エレメント 15【最終話】
「おい、出来たぞ!」
西田に何も答えを返せぬまま、トレーを持った司が戻って来た。
トレーの上には、コーヒーカップが3つと、気が利くことに、ケーキの取り皿やフォークまで載せてある。
司と西田には、普通のコーヒーなのかエスプレッソなのか判別つかないものを置き、つくしの前にはミルクたっぷりのラテが置かれた。
そのラテを、西田が不思議そうにジッと見つめる。
何も言わなくても分かる。『この絵はなんでしょうか?』と、その目が語っている。
すかさず、つくしは答えた。
「マッチ棒です」
「なるほど、マッチ棒でしたか」
「何がマッチ棒だ、ふざけんなーっ!」
三者三様の声が流れるように続き、
「どう見てもつくしだろうが! 植物のつくしだっつーの!」
熱く抗議する司を見た西田は、ラテアートをもう一度見た。
「⋯⋯⋯⋯とても、個性的な絵でございます。得てして、芸術とはそういうものです」
フォローする西田も大変だ。
司は不貞腐れながらもケーキの箱を開け、
「好きなの幾らでも選べ」つくしの前へと差し出した。
「うわぁ」
自然と声が漏れる。
大き過ぎず、品の良いサイズのカラフルなケーキたちは、どれもこれも美味しそうで選ぶのにも悩んでしまう。
悩みに悩んで選んだのは、間にスライスした苺が幾重にもなって挟まる四角いショートケーキと、惜しげもなくたっぷりとフルーツを載せたタルトの二種。
司自らサーブもしてくれる。
「西田、おまえも好きなの勝手に取って食え」
だが、取り分けはつくし限定だったらしい。
西田がシンプルなチーズケーキを皿に取ったところで、早速、ケーキを頂く。
「いただきます⋯⋯⋯⋯うぅっ、美味しすぎる」
失敗した。ショートケーキを一口食べて、直ぐに後悔した。
遠慮して2つしか選ばなかったが、程よい甘さ加減に仕上げてあるここのケーキなら、3、4個は軽くいける。もっと選べばよかった。
仕事で子供たちの相手をしていると、20代の頃と比べて体力が落ちたと感じることも多くなったが、幸いにも胃袋の方だけは、まだまだ10代並みの頑丈さだ。
「旨いか?」
コーヒーを片手に司が訊いてくる。
甘いものが苦手な司は、ケーキの箱には見向きもせず、勿論、食べようともしない。
「うん、凄く美味しい」
あまりの美味しさにフォークを動かす手を止められないくらいだ。
一つ目をペロッと平らげ、2つ目のタルトも口に運び、こちらも文句なく美味しい! と心で大絶賛した時、「美味しい」共通点を持つある事を唐突に思い出して、司に訊ねた。
「ねぇ。あのイカ飯、どうしたの? 何で道明寺があの味を知ってたのよ」
答えを待つ間も、ケーキを食べるのは止められない。
「あぁ、あれか。調べたら、牧野の親父さんが、たまに顔出す小料理屋があってよ、その店の大将に、親父さんに内緒で協力してもらった」
「小料理屋?」
父に、そんな行きつけの店があるとは知らなかった。それより、娘が知らぬことまで調べているとは⋯⋯、複雑だ。
でも、安心した。一時は、母を亡くして抜け殻になっていたこともある父だ。気晴らしする時間があると知って、ホッとする。
今は、食品の製造工場で真面目に働いている父は、つくしや進からの多少の仕送りもあり、生活を無理に切り詰めずとも安定しているはず。
羽目さえ外さなければ、多少の余力で遊ぶくらい、寧ろ健全ともいえる。
「そこの大将に、牧野の親父さんからお袋さんの味の特徴とか聞き出してもらって、何種類かレシピの違うイカ飯を作らせた。で、食べ比べてもらった結果、親父さんが『懐かしい』って言ったのが、あのレシピだ」
⋯⋯そっかぁ、パパも食べたんだ。良かったね、パパ。もう一度、ママのイカ飯が食べられて。
「ありがとう。パパも嬉しかったと思う」
「おぅ」
ここは素直にお礼を言う。
自分が食べた時は司の裏事情を疑って、あまりの恐怖に味わう余裕などなかったが、父親が懐かしいイカ飯を味わえたのなら、そこには感謝しかない。例え、裏事情によるオマケ的な試食だっだとしても。
