手を伸ばせば⋯⋯ 2
「よく来たねぇ、つくし」
門を潜り抜けアプローチを歩いている間に、あたしが来たと聞きつけたのか、開け放たれた玄関の先には、タマ先輩がいた。
「こんにちは、先輩」
「ああ。待ってたよ」
出迎えてくれたタマ先輩は、いきなりあたしの手をギュッと包み込んだ。薄くてしわしわな手からは、じんわりと温もりが伝わってくる。
けれどその顔は、いつもより眉が下がり、どこか気遣わしげに見えた。
「いいかい、つくし。先客がいるけど気にするんじゃないよ。あんたはあんたらしくいればいい。分かったね」
気遣わしげに見えた理由は、やはりそれだったか。想定はしていたことだ。
タマ先輩の言う先客。それは、傍にいることを許された女の子────海ちゃんに違いなかった。
「はい」
そう告げたものの、作った笑みは、タマ先輩を安心させるだけの域には達していなかったらしい。
「なに、しみったれた顔してるんだい。しゃきっとおしよ! ほらほら、そんな顔はここに捨てて、さっさと坊っちゃんの部屋へお行き。あんな子になんて負けんじゃないよ!」
駄目だ、こんなんじゃ。花沢類から力を貰い、先輩だって味方でいてくれる。
しっかりしなきゃ。
気合を入れるために、頬を両手でバシっと景気良く叩き、今度こそ口元に確かな弧を描いて、力強く頷いて見せた。
「よし、行っといで!」
タマ先輩にお尻を杖で軽く叩かれながら促され、気持ちの上では出陣のような心境だ。いざ向かうのは東の角部屋。
立ち止まらず部屋の前に辿り着けたのだから、非常階段で泣いていたことを思えば上出来で、やれば出来る、と自分を励ます。
深呼吸を何度か繰り返し、覚悟を決めてドアをノックした。
「はーい」
扉の向こうから届くのは、可愛らしい女の子の声。⋯⋯⋯⋯海ちゃんだ。
内側からドアが開き、真っ先に目に飛び込んできたのも海ちゃんだった。
「あ、つくしちゃん、いらっしゃい! 来てくれたのね、どうぞ入って!」
まるで自分の家のような振る舞いだ。当たり前のように存在する海ちゃんに、心が挫けそうになるけど、こんな子に傷つけられたくなんかない。海ちゃんじゃ、あたしを傷つけられない。傷ついたりなんかしない。
「こんにちは、海ちゃん」
平静を装い、意地で気持ちを奮い立たせる。
辛さや悲しみは、きっと今が底辺なはず。これ以上、下がりようがない。
だから大丈夫。あたしは負けない、と心で決意を固く結び、部屋に足を踏み入れ、道明寺が上半身を起こして凭れかかるベッドへと近づく。
けれど、距離を縮めるなり、暴力と隣合わせのような声が響き渡った。
「てめっ、図々しくこんなとこまで来てんじゃねぇっ!」
残忍な瞳が今日も突き刺さる。
その瞳に浮かぶのは、敵を見るかのような憎悪と侮蔑。
そんな目から逸しはしない。
歯を食いしばり、負けじと目に力を入れて、真っ直ぐに道明寺を見た。
「お見舞いに来たのに、随分なご挨拶ね」
「何が見舞いだ。類の女だか知らねぇが、てめぇに見舞われる筋合いはねぇんだよ!」
「花沢類とは何でもないって、入院中から何度も言ってんでしょ。だいたいね、せっかく来た相手に、その態度はないでしょうが!」
「うるせぇっ! 誰に向かって生意気な口叩いてる!」
「はいはい、道明寺司様でしょー。聞き飽きたっつうの!」
「っ⋯⋯! てめぇ、調子に乗んのも大概にしとけよ?」
目を据わらせる道明寺から逃げはせず、気合を補充するように、息をすうっと深く吸い込んだ。
❃
何なんだ、生意気なこの女は。
入院中から図々しく俺の前に現れ、こうして邸にまで押しかけてきやがって。
類の女にしちゃ躾がなってねぇ。どころか、類がいながら別の男ん家に来るとか、どんな神経してんだ。
金目当てか生粋の男好きなのか。それをおくびにも出さねぇだけじゃなく、俺が睨もうが罵ろうが、全く怯まねぇ強かさまで持つ。
挙げ句、すうっと息を吸い込んだかと思えば、大きな黒い目をギラつかせ、あろうことか俺に向かって怒鳴りつけてきやがった。
「ふざけんじゃないわよっ! あたしだってね、好きでこんなところに来てんじゃないのよ!」
「誰が頼んだよ! 呼んでもねぇのに勝手に押しかけてんのは、てめぇだろうがっ!」
「仕方ないじゃない! 馬鹿で根性がひん曲がった最低な男でも、顔合わせる以外にやりようがないんだから!」
「大人しくしてりゃいい気になりやがって。こっちの方こそ、見たくもねぇ面見せられて気分悪ぃんだよ! とっとと失せろ!」
「それでも!」と、声を一段階引き上げ、叫ぶように言った生意気な女は、次には転じて、威勢を落とした声遣いに変わる。
「そうまでしても、取り戻したいの。あんたが忘れてるもの」
腹から押し出そうとした怒声が、途端に喉元で止まった。
声音は落としても眼差しの強さだけは変わらない女は、瞳の奥に強固な意思を宿したように、ただ一筋に俺を見ている。
この女の言う、俺が忘れてるものって何だ。
もしかしてそれは、記憶のことか? こいつは一体、俺の記憶の何を知ってる。
はぁ、と息を吐き出し怒りを逃す。
「おまえ、知ってんのか。俺の記憶のこと。知ってんなら教えろ」
気を落ち着かせ話しかけてやったのは、精一杯の譲歩だ。そうまでしても、記憶の情報が欲しかった。
なのに、この女ときたら⋯⋯。
「教えない」
「何だと?」
「自分で思い出さなきゃ意味ないと思うから」
またそれかよ。ふざけんじゃねぇ!
