったのに。
全てを捧げてくれた牧野と互いの想いを確かめあった、その俺がだ。あいつを絶望の淵に突き落としちまうなんて⋯⋯。
どんだけ泣かせたんだ、俺は。
俺の顔なんて、もう見たくないかもしれねぇが、それでも勝手でごめん。
記憶を取り戻した今、牧野への想いをどうしても断ち切れねぇ。
どんな償いでもする。気が済むまで殴ってもいい。
勝手が過ぎるのは充分承知な上で、それでもチャンスが欲しい。
もう一度、俺に向けられたあの笑顔に会いたい。
そろそろか、と腕の時計に目を落とす。
秒針が静かに時を刻み、やがて長短の針が天辺で重なった。
「おめでとう、牧野」
身を切るような風が呟きを攫う。
天を仰いだ俺は、制服を着た牧野の弾ける笑顔を、月のない夜空に思い浮かべた。
❃
夕方になって、プロジェクトチームの部署に顔を出す。
仕事納めの今日は、牧野をはじめとする社員たちも早めに仕事を切り上げたようで、今は、自分のデスク周りなど、簡単な片付けをしている最中だった。
「皆、お疲れ! 今年も一年、良く頑張ってくれた。もし都合がつく者がいれば、今夜は俺がご馳走するぞ。今までの労いと、来年プロジェクトに向けての景気づけ、それに牧野の歓迎会もまだだったしな」
参加者がいなければ、牧野だけ拐うつもりでいたんだが⋯⋯。
「良いですね! 牧野さんの歓迎会やりましょう!」
「行こう行こう!」
「よし、さっさと片付けるぞ」
三人いる男性社員はノリノリで、可哀想なことに、どいつもこいつも予定がないらしい。寂しい奴らは、牧野と飲めるのが嬉しいようだ。
歓迎会の主役に勝手に祭り上げられた牧野はといえば、行きたくはなくても周りの騒ぎようを見れば断りようがなく、家庭持ちで不参加表明した女性事務員達を、羨むような目で見送った後、企画担当の三人衆に囲まれ、渋々ながらも会社近くの店へと連行された。
入店して席へ案内されるなり、誰が紅一点の牧野の隣に座るかジャンケンを始める男ども。
それを横目に見ながら、さっさと牧野の隣を陣取る。
残念そうな顔をしながらも向かいの席に大人しく座ったヤロー共は、酒を頼んで乾杯を済ませると、料理は何を頼むかと、意識はメニューに一直線だ。
今がチャンスだな。
クラッチバッグから小さな紙袋を取り出し、他の奴らに訊こえないよう、隣の牧野に話しかける。
「牧野、今日誕生日だろ? おめでとう。これ、想いがたーっぷり詰まったプレゼントだ。使ってくれ」
テーブルの下で渡したプレゼントと俺を、少しだけ見開いた目が交互に見る。
「⋯⋯そっか。私、誕生日だったんだ。⋯⋯副社長、ありがとうございます」
忘れてたのかよ。
「自分の誕生日くらい覚えとけよ」
「誰かにおめでとうなんて言われたの、何年ぶりだろう」
プレゼントを見つめながらポツリ洩らした言葉に、胸が詰まった。
牧野のことだから、盛大な誕生日パーティーを開いたところで喜ぶわけでもないだろうが、一人知らない地で頑張ってきたおまえに、祝いの言葉一つもかけてやる奴はいなかったのか?
本人に寂しい自覚があったかどうかは別として、俺は牧野の孤独を垣間見た気がした。
記憶を戻した司から教えられたから、こうして俺も祝ってやれたけど、それがなかったら、今年も牧野は一人だったかもしれない。
でも今年は、俺だけじゃない。そばに居ることは叶わずとも、心からおまえを想ってる奴が存在する。
「牧野、グラス持て」
牧野にグラスを持たせると、改めて牧野が生まれてきた日を祝って乾杯した。
「おめでとう、牧野」
だが、このおめでとうは、ここに居ない奴の分。直接には言えない司に変わって、精一杯の心を込めた。
「⋯⋯ありがとう」
グラスを当てた直後、俺たちに意識を向けた三人組は、料理のオーダーも済ませたらしく、会話に割って入って来る。
最初こそ当たり障りなく遠慮がちに。しかし、お酒が進むにつれて勢いは増し、興味津々な顔を隠そうともせず質問攻撃が始まった。
「副社長と牧野さんって、仲良いですよね。あの、つかぬことをお窺いしますが、二人はその⋯⋯、付き合ってるんでしょうか?」
この場は無礼講だとばかりに訊いてきたのは、メンバーの中で一番若い松野だ。
「そんなんじゃない。牧野は高校の後輩だ」
答えた途端、松野が満面に笑みを広げた。
「そうなんですか! 良かった、安心しましたぁ!」
安心って、もしやこいつは牧野狙いだったのかよ。
でも、牧野の顔を良く見てみろ。作り笑い一つ浮かべてねぇぞ。
良かったなんて安心する前に、迷惑がられてるかも、って不安になるべき事態じゃないのか。
松野の恋路に駄目出ししていたところで、今度は牧野と同い年の原田が、余計な話題に触れてきた。
「副社長と高校が同じなら、牧野さんも道明寺さんとは親しいの?」
「ただの先輩と後輩ってだけよ」
牧野は何食わぬ顔であっさりと返す。
司が哀れではあるが、詳らかに出来る話でもない。
まさか原田も、牧野と司が付き合ってたとは夢にも思わないだろうし、実際、牧野の当たり障りのない返答にも疑問を抱いた様子はない。しかし、別方向には興味が惹かれたようだ。
「でも凄いよね。副社長をはじめ、憧れのF4が先輩だなんてさ。ねぇ、牧野さん。高校性の頃の副社長を始めとするF4ってどんな感じだったの? 是非とも、その時代の貴重な話を訊かせてよ」
首をくるりとこちら向けた牧野の目とガチリと合う。
幻聴なのか被害妄想なのか、『マダム専門だって話していい?』と、牧野が言ってる気がして、念を込めた視線を送る。
絶対に言うんじゃねぇぞ! 社会的にそれはまずい。それに今は人妻限定でも年上限定でもねぇからな!
