手を伸ばせば⋯⋯ 1
【第1章】
道明寺の状態は危機を脱した。
安堵したのも束の間。意識を取り戻した道明寺の世界から、あたしの存在だけが消えてなくなっていた。
❃
流石と言うべきか、道明寺の身体的回復は早く、先日、無事に退院し、今は自宅療養中だ。
けれど、記憶の回復の兆しだけは、一向に訪れない。
思い出して欲しくて、今までのあたしたちをなかったことにしたくなくて、入院中から何度もお見舞いに行っているけれど、向けられる視線はどこまでも冷たい。
憎しみすら宿しているようにも見える眼差しは、いつだって容赦なくあたしを襲う。
加えての罵倒だ。
『とっとと失せろ』
『てめぇみてぇな女が、一番嫌いなんだよ』
医者は、『強く考えすぎて、その部分だけ欠落してしまったのかもしれません』と言う。
でもそんなもの、今のあたしには何の慰めにもならない。気持ちは沈没したままだ。
心が搦め捕られるのは、不安や焦り。そして自信喪失。
どう抗っても、気持ちがマイナス面へと引きずられてしまう。
今の道明寺の傍には、別の女の子がいる。
近くにいることを許された子。
あたしは駄目でも、何故その子は受け入れるのか。本来は、あんな子が好みだったんじゃないのか。過去に受け取ったはずの道明寺の想いまで不安の色に塗り潰され、不明瞭なものへと擦り替わりそうだった。
あの幸せは錯覚だったのかもしれない。あたしの独りよがりな幸せだったのかもしれない。
道明寺が強く考えていたというなら、それは、あたしを求めていたからじゃなく、あたしの存在が重くて負担に感じていたからじゃないか。だから道明寺は無意識にあたしを消した。そう考える方が、よっぽど辻褄が合うように思えた。
「はぁ」
重い溜め息を冷たい風が攫っていく。
記憶の回復の保障もない日々は、精神を疲弊させる。幸せな時間を取り戻したいと願うのに、精神の消耗は、前を向きたいあたしの邪魔しかしない。
バイトが休みの今日は、道明寺に会いに行って少しでも距離を縮めたいのに、いざその時になると、臆病風に吹かれて勇気がなかなか定まらない。
だからこうして放課後になった今も、非常階段から動けずにいる。
「牧野」
非常扉が開き、同時に届く馴染みの声に振り返った。
「花沢類」
「やっぱりここにいた」
花沢類は隣に並ぶと、あたしとは逆向きに手すりに背を預けた。
「司の見舞い行かないの?」
「行こうとは思ってるんだけどね⋯⋯、なかなか勇気が、ね」
顔を合わせられず、目を不安定に揺らす。
横から注がれる視線が胸に痛い。
「らしくないじゃん。逆境にこそ、雑草は強いんじゃないの?」
だよね、と苦く笑った。
「でも、何か夢見てたのかなぁって⋯⋯。あの事件が起こる直前までは、本当に幸せだったのに、なんか全部夢だったのかなって」
花沢類の言う通りだ。らしくない。こんなにも簡単に弱音を吐いてしまうだなんて。今の自分に余裕がない証拠だ。
「今じゃ、敵を排除するような目つきでさ。ちょっと自信なくしちゃったかな」
あの冷たい目が雄弁に語っている。あたしは要らないと。
「本当は、命が助かっただけでも感謝しなくちゃいけないのにね。それ以上のものを望む方が間違ってるのかもしれない」
「間違ってないよ」
黙って耳を傾けていた花沢類が、あっさりと言う。
「望んで当然。正しい場所へ戻そうとすることの何が悪いの? 今の現実の方が歪んでんのに。
確かに今は辛いかもしれない。でも、もしも牧野と司の立場が逆だったら、どうだったろ」
「逆だったら?」
うん、と花沢類が頷いた。
「もしさ、牧野が記憶なくして司のことを忘れたとしたら、あいつなら、俺が牧野の記憶を取り戻してみせるって、息巻くんじゃない? それこそ死にもの狂いでさ。
司の牧野への想いは半端じゃないもん。牧野は違うの? 司に負けないくらい、牧野だって司が大切で必要なんじゃないの?」
目の奥が熱くなり、こみ上げてくるものを必死に堪える。
大切に決まってる。何よりもあたしには道明寺が必要だ。心に生まれた空虚は、他のどんなものでも埋められない。道明寺じゃなければ⋯⋯。