つくしにイカ飯を振る舞ってくれた日。自分にはおこわを用意した司からしてみれば、相変わらずゲテモノ料理の位置付けにあるかもしれないが、牧野家にとっては思い出の料理だ。さぞかし父は喜んだに違いない。
だが、あの父親のことだ。懐かしさと嬉しさと悲しみとで、周囲に構わずおいおい泣いたかもしれないけれど⋯⋯。
お店の大将に迷惑をかけていないかだけが心配だ。
最後の一口となったタルトを頬張り、しっかりと味わったところで、つくしは、もう一つの疑問の答え合わせをしようと、口を開いた。
だが、
「あの、ヤギ──」
「よし、食い終わったな。行くか」
司に最後まで言わせてはもらえなかった。
二人で過ごした最後の晩に出されたパンの真相が知りたかったのに、つくしの言いかけた言葉を無視して司が立ち上がる。
予定が詰まっていると言っていたから、相当急いでいるのかもしれない。
向かいでは、スマホを手早く操作していた西田が、
「牧野様、荷物を運び出す者たちを部屋に上げても宜しいでしょうか?」
顔を上げて確認してくる。
「どうぞどうぞ」
了承した数秒後には玄関のドアが開き、5〜6人の男性が入ってきた。
「そっちの寝室だ」
司が男性たちに指示を出すが、司が一人で持ち込めるほどの荷物だ。なのに、この人数で来るとは大袈裟な、と呆れつつ、マッチ棒のラテを一口口に含んでから、突っ立ったままの司に言う。
「急いでるんでしょ? 荷物の方は私が確認しとくから、早く行った方が良いよ?」
「なに呑気なこと言ってんだよ。おまえも行くぞ」
「なに馬鹿なこと言ってんのよ。あたし関係ないでしょ」
何であたしが道明寺の仕事に付いていかなきゃならないのよ。つくしは、深い溜め息を吐きながら、こめかみを押さえる。
元気になった途端にこれだ。非常識な言動に、片頭痛が誘発されそうだ。
「関係ありまくりだ! 大事な記念日になる日だろうが。一緒に行くぞ!」
「き、ねんび?」
「記念日」を漢字に変換し理解するまで、時間がかかる。
突拍子もない言動なのだから、咀嚼するまでのタイムラグは仕方がない。
「何の記念日よ」
「結婚記念日だ」
まさかとは思うが⋯⋯。
「まさか、役所に行くとか言わないわよね?」
「そのまさかだ」
本格的に頭が痛くなってきた。
証人欄が埋まっている婚姻届を持って、直ぐにでも役所に駆け込む気でいるらしい。
予定が詰まっていると言ったのは、このことだったのか。追加で深い溜め息を落とす。
婚姻届に証人として名を書いてくれた楓の気持ちは、西田の話からしても有り難いとは思う。
だからと言ってそれに甘え、今日の今日で婚姻届を出すなんて、非常識極まりない。
大人としての礼儀を抜きにして、突っ走って良いはずがない。
それ以前に忘れちゃいけない。つくしがまだ、プロポーズの返答をしていないことを。
「あたし、結婚するって言ってない!」
「おまえ、聞いてなかったのかよ。決定事項だっつってんだろ!」
「なに偉そうに言ってんのよ! そもそもね、あたしは、あんたとサヨナラしたつもりでいたのよ。なのに急にこんな話、少しくらい猶予を与えなさいよ!」
前向きな別れをしたつもりだ。
だが、認める。司を想う気持ちは、今だって変わりはない。
司の身に死が忍び寄る足音を訊いた時、自分の気持ちは痛いほど身に沁みた。
昔から今に至るまで、自分にとって司は、誰よりも愛しく、唯一無二の存在であるのだと。
だからこそだ。大切な人との未来だからこそ、周囲の想いに甘えて良いのなら、きちんとケジメとして挨拶を済ませ、義理を通してから前へと進みたい。
それに、西田ではないが、つくしだって根には持っている。つくしの笑顔の何たるかを、この男には、じっくり言い聞かせる必要がある。
つくしは声高々に言った。
「あたしの話を訊いて、あんたがちゃんと理解したら、考えなくもない!」
なのに、この男は⋯⋯。
「却下!」
「横暴!」
まだ内容も言っていない内から退けるとは、どれだけ俺様だ!
