手を伸ばせば⋯⋯ 17
「副社長、顔色が良くないようですが、体調が優れないのでは?」
秘書の西田が部屋に入って来るなり言った。
この男が、仕事以外のことを真っ先に口にするとは珍しい。
「大丈夫だ」
だが実際、疲れが極限に達したのか、鉛を纏ったように身体が重い。
「いえ、無理は禁物です。この後18時から予定のレセプションパーティは欠席にして、本日は自宅でお休みになって下さい」
普段、俺に無理させてる張本人の台詞とは思えねぇが、その男が休みを勧めるくらいだ。よっぽど傍目にも具合悪く見えてんだろう。
「じゃあそうしてくれ。邸に帰る」
「畏まりました」
直ぐに西田が車を手配し乗り込むが、仕事が終わって気の張りが途切れたせいか、益々、身体は重くなる。
邸に着く頃には更に悪化し、自分の身体じゃねぇみたいに、動作一つ取るにしてもキツイ。
何とか自力で車から降り立ったまでは良いが、邸のエントランスを潜り抜けた辺りで、今度は強烈な頭痛に襲われた。
かつて味わったことがないほどの激しい痛み。視界まで歪みが生じてくる。
遂には立っていられなくなり、重力に逆らえなくなった身体が傾いた。
体勢を整えるだけの力も失い、耳に入りこむ使用人達の悲鳴を最後に、俺は意識を手放した。
「⋯⋯かさ⋯⋯⋯⋯司!」
呼び掛ける声に意識が引き戻され、重い瞼を静かに開ける。
「司、気付いたのね! 直ぐに先生を呼んでくるわ!」
俺を覗き込んでいたのは姉貴で、その顔は、珍しく疲労感を漂わせていた。
⋯⋯そうか。
俺は頭痛に襲われ倒れたんだっけか。
白い天井を見上げ『ここは病院か』と、ぼんやりした頭で自分の置かれた状況を把握する。
僅かの間を置き入室してきたのは医者と看護師で、されるがままに診察を受け、それも終われば姉貴同席で医者からの話を訊く。
「もう大丈夫でしょう。今回は、疲労が原因だと思われます。MRIの検査も問題はありませんし、血圧の方も安定しています。念のためにもう1日だけ入院してもらって、明日には退院していただいて結構ですよ。では、お大事になさってください」
医者を見送ってからベッドサイドの椅子に腰を下ろした姉貴が、緊張を解くように深い溜息を落とした。
「もう心配したんだから。でも良かったわ、大したことなくて。あんた、色々と無茶し過ぎなのよ」
「悪かったな、心配かけて」
姉貴の目が僅かに見開く。
「あら随分と素直ね。病気と一緒に捻じ曲がった性格も治っちゃったのかしら。最近じゃ、私ともまともに口を利かなかったくせに」
「姉ちゃん⋯⋯。俺、どれくらい寝てた?」
「丸二日よ。あんまりにも動かないもんだから、息してないんじゃないかって、何度も確かめちゃったわよ」
「⋯⋯二日」
「あんた大丈夫? まだどこか調子悪いんじゃない?」
「⋯⋯⋯⋯」
姉貴が不安気に俺を見る。
「夢見てた気がする。すげぇ長い夢」
「⋯⋯⋯⋯司?」
姉貴の呼びかけにはもう応えず、病室の窓から覗く藍色に飲み込まれそうな夕焼け空を、ただ茫然と見つめた。
❃
牧野が我が社に来てから早一ヶ月。
その働きっぷりは、想像を遥かに超えたものだった。
牧野を引き入れたのは、共同プロジェクトの発足に向けて編成されたチームで、少数精鋭。
牧野と共に三人の男性社員が企画立案に関わり、後は事務担当が数名いるだけのチーム部署になる。
プロジェクトは年単位に渡るが、牧野には、初期段階の立ち上げに一年だけ携わってもらう。司との関係がどう転ぶか分からないために、区切りをつけた形だ。
大まかなアウトラインを元に、美作、道明寺、大河原の三社から持ち上がったプランをピックアップし、本格的にプロジェクトがスタートすれば、本部は道明寺ホールディングスに置かれることになっている。
うちと道明寺を行き来する生活になれば、嫌でも牧野と司が接する機会は増えるが、二人の関係がどう転ぶかの心配は、ひとまず置く。
それよりも気になるのは、牧野だ。牧野の取り扱いだ。
今は、プロジェクトに向けてのプランを練っている段階であるのだが、当然のことながら牧野も全力で取り組んでくれている。
それは喜ばしいことではある。
だがしかしだ。
その仕事への姿勢が考えものだった。
感情が欠落してからの牧野は、口数も少なくどこか近寄りがたいのだが、仕事となると、更に輪をかけてそれらが顕著となった。
テキパキと動く様は隙がなく、俺が上司となったからか常に敬語。愛想笑いさえ拝める回数は減り、全くもって近づき難い。
要するに⋯⋯、怖いっ!
