エレメント 13
時間に追われもしない、のんびりとした休日。少しだけ手の込んだブランチを口に運びながら、今度はどこにしようかなぁ、と頭を悩ます。
新しい年が明け、早一週間。3月の年度末をもって、今の保育園を辞めるつもりでいる。悩んでいるのは、その後の行き先だ。
今の保育園に道明寺が関わっていると分かった以上、いつまでも甘えるわけにはいかない。このマンションにしても同じだ。
区切りの良いところで退職し、心機一転、新たな場所で生活していこうと考えている。
いっそ都内から出てみるのも悪くないかもしれない。幸いにもそこそこ貯蓄はあるし、住む場所を決めてから、のんびりと就職活動でもするか。そんな風に悠長でいられるのも、資格を持っている強みだった。
「でも、東京から出るにしても近県よねぇ。パパもそろそろいい歳だし、あんまり遠くに⋯⋯、」
誰にも気兼ねせずの独り言が、プツリと止まる。
BGM代わりに点けっぱなしにしていたテレビから、馴染みの名が流れて来たからだ。
『道明寺司さんが、先月から入院されていたことが明らかになりました。詳しい病状については───』
テレビの中では、眼鏡をかけた女性リポーターが、道明寺について語っている。
「あらら、マスコミにバレちゃったんだ」
あれだけ厳戒態勢だったのに。目をパチクリさせながら呟く。
『────術後は回復も良く、道明寺さんは無事、本日退院となりました』
今日、退院するんだ、と思ったところで、女性リポーターから画面が切り替わる。
録画だろうか。病院の正面玄関に、マスコミが大挙して押しかける様子が映り、その中にSPに囲まれた司が姿を見せた。
退院時の映像のようだ。
「良かった」
つくしの顔が自然と綻ぶ。
画面に映る包帯も外れた司は、痩けていた頬が幾らか戻り、顔色も良い。体調が落ち着いているようで安心する。
寧ろ、別の心配をするべきかもしれない。司の機嫌具合を。
これだけの数のマスコミに囲まれてしまったのだ。気分が良いはずがない。
病を抱えていた人に向かって、興味を全面に押し出した配慮のないマスコミの存在は、観ているつくしでさえ、面白くない。
つくしでさえそうなのだから、本人はもっと不愉快だろう。
それに今の司は、高校の時の司に逆戻りしている。大人になってからの司なら、腹立たしかろうが、それなりの対応で乗り切るだろうが、今の司なら一体どうなるか。考えて答えが出た────暴れる。
駄目だ、司が喚き散らす想像しか結べない。
画面を通して暴れる姿を見せられては、ヒヤヒヤしてつくしの心臓に悪い。
つくしはリモコンを手にした。
「あんたも大変だろうけど、あんまり暴れず無茶せず、頑張んなさいよ」
画面越しにエールだけを送り、司が暴れ出す前にテレビのスイッチを切った。
残りの食事を掻き込み、食後のコーヒーでも飲もうかとキッチンに立つ。
いつものインスタントの瓶を手に取って、ふと動きを止める。
「これ、使ってみようっかなぁ」
インスタントの瓶を元に戻し、気紛れに視線が向かった先は、司が持ち込んだエスプレッソマシーン。
司が居なくなってからというもの、キッチンに鎮座しているだけで、一度も使用したことはない。
「あれ? どうやって使うのよ、これ」
だが、簡単に使えるだろうと思っていたが、甘かった。
一般的なコーヒーメーカーと然程変わらないものと思ったのだが、よく見れば訳の分からないダイヤルやらボタンが付いていて、何だこれは、と最初から躓く。
今までまともに観察したことのなかったマシンは、初心者には全くもって優しくない仕様だ。
「もっと誰にでも分かるようにしなさいよぉ」
説明書を探しても見つからず、鎮座するマシンに因縁をつけて、八つ当たりするように軽く叩く。が、軽く叩いたつもりが、どこからか「カチャ」と何かの音を拾った。
「ん? 今なにか音しなかった?」
まさか、叩いた拍子に部品の一部が外れたりでもしたか、とマシンを舐め回すように見る。
「そんな思いきり叩いてないのに、壊れたとしたら、ちょっと柔すぎでしょ!」
言い訳と文句をぶつけていたとき、それは突然につくしの耳に飛び込んできた。