「おまえ、馬鹿だな」
何がだ。どこがだ。
目を尖らせて司を見遣れば、『やれやれ』と言わんばかりに首を左右に振り、呆れた様子で司が語る。
「何が『サヨナラ』だ。そう思ってたのは、おまえだけだっつーの。だいたいな、記憶を失くすかもしれない俺が、何も手を打ってなかったとでも思ったか。記憶を失くした俺に、牧野を捕まえろって、命令出してたに決まってんだろーが」
「威張って言うな、そこ!」
「牧野の気持ちを確認したら、手段は選ばず首に縄つけててでもとっ捕まえて、ソッコーで籍入れろって厳命してあんだよ」
「何よそれ!」
「実際、記憶失くした俺は、その通りにするつもりでいたしよ。体が自由に動かせるようになったら、麻酔薬でも嗅がせて拉致りゃあいいかって」
「ちょっ、手段は選びなさいよ、手段は!」
この男ならやる。高校生の記憶しかなかった司なら、絶対にやる。
事実、高校生のつくしは被害にあったことがある。薬品を嗅がされ、拉致られたことが⋯⋯。それが、道明寺邸に訪れた最初だ。
司が記憶を取り戻さなかったら、危ないところだった。
「記憶を失くした俺にまで命令を出していた、その俺がだ。今更、手段なんか選んでちゃ、記憶を失くしてた俺に悪りぃよな?」
「悪くないっ! 絶対に手段は選ぶべき!」
そんな抗議も虚しく司はニヤリと笑い、途端につくしは、ぶるっと体を震わせた。
⋯⋯悪巧みしている顔だ。イヤな予感しかしない。
司は笑みを湛えたまま、「牧野、ちょっとこっちに来い」と、つくしを呼び寄せるように、人差し指をクイクイと折り曲げ、寝室へと向かう。
恐る恐る後に続けば、窓辺に立った司が、窓の外の下に向って指を差した。
「あれ見てみ?」
「なっ! な、な、何なのよ、あのおぞましい集団はっ!」
寝室の窓の下は丁度エントランスにあたり、そこには人、人、人の人だかり。
「牧野様、マスコミでございます」
ご丁寧に教えてくれたのは、寝室とリビングの境界線に立つ西田だ。
「ど、どうしてマスコミがっ!」
「マスコミに囲まれた司様が体調はどうかと訊ねられ、お答えになられたからです。
『これから、一途に思い続けてきた初恋の女にプロポーズに行くくらい、体調は絶好調だ』と。
結果、成り行きを見届けようと、マスコミが付いて参りました」
「なっ⋯⋯!」
驚きのあまり口をあんぐりと開けたつくしの顎は、今にも外れそうだ。
「生放送で流した局もありましたから、世間ではもう大騒ぎです。牧野様は、そこまでテレビをご覧になられなかったのでしょう」
「っ、何をやらかしてくれてんのよ、あんたは!」
司をひと睨みしてから、もう一度窓の外に目を向けるが、何度見たってマスコミの数が減るわけじゃない。何とも恐ろしい光景が、数十秒前と変わらずそこにある。
視力が抜群に良いつくしは、直ぐに見つけた。つくしが観たテレビで、レポーターを務めていた眼鏡の女性も、あの大群の中にいるのを。
「これで俺の健康不安も一蹴されたろ。健康に問題ありゃ、女にプロポーズしてる場合じゃねぇって、誰しも思うもんな。結婚宣言まで出来たし、それによって牧野の逃げ場はなくなったし、良いことに尽くめだ」
「尤も、司様ご本人が、入院や退院日の情報を、マスコミに垂れ流しにされたのですがね」
更なる西田の補足に泣けてくる。
本当に何をしてくれたんだ、このバカ男は。
「後で病気のことがバレて突っつかれるより、先手打った方がいいだろうが。
つーわけで牧野、諦めろ。俺の記憶があろうがなかろうが、おまえは俺と結婚する運命にあんだよ。だいたいな、愛し合ってる二人が結ばれねぇ方がおかしいだろうが。散々、離れ離れになったんだ。もう俺は限界だ。一秒たりとも待たねぇ!」
「だとしてもよ! こんな遣り方ないでしょうがっ!」
「文句は後で訊いてやるから、さっさとマスコミにプロポーズの成功を報告して、役所に行くぞ」
「む、無理よ! あのマスコミの中に行くなんて、絶対に無理! 絶対に嫌っ! つーか、プロポーズ成功してない!」
首が折れそうなほど、ぶんぶんぶんぶん左右に振り回し拒絶する。
「ふーん」
なんだ、その意味深な「ふーん」は!