目が怖い、淡々とした口調が怖い、纏う雰囲気が怖い。つまり話し掛けるのに躊躇する。
この十年で、相手を萎縮させる技を取得したとしか思えない!
プランの途中経過を見せてもらった時には、唸ってしまうほどの出来に、俺も副社長の立場として嬉しくテンションが上がったわけだが、『まだ完成したわけじゃないので』と切れ味抜群の目で見られ、労いがてら夕飯でもと誘えば、『無駄な時間はありませんから』と抑揚のない声でバッサリ斬られ⋯⋯。繊細な心臓を萎まされた俺は、早々にその場を退散した。
だが、近づき難いほど怖いにしてもだ。放っておくわけにはいかない。
何せ牧野は、朝早くから出勤し、夜は遅くまで残業している仕事人間と化している。
昼飯だって、ゼリー飲料だけで済ませていることもあって、目撃したのも一度や二度じゃない。
乱れた食生活じゃ、牧野の身体が保つかどうか心配になるってもんだ。
怖がってる場合じゃない。ダチとして放っておけない。
第一、今じゃ牧野の上司でもある俺がビビッてどうする。
それに忘れないで欲しい。この俺だって、世間に一目置かれたF4の一員だぞ! と、面と向かっては言えない主張を心の内で繰り返し、行動に移した俺は、
「牧野の企画は抜きん出てるが、他の奴らの仕事ぶりはどうだ? 有能な奴や、将来見込みのある奴を集めたつもりなんだが」
迷惑そうな牧野の説得に成功。何とか連れ出したイタリアンの店で旨いもんを食わせようと、今は二人でランチを取っている最中だ。
せめて、昼休憩くらいは軽いノリで俺との会話を楽しんでくれ、と願いを込めながら、こうして話題を振っているわけだが⋯⋯。
「はっきり申し上げた方が宜しいでしょうか」
話題のチョイスに失敗。俺の問いかけに返ってきたのは、どこまでも平坦な声に乗った敬語だった。
この言葉だけで牧野が何が言いたいのかは分かる。俺にとって喜ばしくない内容だ。
っていうかな。
無表情で言ってくれるな、怖いから。
俺は、コホンと仕切り直しの咳を一つして、話題を素早く変える。
「おまえから見た奴らの評価は分かったから、みなまで言わなくてもいい。牧野と比べちゃ、奴らも気の毒だしな。
それよりな、牧野。今回のプロジェクトは大河原も参加するのは知っての通りだが、向こうの代表が滋になったんだよ。俺や牧野、それに司も絡むなら自分も参加するって、親父さんにゴネたらしい。
でな、プロジェクトが始まる前に一度、牧野に挨拶したいって言ってたから、近いうちに会うことになると思う。悪いが、牧野もそのつもりでいてくれ」
最後の一口となったパスタを飲み込んだ牧野は、口元をナフキンで軽く抑えてから言った。
「滋さんから連絡あったんですか?」
「ああ。ランチに出て来る少し前にな」
「でしたら、もういらっしゃってるかもしれませんね」
「え。いやいや、まさか」
いくらなんでも、電話して一時間もしないうちに動けるほど、滋だって暇じゃねぇだろ。
「流石に今日の今日で現れないんじゃないか?」
「そうですか。私が知っている滋さんなら、即行動に移すと思ったんですが」
そう言われてしまうと、自信持って否定もできない。
基本、思い立ったら直ぐに行動するのが滋だ。
『待て』が出来ない。犬の方がよっぽど優秀である。
だが、流石に専務という肩書きを背負ってる身で、自由気ままには動けないんじゃないか?
