手を伸ばせば⋯⋯ 3
俺の記憶は、相も変わらず一向に戻る気配はなく、日に日に苛立ちが募る。
変わらないのは何も記憶だけじゃねぇ。
海は勿論のこと、生意気な女も俺の気持ちなんざ無視で、頻繁にこの部屋を訪れるのが日常化している。
あの女には、これでもかってほど罵声を浴びせ続けてるのに、へこたれるどころか、『はいはい、これだから俺様は』と俺を適当にあしらったり、時には、『ふざけんじゃないわよ!』と、食ってかかってくることもしばしばだ。
一体、何の企みをもって俺に近づいてくるのか。未だ、その尻尾を捕まえられずにいるが、あの強い意志を持つ澱みのねぇ眼差しを見ていると、女に企みなんかないんじゃねぇかって、時折、俺の思考を狂わせる。それがまた忌々しかった。
記憶が戻らねぇのも、不遜なあの女の振る舞いも、何もかもが癪に障り、邸にある物を手当たり次第にぶち壊し、それでも発散しきれない苛立ちの矛先は、容赦なく生意気な女へとぶつけている。
あの女が、もしも俺の思考を狂わせるほど完璧に本性を覆い隠し、俺を手玉に取ろうと企んいるんだとしたら。その時はもう、今以上に容赦はしねぇ。
その女は、今日はまだ姿を見せていねぇ。
部屋には、早い時間から来ている海が、つまんねぇ話をベラベラと喋り、俺は適当に聞き流していた。
いい加減耳障りだと感じたころ、部屋のドアが叩かれ、「はーい」と海が席を立つ。
⋯⋯来たな。またあの女が。
しかし、海が迎えるより早く勝手に侵入してきた人物は、女ではなく類だった。
「こんにちは!」
類に駆け寄り海が声を掛ければ、視界に収めるどころか、存在自体を除外して素通りした類は、俺がいるベッドまでやって来ると、近くの椅子に腰を下ろした。
「どう? 司、何か思い出した?」
しかも、第一声がこれだ。
「いきなりそれかよ。俺の顔見て分かんねぇか」
そう言って軽く睨む。
一体、何年ダチやってんだ。失礼な物言いなんかせずとも察しろ。
「勿論、分かるよ。分かってて訊いたんだけどさ。相当苛ついてるみたいだね。タマさんも嘆いてたよ。暴れまくってるって」
類が、喉の奥でククっと笑う。馬鹿にしたように。
「おい類、何てめぇ笑ってんだよ」
「だって可笑しいんだもん」
「何がだ!」
「司のバカなところが」
思った通り俺を侮辱してるようだ。
「てめ、喧嘩売りに来たのかよ!」
「冗談でしょ。今の司なんて喧嘩する気にもならないよ」
笑いながらも、吐き出す言葉は刺々しい。表情と台詞が大きく乖離しすぎだ。
「馬鹿にしに来ただけなら、とっとと帰れ」
「うん、長居するつもりはないよ。ところでさ、司。この女、いつまで傍に置いとくつもり?」
顔を見るのも嫌なのか、類は、海がいる方へと向かって軽く顎をしゃくった。
「海のことかよ」
「名前なんて知らない」
「失くした記憶に関わってる気がしてる。だから置いてるだけだ」
俺が言い終わるなり、類は腹を抱えて本格的に笑い出しやがった。
険ある眼差しを向けてもお構いなし。俺の血圧は上がる一方だ。
存分に笑った類は気が済んだのか、漸く口を開いた。
「司は野生の勘まで失くしたみたいだね」
「どういう意味だ。言いたいことあんなら、もっと分かりやすく言え!」
突然、穏やかな表情を消し去った類は、さっきまで笑ってた奴と同じ人物とは思えねぇほど、冷めた視線で俺を貫いた。
「一つだけ司に教えてあげるよ。俺たちがこの女に初めて会ったのは、司が入院していた病院でだ。司が入院する以前の、おまえや俺たちの過去に、この女は一切存在しない。
司が失くした記憶は入院前のものなのに、この女が記憶に関わってるだなんて、ホント笑える。関わっているのが誰なのか。この女は、それを知りながら打算でおまえの傍にいるんだもん。何の猿芝居見せられてるのかと思っちゃったよ。
つまり司、おまえは記憶がないのを良いことに、この女に付け込まれたんだよ」
「違っ、あたしはただ、道明寺くんが可哀想で、放っておけなくて、」
堪えかねたのか、口を挟んだ海の言い訳は、類によって遮断された。
「部外者は黙ってろよ! 迷惑なんだよね。消えてくんないかな!」
初めて海に向けた類の視線は冷酷そのもので、容赦なく怒りを叩き込む。だが、言うだけ言った類は、後は用はないとばかりに「帰る」と一言だけ残すと、背を向けさっさと出て行っちまった。
類が感情を爆発させるなんて珍しいどころか、長いことダチをやってる俺でさえ見たのは初めてだ。
⋯⋯⋯⋯いや。
本当に初めてだったか?
喉に小骨が刺さったような違和感を覚え、何かが引っかかる。
俺は前にも、あんな風に怒りを纏った類を、どっかで見やしなかったか⋯⋯?
「道明寺くん、あたしの話も訊いて?」
思考の邪魔をされ、チッ、と舌打ちする。
まだ居たのかよ。すっかりこいつの存在を忘れていた。
「なに図々しく居座ってんだよ。どんだけ面の皮が厚いんだ、おまえ。出てけ。俺におまえは必要ねぇ! 目障りだ、早く消えろっ!」
「お願い! お願いだからあたしの話も、」
「うるせぇ! 出てかねぇなら送り出してやろうか? ボコボコにして病院送りにしてやるよ」
「そんなっ、酷い⋯⋯っ」
「ガタガタ抜かすんじゃねぇっ! 二度とその不細工な面を見せんなっ!」
ベッドサイドに置いてある花瓶を手に取り、海が立つ傍に叩き付ける。
ガラスが割れる派手な音と、耳を劈く海の悲鳴が重なり、顔を青褪めさせた海は、足をもつれさせながら逃げるように出て行った。
あのクソ女。所詮は、道明寺のブランドに惹かれて付き纏ってたハイエナだったか。
まぁ、気づかねぇ俺も俺だ。
野生の勘をなくしたと、類に馬鹿にされても仕方ねぇ。
だがそうなると、記憶の鍵を握ってるのは誰だ。
クソ女も、それを知っていると類は言っていた。
だとしたら、クソ女とも俺とも接点のある人物に絞られる。
────あの生意気な女か。
名前は確か⋯⋯。そう、牧野だ。
牧野が俺の記憶の何かを握っているのか?
確かに牧野自身からも、俺が忘れたものを取り戻したいと言われたことがある。
だが油断は禁物だ。あのクソ女の化けの皮が剥がれたばかりだ。
意志の強い眼差しには澱みがなく、企みなどないように見えないこともねぇが、安心するのは尚早だ。
もしも、牧野が記憶とは関係なく、あのクソ女と同じように俺を虚仮にしてるんだとしら⋯⋯、許さねぇ。
そんなことしてみろ。
あの女だけは、絶対に許しはしねぇ。
ズタズタにしてやる。
決まったわけでもねぇのに、最悪のシナリオを想像しただけで、胸をかき毟りたくなる焦燥を覚えた。

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