つくしが警戒する傍らで、司はジャケットのポケットから何かを取り出し、スイッチを押した。──────ボイスレコーダーか?
『好きだよ。この気持ちは一度だって変わったことがない。だからって────』
「きゃーーーーーーっ!」
流れてきたのは、司の病室に行った日。帰り際に発した自分の声だ。
素直になんてなるんじゃなかった! と後悔しても遅い。
「止めてーっ! すぐに消してー!」
「誰が消すか、勿体ねぇ。俺は毎日これ聴いてんだよ」
奪い取ろうとするが、頭上に掲げられ、ぴょんぴょん跳ねても届きやしない。
「いいのか? おまえが一緒に来ねぇなら、おまえからの愛の告白をマスコミに流すぞ。日本中と言わず世界中に広めてやる」
信じらんない、信じらんない、信じらんないッ!
「あんた卑怯よ! そんなものまで録音して悪用しようだなんて!」
「だからさっきから言ってんじゃねぇか、手段は選んでらんねぇって。俺の中の我慢は、この8年で焼き切れたんだよ。
それにしても、高校生の俺は素直で良い奴だよなぁ。言われた通り、ちゃんと録音もしてよ。ホント出来た男だ」
「なに自画自賛してんのよ! ていうか、変な指示出してんじゃないわよ、この横暴男っ! もう嫌だ。西田さん、何とかして下さいよ!」
頼みの綱は西田しかおらず、縋るような眼差しで見る。
だが、判断を過ったか。
「司様を止めるだなんて、私にはとてもとても。何年も司様に隠し事をされていた不甲斐ない私に、そんな力などあるはずがございません」
西田は大袈裟なまでに手を左右に振り、自分には無理だと強調する。嫌味をふんだんに織り混ぜて。相当、根に持っているらしい。
「またそれかよ」と、げんなりする司に構わず、「寧ろ」と、続けた西田は、眼鏡のフレームを指先でクイッと持ち上げ、言った。
「率先して応援しておりますので、今のこの時にも、有無も言わせず牧野様を拉致ってしまわれれば良いのに、と考えております」
「ひっ⋯⋯! 西田さんまでなんてことを! 道明寺に毒されちゃ駄目です! 西田さんまで道明寺側に行っちゃっ、絶対にダメ! キャラ変しないでっ!」
「司様、牧野様は逃げ足がお早いので、早くお捕まえになった方が宜しいかと。先日も、記憶を失くされても司様との結婚話は出るかもしれないと、ご忠告させて貰おうと思ったのですが、凄い速さで帰られてしまいました。悩みましたが、トイレにでも駆け込みたいご事情でもあるのかと、深追いは致しませんでしたが」
あの時の西田は、確かに何か言いたげだったが、忠告だったのか。
でもその前に、女子として強く訂正する!
「西田さん、トイレじゃありません! お腹空いてるっからって言ったじゃないですか!」
「おまえ、腹壊してたんかよ」
「だから違うってば! 人の話を聞きなさいっ! お腹壊してるどころか、お腹空きすぎて、ラーメンに餃子にレバニラ食べるほど元気だったわよ!」
「おまえ、そんなに喰ったのか」呆れたようにマジマジと司に見られ、「レバニラまで」と、引き気味の西田の声が続く。
うっかりバラしてしまい、つくしがたじろいだ時だった。
その一瞬を見逃さなかった司に、ひょいと抱えられた。所謂、お姫様抱っこというやつで。
「ぎゃっ、降ろせー!」
「よし行くぞ! 西田、そこの一番上の引き出しに印鑑入ってるから取れ」
「何であんたが知ってんのよ!」
「牧野様、失礼して開けさせて頂きます」
「西田さん駄目っ!」
「しかしながら、私め西田、しがないサラリーマンでございますゆえ、上司の指示は絶対です。副社長には歯向えません。申し訳ございません」
どの口が言う! 散々、その上司に向かって嫌味を言ってた強者は誰だ!