だけど、どう頑張ったって取り戻せない。それがどうにもならないからこそ辛く、痛む胸は今にも張り裂けそうだった。
「あたしのことを、あたし達の過ごした時間を、なかった事になんてして欲しくない。でも⋯⋯、道明寺は違うかもしれない」
記憶が戻るかどうかなんて、もう神の匙加減一つなんじゃないかと思えてくる。自分が何度道明寺の元へ通おうが、何の意味もないじゃないか、そう思えてならない。
「それはあまりにも司に酷い」
花沢類が静かに紡ぐ。
「そこまで疑われたら、司が報われないでしょ。流石に俺も司に同情しちゃうよ」
「だって」そう反論を口にすれば、花沢類は断固とした口調で先を封じた。
「俺は知ってる。司がどれだけあんたを想ってたか。バカみたいに真っ直ぐで、牧野を想う気持ちだけは、どこまでも純粋で。何度打ちのめされても、司は牧野を諦めなかったよ。その想いを疑わないでやって? 牧野だって本当は分かってるでしょ? 自分がどれだけ大切にされてたか。時には鬱陶しいくらいにさ」
道明寺との思い出の数々が脳裏を掠める。過去と現実の落差に哀しみが胸を覆い、唇を噛み締め俯いた。
「いつか絶対、司は牧野を思い出すよ。あいつの本能は馬鹿にできない。だから必ず、牧野を思い出す」
「⋯⋯」
「それとも、司のことなんていっそ捨てちゃう? 記憶があろうがなかろうが、面倒な男であるのは確かだしね。牧野が決めたことなら、俺は反対しないよ」
あまりにも軽く言われ、何も考えないまま反射的に頭を振ってしまう。
それを見た花沢類が、クスっと笑った。
「だったら行っておいで。何度でも行って、あの馬鹿にぶつかってきなよ。司が牧野にそうしたように」
花沢類の言う通り、道明寺は、いつだってあたしを追いかけてきてくれた。時には酷く傷つけたりもしたのに。それでも諦めずに、何度も何度も。
「大丈夫だよ、牧野。牧野はちゃんと司に愛されてたし、二人の絆が強いのは、誰よりも俺がよく知ってる。牧野はもっと自信持っていい」
優しい手が頭に置かれ、遂には堪えていた涙が膨れ上がり、目の縁を超えた。
止めたくても止まらず、いっそ言うことの聞かない涙に弱さを乗せ、流せるだけ流してしまおうと思った。
泣くだけ泣いたら、その分また気持ちを強く持つから⋯⋯。
一頻り泣いて、濡れた目や頬を手の甲でグイグイと拭う。
ふぅ、と息を吐き出し、顔を上げて花沢類を見た。
「もう大丈夫。いつまでも弱ってなんかいられないもんね。あたし、道明寺のところに行ってくる」
「うん、そうしな」と、花沢類が柔らかく笑う。
「ただ、限界だと思ったら無理するな。俺は変わらず牧野の傍にいるから。一人で抱え込むのは、あんたの悪い癖」
一つ頷き、また言われるだろうな、と返ってくる台詞を想像しながら、思いを声に乗せる。
「ありがとう、花沢類」
「もう聞き飽きたって」
想像を裏切らず、思った通りの返答だ。
だから、お礼を受け取ってはくれない花沢類に、せめて精一杯の笑顔を返す。もう大丈夫だからと、思いが伝わるように。
「じゃあ、花沢類。行ってくるね!」
「ああ」
笑顔で告げて、しゃきっと姿勢を正すと、ヒラヒラと手を振る花沢類に背を向ける。
花沢類から貰った優しさを気力に変えて、迷いなく歩を進めた。
❃
ピンと張った小さな背中が扉の向こうへと消え、くるりと向きを変えて空を仰いだ。
俺に出来るのは、牧野がいっぱいいっぱいになった時に泣かせてやることと、背中を押してやるだけ。
それ以上でも以下でもなく、笑顔は見れても本物のものとは程遠く、持続性がないことも知っている。
残念ながら、牧野の心からの笑顔を引き出せるのは、俺じゃない。
俺が好きな、そして司が大好きな、あのとびきりの笑顔をまた見たい。
だから⋯⋯。
「早く思い出せよ」
茜色に染まった空を眺めながら、歪んだ記憶の狭間で彷徨っている親友へと、思いを馳せた。

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