「おまえ、叩いたのかよ」
「ぎゃーーーーっ!」
完全なる不意打ちの声は、つくしに逞しい悲鳴を上げさせ、足は床から10cmは跳ね上がった。
「うっせぇ」
突として現れたのは、キッチンの入り口を塞ぐように立つ司で、つくしの悲鳴に顔を顰めさせている。その背後から、ひょいと顔を覗かせるもう一人。
「牧野様、突然お邪魔して申し訳ございません。そして、明けましておめでとうございます」
西田だった。
「っ!⋯⋯お、おめでとうごさいます? って言うか何故ここに⋯⋯」
闖入者に驚くあまり、心臓はバクバクと偉い騒ぎで、西田につられて形式的挨拶をしたものの、この予想だにしない状況は、どう理解するべきなのか全く分からない。
「な、なんで道明寺がここに居んのよ」
「今日、退院したんだよ」
微妙に会話が噛み合っていないように感じるのは、気のせいだろうか。
「⋯⋯うん。さっき、テレビで観たよ。おめでとう。もう体は大丈夫?」
呆気にとられながら呟くように言う。
「お、そうか。待ってたのか」
勘違いじゃなかった。やっぱり噛み合っていない、と内心で嘆きつつ、司の右手に合鍵を見つける。
もしかして、マシンの部品が外れたと思っていたものは、司が鍵を開けた音だったのかもしれない。
「約束したケーキも買ってきた。手術終わったら、旨いケーキ買ってやるって言ったろ?」
得意げな顔の司は、合鍵を持つ逆の手に、ケーキの箱をぶら下げている。
泣きじゃくったあの夜、確かに司はそんなことを言ってはいたが、それは術前の司だ。
と言うことは、そんな些細な出来事まで手記に残し、今の司に約束を守らせるべく、指示を出していたということか。
約束を代行するために、だから司は、こうしてここに来たのだと納得したつくしは、少しだけ落ち着きを取り戻し、何も律儀に言いつけを守ることないだろうに、と苦笑した。
「あのね、手術前の道明寺がケーキ買えって指示したのかもしれないけど、もうこっちのことは気にしないで大丈夫だから、ね?
でも、来たなら丁度良かった。道明寺の荷物、持ち帰っちゃってくれる?」
「ケーキまで指示してねぇよ。荷物の方は後で運ばせる」
え? 指示されていない? だったら何でここにいるのよ。⋯⋯⋯⋯いや。何かがおかしい。
記憶を数秒前に巻き戻し、はたと気づく。
道明寺は、「指示してねぇよ」と言わなかったか。受動的ではなく、能動的発言。つまり、指示された側ではなく、指示する側⋯⋯!?
「まさか!」とつくしが声を上げたと同時、
「記憶が戻った」
司がニヤリと笑う。
「嘘っ!」
「嘘じゃねぇよ。全部、思い出した」
驚きの余り、酸欠になった金魚のように口をパクパクさせるしかないつくしに、「牧野様」西田が間に入った。
「あの翌日に記憶が戻られたのです。術後の一時的な記憶の混乱であったらしく、医者によりますと、そういった症状は珍しいことではないと申しておりました」
それでも、馬鹿の一つ覚えみたいに「嘘」しか連発出来ないでいるつくしに、司がリビングへと誘う。
「狭いキッチンで立ち話もなんだし、とりあえず向こうに座れ」
記憶など些末なことだと思っていた。命があるだけで、それだけで充分だと。
つくしにとって、司の命が助かることだけが全てであり、極端に言えば、その他のものなどどうでも良い。
だから、何かを望んだりすることはおろか、こんな状況がやって来ようとは想像すらしておらず、キッチンが狭いと言われようとも、文句を言うのも忘れるくらいの驚きだ。
自分の家のように振る舞う司に言われるがまま、誘導されたソファーへと座り、その隣に司も腰を下ろす。
「でだ。もう分かってると思うが、改めて言う」
そう司は切り出したが、何を改める気なのだろうか。改める以前のものからして分からない。
尤も、突拍子もない司の思考など、常識人である自分の想像が及ばないことなんて、ザラだ。
一体、つくしが何を分かっていると言うのか。首を傾げながら続きを待った。
「牧野、俺と結婚してくれ」
⋯⋯⋯⋯やっぱり、理解不能だった。

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