手を伸ばせば⋯⋯ 4
ハイエナを排除してから暫くした後、ドアが叩かれた。
今度こそあの女、牧野だろう。
「入れ」
いつものように制服姿で現れた牧野は、「調子はどう?」と訊ねておきながら、「あれ?」と、俺の返事も待たずにキョロキョロと大きな黒目を動かし、辺りを見回して首を傾げる。
「今日は誰も来てないの?」
いつもは居るはずのクソ女が見当たらないからだろう。
クソ女の正体はハイエナだったから退治した。
そう正直に打ち明けるべきか悩んでいるところへ、甲高い声の雷が落ちた。
「あんたね、無視すんじゃないわよっ! 人が訊いてんだから答えるぐらいしたらどうよ! ホント失礼なんだから!」
目を三角にして怒るが⋯⋯、勝手だ。
だいたいな、『調子はどう?』と訊いておきながら、俺の答えを待たずに話題を変えたおまえは、失礼じゃねぇのかよ。
今のこの時だって、何か言おうと口を開きかけたのに、
「ぎゃーっ!」
大きな声を出し目を丸くさせた牧野は、もう別のものへと興味を移してる。
「な、なんで花瓶がこんなことに⋯⋯。床もびしょ濡れじゃない! 花だって可哀想に」
どう考えても俺を置き去りにして、俺に喋る暇を与えねぇのは、この女の方じゃねぇのか。
「この花瓶、一体いくらよ。確実に牧野家一ヶ月分の生活費より高い気がする」
眉を寄せ、割れた花瓶を見ながら牧野はブツブツと言っているが、そうかと思えば、「こうしてる場合じゃない!」と、ソファーに自分の鞄を放り投げ、両手を俺に向かって突き出した。
「いい? あんた絶対にベッドから下りるんじゃないわよ? 目に見えない破片だって散らばってるんだから、怪我でもしたら大変! 言うこと聞いて大人しくしてなさいよね。そのままでいるのよ、良いわね?」
真剣な顔して偉そうに指図した牧野は、腕まくりをしながら駆け出し、部屋を出て行った。
なんなんだ、あの騒がしさは。
しかも、感情がダイレクトに表に出るのか、コロコロと表情が変わって目が離せなかったほどだ。
こんな変わった生き物、俺の周囲にはいねぇ。
程なくして戻って来た牧野の手元には、掃除用具が一式。どこで調達してきたんだか、白いエプロンまで身につけてやがる。
俺をチラリと見て、動いてねぇようだと安心したのか、満足そうに頷いた牧野は、
「よし!」
気合のような一声を発し、早速、散らばった花を別の器に移して、割れた花瓶を片付け始めた。
「この一欠片でウン万円だったりして」
ガラスの破片に対して独り言を呟いてるが、その思考は金に直結らしい。
やっぱ、この女の目的は金か。
そう思ったところで、それは覆された。
「全く、こんな高価なものを簡単に壊して。だから苦労を知らない金持ちの坊っちゃんは嫌なのよ。偉そうにすんなら、自分で働いて稼いでみろってーの! 汗水垂らして働く。これ人としての基本! お金の有り難みも分からないくせして、ホント腹立つわ」
金を目的としている女にしちゃ、発想がどこかおかしい。
働かずとも簡単に金を手に、と望むどころか、真逆の考えじゃねぇかよ。
つーか、この女。俺に見向きもしねぇで、箒で破片を掻き集めながら喋ってるところを見ると、間違いなく独り言なんだろうが⋯⋯、訊こえてんだよ。俺の悪口、全部。人を坊っちゃん扱いしやがって、くそっ。
馬鹿にした相手を気にもかけねぇ牧野は、今度は掃除機をかけだした。それも、花瓶が割れた場所からかけ離れた、隅から隅まで部屋中だ。
何故、そこまでするのか理解出来ねぇでいたが、答えは独り言が教えてくれた。
つまりは、邸で暴れ回る俺を見ているメイドたちからすれば、怖くて極力この部屋には近づきたくねぇらしい。だから、ついでとばかりにメイドの負担を減らすべく、牧野が部屋全体の掃除をしてしまうと思ったようだ。
独り言を装いながら俺に当てつけて言ってんのかとも思ったが、今は機嫌良さげに鼻歌を刻んでる顔を見ると、そんな計算なんかしてねぇんだろう。何も考えてなさそうな、平和なマヌケ面だ。
掃除機をかけ終われば、濡れた箇所を布で叩き、「水で良かった。これがコーヒーなら最悪だったわ」復活した独り言を言いつつ、掃除は漸く終わりを迎えたらしい。
道具を片付けに消えた、牧野の居なくなった部屋で思う。
変な女。⋯⋯けど、おもしれぇ。
落ち着きはねぇし、独り言は煩ぇし、おまけに内容は俺の悪口含みで、媚びすら売らねぇ。あそこまで表情が変わるのも知らなかった。
尤も、こんなに牧野観察したのは初めてだし、今日に至るまで会話らしい会話もしたことがねぇ。
一方的に怒鳴り散らす俺を、牧野が適当にあしらうか、或いは怒鳴り返してくるかで。それも、海が割り込んで来たところで牧野は帰るから、長くは続かねぇ。これがお決まりのパターンだ。
牧野はいつだって、海みてぇにダラダラ居座りはしなかった。
つーか、もしかして。あのハイエナ、わざと割り込んでたんじゃねぇのか、と今更ながらに思う。
「ふぅー、終わったぁ!」