原田に目を戻した牧野は、
「それは秘密。どうせ話すなら、生活に困った時にでもマスコミに売るわ」
俺の願いを聞き届けてくれたようだ。
「へぇ、牧野さんでも冗談言うんだね」
危機だけは何とか避けられたが、原田、ホントに今のが冗談だと思うか?
サイボーグのように固まった表情で言われても、俺には冗談に訊こえず、恐いだけなんだが。
「ま、牧野さん」
俺だけじゃなかったか、牧野を怖がる奴は。と勘違いするほど、震え上がった声を披露したのは、三人衆の残りの一人、鈴木。
「頼むよ。道明寺さんのことだけでも教えてよ。仕事に厳しいって訊いて、今から緊張してどうしようもなくてさ。なにか、緊張を解すような、和みエピソードでもあれば⋯⋯」
和み? と呟いた牧野は、二度、三度と、目をパチパチさせている。
司のイメージとはそぐわないキーワードに、流石の牧野も不可解な面持ちだ。
和みなんてもんとは、とんと縁のない司。類じゃあるまいし。
牧野も一応、記憶に検索をかけたのだろうが、やはりヒットするもんは何処にも見当たらなかったんだろう。
司の高校時代を語れば、鈴木の緊張は極限に達するやもしれず、どうしたもんかと扱いに困ったのか、はたまた面倒になったのか、牧野は話題をマルっと俺に投げた。
「私なんかより、副社長の方が良くご存知かと」
鈴木を恐怖に陥れる話題なら豊富に持つ司だが、馬鹿正直に話して鈴木を震え上がらせてしまっては、仕事に影響を来す。卒倒だってしかねない。
ならば、ここは余計なことは語らずエールを送るしかない。
「確かに司は厳しいが、それを気にする余り萎縮し、思う存分力を発揮出来ないんじゃ困る。能力があると見込んだからこそ、皆を選んだんだ。いつものようにやれば大丈夫だ。自信を持って臨んでくれれば良い。選んだ俺の立場もないからな。頼んだぞ」
「はい!」
「⋯⋯はい」
「⋯⋯はい」
松野を除いた頼りない二つの声。
何て気のない返事なんだ。間の取り方まで一緒なんて情けない。これは俺の人選ミスか。思わず頭を抱えたくなる。
弱気な返事をする男どもの前では、流石は貫禄の牧野。マイペースを切り崩さず、綺麗な所作で運ばれてきた料理を摘んでいる。
「牧野さんは落ち着いてるよね。道明寺さん相手に緊張しないの?」
こんなんで大丈夫だろうか、と牧野に訊ねる鈴木が本気で心配になる。
全員の視線が一斉に牧野へと向かう。
「しないわね。私は自分に恥じないために、常に最大限の力を注ぐだけ。誰が関わろうと関係ないわ」
箸を置いてきっぱりと牧野が断言すれば、「かっけぇ!」と、松野からはしゃいだ声が上がった。
「牧野さん、すげぇかっこいい! 痺れました! 牧野さん、恋人います? いないなら立候補しても良いですか? 年下は嫌いですか?」
矢継ぎ早に質問を飛ばす松野。
牧野並に強靭なメンタルだと喜ぶべきか、怖い物知らずのおバカと嘆くべきか。判断に苦しむ。
牧野がうちの社に来てからというもの、牧野狙いの男性社員が多いという噂は耳にしてきたが、まさか同じチーム内で出現するとは。
さて、牧野はどうする? なんて考えるまでもないか。
「お付き合いしている方はいないけど、今後も作る予定はないの。今は仕事だけに集中したいんで」
ご愁傷さま、松野。
予想を裏切らずのバッサリだ。
告白されても、喜ぶでもなく恥じらうでもなく、静止した表情で斬られた松野には心から同情する。
が、全くその必要はなかったらしい。
フラれたばかりだと言うのに、へこたれた様子を見せない松野は、更に続けた。
「じゃあ、せめて好みのタイプだけでも教えて下さい。例えば⋯⋯F4の中でなら、誰が一番タイプですか?」
F4の内の一人である俺がいるっていうのに、そこに配慮はないのか。
俺が牧野の好みじゃないと知ってはいてもだ。選ばれなきゃ、何となく俺が可哀想な構図が出来上がるだろうが。地味に傷つくんだよ。
案の定、牧野は、
「誰もいない」
悩みもせず空気よりも軽く言った。
ほら見ろ、予想通りだ。
隣の上司の顔を立てるとか、今の牧野がするはずがない。
まぁ、良い。初恋の類も選ばれなかったことだし、と自分を慰める。
それからも、三人それぞれからアプローチやら質問やらを投げられた牧野だったが、適当に躱し続け、そろそろ時刻は牧野の誕生日の終わりを告げようとしていた。
今年の誕生日は、牧野を一人で過ごさせずに済んだ。
三人を相手にした牧野はうんざりしているだろうが、それでも孤独の中に牧野を置いときたくはなかった。
おまえが生まれてきた大切な日だ。せめて司の代わりに、こうして祝うことが出来て良かった。
そう心から思った今日までが、束の間の休息だったのかもしれない。
いよいよ、年明けからプロジェクトが動き始める。
そして、かつて恋人同士だった二人の運命もまた⋯⋯、時を経て再び動き出す。

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