怒りが全身を駆け巡り、布団の下で拳が小刻みに震える。
この女だけじゃねぇ。どいつもこいつも俺の周囲にいる奴らは、揃いも揃って同じ台詞を言う。自分で思い出さなきゃ意味がねぇ、と。
それが出来たら苦労しねぇ。出来ねぇからこそ、生意気な女にも譲歩してやったっていうのに。
「つくしちゃん。それくらいにして?」
俺が声を荒らげる前に割り込んできたのは、海だった。
「折角来てくれたのに申し訳ないんだけど、道明寺くん、つくしちゃんを見ると苛々しちゃうみたいで。あ、つくしちゃんが悪いってわけじゃなくてね、でも傷もまだ、」
「海ちゃん」
全部まで言わせず遮った女は、毅然として海に向き合った。
「あなたの指図は受けない。あたしはあたしの考えで動く。でも今日のところは、これで帰るよ⋯⋯あ、そうだ。忘れてた」
海などまるで意に介さず、ツカツカと歩き出した女は、ベッドの並びにあるローテーブルに寄ると、ずっと手にしたままだった小さな花束を、そこに置いた。
「これ、ほんの気持ち。退院おめでとうってことで。じゃあ、あまり無理しないようにね」
最後に俺を見た女は、この部屋に入ってから初めて笑顔を見せ、背筋を伸ばして颯爽と出て行った。
「司くん、疲れたでしょう? お茶の用意でもしてもらおっか」
二人きりになり、距離を詰めようとする海を拒絶するように、「おまえも帰れ」と告げる。
「でも⋯⋯」
「疲れたんだよ。一人にさせろ」
海の返事を待たずに体をベッドに横たえる。
暫くして、「じゃあ、また明日来るね」と言った海に何も答えずにいると、漸く動きを見せた海が出て行き、部屋は静寂に包まれた。
静けさの中で頭に浮かぶのは、あの女が口にした言葉。
『そうまでしても、取り戻したいの。あんたが忘れてるもの』
ふざけるな! と叫びてぇ衝動に駆られる。取り戻してぇと思ってんのは、他の誰でもねぇ、この俺だ、と。
⋯⋯一体、俺の失くした記憶は何だっつーんだよ!
刺されたのが原因で、俺の記憶が一部欠けてるらしいって医者から訊いたのは、まだ入院中のことだ。
だが、医者に言われるまでもなく分かってた。
自分を形成していたはずの何かの欠如。
それを失くしても、こうして自分は存在するし、一見して何も変わっちゃいねぇ。
だがその実、ざわざわと肌を撫でるような、薄ら寒い違和感を感じずにはいられなかった。
得体の知れねぇ違和感。寂寥感って言葉に置き変えてもいい。
心が不完全で、体の中にぽっかり穴が開いたような、塞ぎきらねぇ、何か。
その正体を探ろうにも、全く手立てがねぇ。
海が傍で笑うのを見ていると、怪我する前にも俺の隣には、こうして笑う奴がいたような気がする。
それが海なのか確信は持てねぇが、時折、意味有りげな素振りを見せる海の可能性も捨てきれねぇ。
それとも、全く別の誰かなのか。まさか、あの生意気な女とか⋯⋯⋯⋯いや、そんなはずねぇ、と浮かんだ思考を直ぐさま振り払った。あんな女を、この俺が傍に置くはずがねぇ。
今まで何度も繰り返してきたように、記憶を辿り寄せようと試みるも、靄がかかったように白く染まり、遮断されている。
「くそっ」
いつも同じだ。何度思い出そうとしても、それは叶わない。
寂寥感から派生するのは、思い出せない自分と、何も教えようとしはない奴らに対しての、苛立ちと焦り。
振り払いたくても振り払えねぇ感情に包まれ、断ち切るように目を閉じる。眠りに逃げるのが、一番手っ取り早い。
だが、俺の気持ちを逆撫でするように、閉じた瞼の裏に映るのは、意志の強い眼差しを持つ、あの女の残像だった。

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