部屋に戻って来た牧野は、首をコキコキ鳴らし、肩まで叩いている。
⋯⋯ババくせぇ。
「じゃあ、あたしそろそろ帰るね」
「おい、待て」
スタスタとソファーへと近づき、鞄を取ろうとした牧野を呼び止める。
「おまえ、ここに掃除しに来たのかよ」
「そうじゃないけど、あんたが花瓶なんて割るから掃除する羽目になったんでしょうが」
「で、もう帰んのかよ?」
牧野の顔に怪訝な色が浮かぶ。なに言ってるんだこいつは、と。
「帰るよ。そろそろ良い時間だし。居たら居たで、あんたの怒声浴びまくるのは目に見えてるしね」
「当たりめぇだ! 周りの奴がおまえを知ってたって、俺はおまえを知らねぇんだから、怒鳴りたくもなるだろうか! よく考えてみろ。おまえだったら、知らねぇ男が近付いてきて、それもしょっちゅう家まで押しかけてきたらどう思うよ」
牧野がハッと息を呑み、大きな眼を更に見開いて、目をパチクリさせている。
言われて今気づいた、って顔だ。
「うわ⋯⋯。想像したら凄く嫌だった」
そんな風に考えたことはなかったのか、今度は目をオロオロと泳がせ、動揺している。
「え、もしかしてあたしのやってることって、ストーカーと変わらないとか?」声を潜めて呟いた牧野は、やがて「ごめんなさい!」と、頭を下げた。
「あたし、自分の気持ちばかり優先して、願望を押し付けてただけかもしれない。道明寺が怒っても無理ないと思う」
「だったら、おまえがどう奴が知るために答えろ。おまえは、俺が忘れた過去に存在してたのか?」
目線を下に置いた牧野は、考えあぐねているようだった。
何て答えるのか、急かさずに待つ。最悪な答えも覚悟しながら。
何せ、ハイエナは過去に存在していなかったと判明したばかりだ。警戒せざるを得ねぇ。
「いたよ」
考えが纏まったのか、迷いなく牧野が言う。
「あんたが記憶を失くす前から、あたした達はお互いを知ってる」
「どういう関係だ」
牧野が短く息を吸い、真剣な眼差しが俺を捉えた。
「あんたとあたしは、付き合ってるの」
息を呑んだのは、今度は俺の方だった。
知り合い程度の可能性は想定内だが、女は低俗と決めつけていたその俺に、まさかの恋人とか。驚くなって方が無理だ。
瞬時には受け入れ難い話で、自分が女に惚れてたなんて想像もつかねぇ。
俺が覚えてる俺って奴は、常に暴力とか⋯⋯、暴力とか暴力とか。って、暴力三昧じゃねぇかよ!
その俺に、恋人!?
俺の隣で笑っていた奴がいたような気がするが、それがこいつだったりするのか?
そんな女の隣で、この俺が幸せそうにしてたり⋯⋯⋯⋯いやいやいやいや、あ、あり得ねぇだろ!
想像した途端に一気に顔が熱くなる。
「⋯⋯お、おまえ、嘘ついてんじゃねぇだろうな!」
「信じられないだろうけど、本当。嘘じゃないよ」
「まさか俺が本気だったとか言う気か? あれだろ? 遊びだったんじゃねぇの?」
究極の混乱に陥り言い立てれば、明らかに牧野の表情が強張り、翳りが差した。
強張りが解けないまま、牧野が言う。
「あたしが今言えるのは、自分の気持ちだけ。あたしと道明寺は間違いなく付き合っていたし、あたしは今でもあんたが好き。あんたの気持ちも疑ったことはなかった。
だから思い出して欲しくて、嫌がられても押しかけてきたけど、道明寺が本気だったかどうかまでは⋯⋯、あたしには答えられないよ。⋯⋯⋯だって、あたしはあんたじゃないし⋯⋯本音は本人じゃなきゃ分からないから」
徐々に牧野の声音から力が抜け落ち、だが、最後は早口で巻くしたてた。
「ごめん、急にこんなこと打ち明けられたって、道明寺も混乱しちゃうよね。ホントごめん。今日はもう帰るから、ゆっくり休んで。じゃあね!」
「いや、待て! おいっ!」俺が呼び止めるのも間に合わない素早さで、牧野は走ってこの部屋を出て行ってしまった。
逃走するように立ち去ったその日以来、牧野は邸には現れない。
その間毎日、牧野を頭に思い浮かべては記憶を呼び出そうと試みるも、やはり上手くいかなかった。
俺を好きだと言った牧野との過去を思い出してぇのに、それが叶わねぇのが腹立たしい。牧野が顔を見せねぇのも、ムカつく。
好きだの、付き合ってるだの言っといて、何で俺に会いに来ねぇんだよ。
「か、彼氏じゃねぇのかよ、俺は」
自分で言って顔が熱る。誰もいないのに、そんな顔を手で隠した。
明日こそ会えるだろうか。
怪我も完治し、明日から俺は英徳に復学する。
そこでなら、また牧野に会えるかもしれねぇし、話せるか。
だが、ふと懸念が過る。
ひょっとして、具合を悪くしてるから会いに来れねぇとかじゃねぇよな。
唐突に浮かんだ不安と心配が駆け巡り、途端に胸がざわざわと落ち着きをなくす。
頼むから元気でいろ。
無意識に願っている自分に気付き、牧野が気になって仕方ねぇんだと、気持ちの変化を自覚するしかなかった。

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