しかも、取ってつけたように急に変わった役職呼び。
だが、突っ込む前につくしの目が違うものを捉える。
「あっ、それ、あたしのっ!」
つくしの視線が向かう先は、寝室にあるウォークインクローゼット。
そこで、司の荷物を運び出すと思われていた人たちが、何故だが、せっせとつくしの物を詰め込んでいる。
「今日から新居住みだ。取り敢えず必要なもんだけ運ばすから、奴らに任せときゃいい」
「そこじゃない! 話の本筋からして間違ってる! ねぇ、お願いだから冷静になってよ。逃げないから、今後のことは、落ち着いてゆっくり話して、それから一緒に決めよう、ね?」
淡い期待をかけながら、噛んで含めるように訴えるが、
「おまえは何も心配すんな」
俺様イズムを爆走する司の足は軽やかに動き、既に寝室を抜け出て廊下まで来た今、玄関は目前にある。
「ちょっと、ホントに待ってってば!」
「待たねぇよ。もう絶対に待たねぇ! 散々、おまえに辛い思いさせたんだ。おまえの気持ちが分かった以上、もう一時だって離すかよ。俺は全力で行くからな。今後、一切の妥協はしねぇ!」
嫌! 止まれー! 降ろしてっ!
何度訴えようとも止まる気配はなく、遂には玄関の外に出た共同廊下。
その一直線上に居並ぶSPの前を、司が颯爽と通り抜けていく。
諦めもせずに尚も訴え続けていると、ふと流れる視線の端に何かが引っかかった。確認するように、通り過ぎた後方に目を向ければ、
「えっ、お隣さん!?」
見覚えのある人物がそこには居た。
司がつくしの前に現れた翌朝。司に締め出されたつくしが、地団駄を踏んでいた場面を目撃された、あの隣人だ。
つくしの訴えには止まらなかった司の足が止まる。
止まったところで隣人を改めて見れば、相手は、肩を窄めるような会釈をし、気まずそうに視線を下げた。
お隣さんが何故に司のSPの人と並んでる!?
疑問を解消してくれたのは、背後から付いて来ていた西田だった。
「そういえば、牧野様にお伝えするのを忘れておりました。実はこのマンション、司様が個人で雇っている、司様付きのSPの寮なのです」
「はあ?⋯⋯ってことは、お隣さんも道明寺のSPさん?」
「はい。このマンションの存在を知っていながら気付かぬとは、盲点でした。私も牧野様に住所を教えて貰うまで、ここに牧野様を住まわせているとは思いもよらずでして。何も教えて下さらないとは、全くもって水臭い話ですが、しかし、そんな風に思ってしまう未熟な私ですから、知らせてはもらえなかったのでしょう」
またもや西田が棘をチクリと刺し、つくしの頭上からは、「西田マジしつけぇ」と、司の小さな呟きが落ちてくる。
まさか、SPの寮だったとは⋯⋯。
8年ぶりに楓と話し合う中で、このマンションも司が関わっているかもしれないと、予想はしていた。だから、楓や西田もつくしの行方を探れなかったのだろうと。
そういうことから、『ここが一番安全だ』と司は言ったとばかり思っていたのだが、言葉の本質は、こっちだったか。
確かに言葉通りに安全だ。屈強なSPに囲まれていたのだから。
「ですが、流石は司様です。どこよりも安全な場所に牧野様を住まわせていたのですから。
牧野様? こちらの者たちは、それはそれは優秀な者たちなんです。武術に長けているのは勿論のこと、何せ口が堅い。司様が個人で雇っておりますから、会社に報告義務はありませんが、私にまで誰一人として何も知らせないとは、全く立派。見上げたものたちです。まあ、この者たちが私を信用していなかった、とも言えるのかもしれませんがね」
司だけに留まらず、西田の嫌味の矛先がSPにまで向かい、揃いも揃って体格の良い男たちの肩が、しゅんと縮こまる。
何ともシュールな画だ。
10人はいるだろう大の男たちを、一瞬にしてやっつけてしまう西田は、只者ではない。何が、しがないサラリーマンだ。
大男たちの小さくなった姿に、流石のつくしも、道明寺が堅く口止めしたからでは? とSPを庇いたくなってしまう。