そう思いつつも、何だか嫌な予感も捨てきれないまま食事を済ませた俺たちは、社へと戻った。
部署のある階に降り立ち、休憩に未練も残さずデスクに直行した牧野。
滋の来社を予言しときながら、それを確認もせずに仕事に向かうとは⋯⋯。
自分の予言が当たってたとしたら、滋が会いたいのは牧野なわけで、また直ぐに呼び出されるというのに。
果たして滋は来てるだろうか、と自分の部屋を目指し、秘書課の前を通った時、答えは明らかになった。
「大河原専務がお部屋にいらしてます」
ビンゴだ、牧野。
肩書きがあっても自由に動くとは⋯⋯。
滋の行動力に呆れた吐息を吐き出しつつ、部屋に入る。
「あきら君! 待ってたんだよ〜! もしかしてお昼食べに行ってた?」
「ああ、牧野とな」
「ずっるーい! 滋ちゃんも行きたかった!」
一体、おまえは幾つだ。
口を尖らすな! 自分をちゃん付けで呼ぶんじゃない!
「滋、おまえ来るなら来るって事前に言えよ。俺だって暇じゃねぇんだぞ?」
「うん。だから、あきら君はいいの。私はつくしに会いに来たんだから」
「牧野は勤務中だ。滋、仕事してる時の牧野は怖ぇぞ。それに、昔と同じじゃない。それは、おまえだって知ってるだろ?」
打って変わって俯いた滋は、ポツリポツリと話し出した。
「うん、分かってる。でもね、昔みたいに溌剌としたつくしじゃないにしても、私は私らしく接するのが一番だと思うんだ。私に出来ることは、私は何も変わってないよって、友人たちはみんな、今も変わらずにいるよって、そう思って貰えれば良いかな、ってさ」
滋は滋なりに考えてたんだろう。
まぁ、強引とはいえ、折角こうして来たんだ。牧野も、一遍に皆に会うよりは、少しずつの方が良いかもしれない。
滋の言う通り、牧野には仲間がいる、そう分かってもらえれば、それで良い。
俺は受話器を取り、秘書に牧野を呼ぶよう指示した。
暫くしてやって来た牧野を見るなり、滋が駆け寄る。
「つくしっ!」
ドアを閉めて突っ立ったままの牧野に、勢い良く滋が抱きついた。
「つくし⋯⋯、会いたかった。会いたかったよ、つくし」
涙で声を震わす滋に抱きつかれたままの牧野は、
「滋さん、色々と心配かけてごめんなさい」
静かな口調で答えた。
冷めた声遣いではないが、十年ぶりとなる再会であっても、感情の昂ぶりは見られない。滋のように涙が滲む様子もなかった。
二人の温度差が明確に浮き彫りになる。
牧野から離れた滋は、涙で濡れた顔を乱暴な手付きで拭う。
「謝んないで、つくし。友達だから、そりゃ心配はするけどさ、こうして元気な姿で会えたんだから、ね!」
「滋さん、年明けからは仕事でご一緒させて頂くことになります。宜しくお願いします」
「こちらこそヨロシクね! つくしと一緒に仕事出来るの、楽しみにしてるんだぁ!」
滋が牧野の手を取り握り締める。
牧野は、少しだけ口角を持ち上げ微笑むと、「忙しいので、今日のところはこれで失礼します」と、会話を畳んで部屋を後にした。
十年ぶりの再会は、僅か数分足らず。
「今日は、つくしの顔が見れただけでいいよ。それだけで充分嬉しかったからさ」
目を赤くした滋も、忙しい中無理して来たんだろう。
直ぐ様、秘書から電話が入り、「今度は、もう少しゆっくり、つくしと話せたらいいな」そう言って、急ぎ足で帰って行った。
静かになった執務室。デスクの椅子に座り、資料に目を通そうとすれば、今度はスマホが音を奏で仕事の邪魔をする。
画面を見れば『司』の名前。
珍しいこともあるもんだ、あいつから掛けてくるなんて。
訝しながら電話に出る。
「よぉ、司か。珍しいな、おまえから掛けてくるなんて」
『ああ。帰国が早まった。来月には帰る。つっても、年末ギリギリか』
「プロジェクト始まるまでそっちでも忙しいだろうに、急な出張か? 大変だな」
『出張じゃねぇ。年明けから、日本支社を任されることになった。悪りぃ、急いでるから、詳しいことはまた連絡する。じゃあな』
「え、おい!」
俺の話など端から訊くつもりはなかったのか、はたまた、よっぽど忙しいのか。突然過ぎる帰国の報告を済ませた司は、俺を放置で呆気なく電話を切った。

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