果たして、縮こまったSPはどうしたか。こうした。
「司様、先を急いだ方が宜しいかと。さぁさ、早くこちらへ」
急に顔を上げたかと思うと、SPたちは一斉にキビキビと動き出し、司を押さんばかりの勢いで急き立てる。
「おぅ、そうだな。エレベーターなんて使ってらんねぇ。階段で行くぞ!」
どうやら、根が深すぎる西田の嫌味から逃げの手段に出たらしい。
ここに立ち止まっていては、いつ第2、第3の嫌味の矢が飛んでくるか分からないと、司も含め一致団結した模様だ。
しかし、その犠牲者になるのは紛れもなくつくしなわけで、俄然速度を上げた一行は、抱えられたつくしの意思を無視して、ひたすら前進するのみと、トップスピードで突き進む。
「西田さん根に持ちすぎぃー! てか、あたし素っぴん! いやーーーっ!」
つくしの必死の叫びも、訊いてくれるものはここにはいない。
画して、司にお姫様抱っこされたままマスコミの前に登場するという、恥ずかしい姿を全国ネットにさらされ、強制連行された役所からは、婚姻手続きの模様もリアルタイムで配信された。────前代未聞だ。
事前に撮影許可まで取っていたのか、代表のカメラマンが役所の中まで入って撮影する抜かりのなさは、絶対に俺様の差し金に違いない。
勝手を貫き通した男への、せめてもの反撃とばかりに、
「おめでとうございます」
婚約届を受理した役所の人間からにこやかに言われて直ぐ、
「離婚届を下さい」
真顔で言ってやった。
ギョッとする役所の人間と、悲鳴にも似た周囲からの声。
最も落ち着きをなくしたのは司で、顔色を青褪めさせ、オロオロと慌てふためく滑稽な姿も、勿論、電波に乗っかって視聴者に届けられた。
✤
「なぁ」
「⋯⋯⋯⋯」
「んな膨れんなよ」
「⋯⋯⋯⋯」
「丸い顔が余計パンパンになってんぞ。やっと結婚できたんだからよ、喜べ」
我儘を押し通した上に失礼極まりない発言に、目尻を吊り上げ睨む。が、まるで効果はない。
「やべぇ、ニヤける」
言葉通りニヤニヤと浮かれている司は、「牧野が俺の嫁、俺の奥さん」と、鼻歌を刻むように何度も口にし、つくしは慌てて窓の外へと視線を移した。────つられて緩みそうになる口元を隠すために。
今、つくしたちは、道明寺邸へ向かう車中にいる。楓に挨拶をするためだ。
あのあと、離婚届を要求したつくしに、顔を青褪めさせ慌てた司は、役所の人間に、『離婚届は出すな!』と威嚇し、これ以上つくしがおかしなことを言い出さないよう、またもやお姫様抱っこで攫って車に押し込め、新居に直行しようとした。
だが、それにつくしは異を唱え、先ずは楓にきちんと挨拶をするべきだ、と主張し、行き先を変更して今に至る。
挨拶など後で良いと司は言い張ったが、強硬手段とはいえ、籍を入れてしまったのは、変えようのない事実だ。
何だかんだ言っても結局のところ、常識外れなこの男を愛さずにはいられない自分が婚姻届にサインをしたのだから、色んなものをすっ飛ばした非常識な入籍に対して、謝罪と報告をしないわけにはいかない。
恥もかききったつくしは、もう腹を括っている。
今も、後ろかはマスコミの車がついてくるし、空から聞こえる音からすれば、ヘリでも追跡されているのだろうけど、こんな騒がしい日々が何度となく訪れようとも、それでも残りの人生は、大切な人と並走しながら生きて行く。そう心に決めた。
だが、何事も初めが肝心だ。だからこそ、つくしは緩みそうになる顔を引き締め、怒っているポーズを保たなければならない。
何故なら、『────牧野の笑顔が絶えねぇくらい、必ず幸せにする。』そう言ってプロポーズした司に、つくしの笑顔の何たるかを、今度こそ骨の髄まで分からせるために、今夜は説教する気満々でいるからだ。
それが終わったら、真っ先に訊こう。あのヤギのチーズのことを。
あれは、まだ二人が恋人同士だった頃。つくしの部屋に泊まった司と朝食を摂ろうとした時だ。
何かの話の流れで、『俺に分からねぇもんはねぇ!』と豪語する司に、つくしはパンを出した。
トーストの上に目玉焼きを乗せただけの、シンプルなパン。
『これね、ジ○リ飯のラ○○タパン。あ、勿論、知ってるよね。世間の常識だもんね!』
常識でもなければ司が知らないのは承知の上で言えば、眉をピクピクさせたり、怪訝にパンを覗き込んだり、司の顔はころころと変わる。
つくしの言葉も、日本語かどうなのかヒヤリングさえ怪しかっただろう司は、分からないものはないと言ってしまった手前、つくしに訊ねるわけにもいかず、警戒心に満ちた顔でパンを小さく齧った。
大人しく食べるその姿が可笑しくて、可愛くて。つい調子に乗って、
『でも、ホントはハ○○のパンが食べたいんだよね。でも、あれって何のチーズだったんだろう』
益々、司が分からない話を重ねた。
それを司は覚えていたに違いない。
二人で過ごした最後の晩に出されたパンを見た時、直ぐに分かった。
つくしが食べたいと言ったから、司は調べたのだろうと。
ねぇ、観たの?
何のチーズか調べるためだけに、あれを道明寺が観たの?
『ク○○が立ったー!』ってシーンは、ハ○○の科白じゃなかったって本当!?
それよりあんた、一体どんな顔して観たわけ?
訊ねたいことを胸のうちに押し込み、つくしは、チラリと司を盗み見る。
しかし、盗み見るつもりが、満面の笑みの司の目とガッツリと合う。
「ババァの挨拶はサッサと済ませてよ、直ぐ新居に行こうぜ。メープルから食事も上等なワインも運ばすから、二人でお祝いしような。あ、でも、あんま飲みすぎて酔うんじゃねぇぞ。今夜は、しょ、初夜なんだしよ」
急に顔を赤くした司に、顔を引き締めて言う。
「あんたこそ、飲みすぎんじゃないわよ? 覚悟しときなさいよね」
「お、おぅ。何だよ、そんなに乗り気かよ」
司は益々、顔を赤く染めた。
何だか途轍もない勘違いをしているようだが、『ナニをなさる』だけが初夜じゃない。
残念ながら二人の初夜は、徹夜で膝詰めの説教とお仕置きで決まりだ。
浮かれていられるのも今のうち。あれだけつくしを恐怖に陥れたのだから、覚悟してお仕置きを受けるがいい!
あんな怖い思いは、もう沢山だ。
司の命と引き換えに生まれる幸福などどこにもない。つくしが望む喜ぶ幸せな場面は、いつだって司が居なきゃ成り立たない。命を削るなんて以ての外、それを徹底的に叩き込む。
そう意気込みながらも心が弾むつくしは、またこうして怒れる時間があることすら、幸せを噛み締めずにはいられない。
説教を終えるまでは厳しい顔をキープしたいところだけれど、これがなかなかに難しい。油断すれば、直ぐにでも笑み崩れてしまう。
司が隣に居るだけで顔が綻びそうになるつくしは、まるで女子高生だ。箸が転んでも、きっと笑ってしまうだろう。
それも仕方がない。
だって─────。
あたしの笑顔の成分は、道明寺の存在そのもの、なんだから。
さぁて、どうやって司を説教しようか。お仕置きの方は、一緒にハ○○を観るっていうのはどうだろうか。どんな顔してアニメを観るのか直で確認してみたいし、全話見終えるまで、司の望む初夜はお預けにするのがいいかもしれない。うん、そうしよう!
考えるだけで可笑しくて堪らないつくしは、顔を窓へと向け、司にバレないように、そっと笑った。
fin.

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これにて完結です。
体調不良でダウンしておりまして(コロナではありません!)遅くなりましたが、やっと終わりました。
最後までお付き合い頂けましたこと、心から感謝です。
あとがきやら、今後の予定については、また改めてご報告させて頂きますね。
最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました!