エレメント 12
危険極まりない視線に射竦められそうになりながらも、何とか答える。
「う、うん、そう。牧野⋯⋯です」
かつての恋人であり、入院する直前まで一緒に過ごしていた相手に何とも珍妙な返答ではあるが、司は記憶がないのだから仕方がない。
ましてや、惜しげもなく物騒な面構えで見られては、『ですます調』だって付け足したくもなる。
剃髪は一部分だけだったのか、クルクルの髪を覗かせた頭に包帯が巻かれている司は、ベッドの脇にある二人がけのソファーに向けて顎をしゃくった。
好意的に迎え入れているわけじゃないだろうけど、取りあえずは座れということか。
ただ、油断は出来ない。術後の患者とは思えない剣呑な態度は、何をしてくるか分からない危険を孕んでいる。そう思えてならないつくしは、勇気をかき集め、ソファーに座るなり釘を刺した。
「覚えてないだろうけど、手術をする前の道明寺と話す約束をしたからここに来たの。だから、話を訊く間は、怒鳴ったり枕を投げないで頂けると助かるかなぁ、なんて」
「⋯⋯分かってる」
恐る恐るの態で言えば、舌打ちでも聞こえてきそうな顔つきだ。
「暴言と暴力は駄目だって念押されてる」
表情からすれば、全くもって説得力に欠けるお言葉だが、つくしより以前に、危険行為を見越して注意をしてくれた人がいるようだ。恐らく、西田辺りか。
「西田さんにそう言われたの?」
「違げぇ。⋯⋯⋯⋯俺にだ」
えーっと⋯⋯、言ってる意味が⋯⋯。と要領を得ず疑問符を浮かべていたのが、まともに顔に出ていたらしい。
「全部、書き残してあった。あんたとの関係やら手術に至るまでの経緯を。手術受ける前の俺が、記憶を失くすかもしんねぇ俺宛に」
あー、なるほど。それでつくしの名前を知っていたのか、と納得する。
つくしと会おうとしたのも、それがあったからだ、と大まかな司側の事情を把握した。
「他人に言われたなら無視するとこだが、間違いなく俺の字だ。信じるしかねぇ」
信じるしかないと言いながら、その顔はかなり不本意そうだ。
「まさか、手術前にそんなことをしていたとは⋯⋯」
「前にも記憶失くして、あんたに酷ぇ態度取ったらしいな。今度は同じことするなって書かれてある」
司は、よっぽどあの時のことがトラウマになっていたのかもしれない。
だから、二度と過ちは繰り返さないよう学習能力を発揮して手記まで残して。
また、そうでもしないと、何を仕出かすか心配だったのだろう。
どうやら、本人が一番よく分かっていたようだ。己の凶暴さ加減を。自分に注意をしておかなければ危険だ、と判断するまでに。
自分で自分を警戒するなんて⋯⋯、そう思うと可笑しくてプッと吹き出すと、今度は本当に舌打ちが聞こえ、続けて不機嫌な声での質問が飛んできた。
「で、何で俺と別れた」
それも、いきなりのド直球。
「え、うん。あー、そのね」
スラスラと話せる気楽な内容ではないだけに、前置き代わりにしどろもどろになれば、直ぐさま責っ付かれる。
「手術前のあんたの様子から、あんたが別れ話を切り出したのは、本心じゃなかった可能性が高い、そこを確認しろって指示が出てる」
何て抜かりのない。一体、どこまで詳細に手記に書き記してあるんだか⋯⋯。
記憶を失った自分まで支配下に置くべく準備を整えていたとは、恐るべしだ。
「ったく、何で俺がこんなこと⋯⋯。とにかく、とっとと話せ」
面倒くさい役を押し付けられた術後の司は、思いきり顔を顰めさせている。
ここまで知られているのなら話は早い。全てを話せばいい。そう約束したのだから、術前の司と。
つくしは軽く呼吸を整え話しだした。
「記憶のあった道明寺の読み通りだよ。あの時は、別れるしかないと思って嘘をつくしかなかった」
「別れる時に言ったことは、全部でたらめだったってことか」
「うん⋯⋯。ごめんなさい」
「ババァに脅されたとかじゃねぇのか?」
つくしは首を振った。
「違うよ。確かにお会いしたけど、どちらかと言えば、あたしが脅したようなもんだし⋯⋯」
最後の方はごにょごにょと小声になったせいで聞き取れなかったかもしれず、「とにかく」と仕切り直す。
「あの別れは、誰かに指図を受けたからとかじゃないよ。あたしの意思で決めたこと」
嘘をついていないか探るように、じっとりとした目でつくし見てくる。
「ホントだって」
面倒くさい、とあからさまに顔に出していた割には、指示を受けた任務は忠実に遂行するつもりなのか、あまりの疑いの眼差しに苦く笑う。
「あたしが堪えられなかったから別れた、それが全てだよ。もうどうにもならない状況下で、それでもあの頃の道明寺は、何とかしようと必死で、でもどんどん窶れてって。そんないつ倒れてもおかしくない道明寺を見ていられなくなったの。だから別れた」
8年前の道明寺は危うく見えた。焦燥に駆られ闇雲に突っ走って痩せ細り、倒れるまで走り続けてしまいそうな⋯⋯。
迫りくる運命の波に逆らう術は、何一つとして持っていなかったのにも拘らずだ。
楓に言われずとも、いずれ、つくしから別れを切り出していたはずだ。つくしが止める以外にないと。止める方法も、別れる、という手段しかなかった。
当時の司の顔を今でも覚えている。
8年後につくしの前に現れた司は、その頃よりも痩せていたのだから、つくしの心臓の方がどうにかなりそうだった。そう、目の前に居る司に文句を言いたくもなるが、今の司に言ってもしょうがない。────そこで、ふと別の思考が過った。
────今の司なら教えてくれるだろうか。
つくしには訊きたかったことがある。
術前の司が事情を書き記してあるのなら、知っているかもしれない。
知っているなら、記憶の欠如で怒り以外の感情が薄い今の司だったら、何の配慮も遠慮もなく、ありのままを答えてくれる気がした。
「あたしからも一つ訊いても良い?」
「⋯⋯⋯⋯」
じっとこちらを見たままで返事はないが、無言の了承だと判断して、どうしても知りたかったことを訊ねる。
「⋯⋯道明寺は、その⋯⋯、本気で自ら人生を畳むつもりでいたの?」
「だろうな」
司と過ごした最後の夜こそ、『死ぬつもりなの?』とダイレクトに訊いたつくしだったが、その心配もなくなり冷静になった今は、デリケートな事柄ゆえに言葉選びを慎重にしたというのに、相手はといえば、あっさり風味も良いとこだ。
全くもって、口調に重みがない。感情が伴わないとはいえ、淡白にもほどがある。
「なんか、人生の最後を全く恐れてないように見えたんだけど」
目の前にいるあなたも、とは口には出さずに胸に据え置く。
死を恐れていない。これは術前の司だけじゃなく、態度からして今の司にも共通して言える気がする。
記憶がないとはいえ、自身の身に起きた危機だ。それを、こんなにも感情を平坦にして受け止められるものなのだろうか。
「そりゃそうだろ。恐れるかよ」
やはり返って来た答えは、あっさりとしていた。
「どうして?って訊いてもいい?」
「生にしがみつく理由がねぇ」
余りにも間髪入れずの返答に、思考の処理が追いつかず反応が遅れる。
その間に司は、つくしがまさに聞きたかったことを淡々と語った。
「勝手にこの世に産み落とされ、勝手に運命を決めつけられて、そんな苛つきしかねぇ人生に何の未練があるよ」
心情のままに吐露したのだろうが、そうだった。元々は絶望の中を生きてきた人だ。これが、司の素地だ。
その素地がある故に死をも恐れないというのか。
何て哀しく寂しい告白だろうと、視線が下がる。が、「けど」と続きがありそうな司の声に、直ぐに顔を上げた。
「あんたが思ってる最期とは、多分違う」
「え?」
「あんたは自殺すると思ってたんじゃねぇのか? だが違う。あんたが知ってる俺は、自殺する気はなかった」
今はその心配もなくなったのに、直截な『自殺』という表現に、ドキリとさせられる。心臓を忙しなくさせながら、だったら何? と目だけで問う。
「自殺じゃねぇ。選んだのは海外での安楽死だ」
驚きに声も出なかった。
そんな選択肢は、つくしの世界観では想像すらつかないものだ。
勿論、言葉としての意味合いだけは知っている。幾つかの異国では、人生の区切りへの選択肢の一つになり得ることも。
ただ、その在り方を深く掘り下げて考えたことはない。つくしが健康で年齢的にも若いから考えが及ばないという側面もあるし、日本では認められていないだけに尚更だったかもしれない。
「そもそもが、希望もねぇつまんねぇ人生だ。でも見つけたんだろ。唯一の生きた証を。それがあんたの存在だったらしい」
「⋯⋯それがどうして安楽死に繋がるの? 手術すれば助かる可能性が高いのに、それを拒むなんて⋯⋯。道明寺は自分の人生を呪ってたの?」
呪ってた、これは楓が言っていた言葉だ。司は自分の人生を呪っていたかもしれない、と。
だが、司は一蹴した。
「逆だろ。生きてんのか死んでんのか分かんねぇ生き方してた奴が、最期は生きた証を守るために真っ当に生きようとした。腫瘍が悪さして、体のあちこちがいよいよ駄目だってなった時の安楽死だ。
呪ってるどころか、あんたの記憶を大事に守りながら最期を迎えるのは、幸福な選択だったみてぇだし、死を恐れるはずがねぇ」
なのに、手術受けて記憶飛ばしてりゃ世話ねぇな、と皮肉げに司は笑うが、それに付き合う余裕はない。
そんな最後を『幸福な選択』と呼ぶのか。素地だけが理由じゃなく、だから怖くなかったのか。
つくしは言葉が出てこなかった。
「生きた証を守るために死ぬなら、それは精一杯生きたのと同義だ」
「そんな⋯⋯」
「最期くれぇは、道明寺司っていう柵を取っ払って、ただ一人の男としての生き様で終わりにしてぇと思ったんだろ。自分が自分らしくあるために、寧ろ自分の人生を大切に扱ったんじゃねぇの?」
安楽死を否定するだけの根拠をつくしは持たない。それで救われる人も存在するだろうし、人としての尊厳を守るべく、選べる権利があっても良いとも思う。
だが、司の場合においてはどうなんだ。病気が治る可能性の高かった司においては。と、考える側から言葉を選ぶ前に口走っていた。
「あんた、これから先、何があっても簡単に死ぬんじゃないわよ」
つくしを忘れた司を相手に、随分とぞんざいな物言いになったが、願わずにはいられない。
せめてこれから先の人生は、何かのために命を削る引き算の生き方ではなく、何かのために生きる価値を見出す足し算の生き方であって欲しい、と。
司の人生に思い出が沢山積み重ねらるよう、生きたい、と思えるほどの何かが待ち受けていますように、そう願わずにはいられない。
「折角、助かった命なんだから、大事にしなかったら許さない」
命を粗末に扱って欲しくなくて、声に力を入れる。
人生80年。まだまだ何があるか分からない。藻掻いて足掻いて格好悪くても、寿命が尽きるギリギリまで、希望に賭けてみたって良いじゃないか。どこに救いや幸せが落ちているか分からないのだから。
辛い経験がないから言えることだと非難されようとも、それでもつくしは、命を犠牲にして良いとは思わない。重みある命の大切さを支持する。
死を恐れない思考を持つ司に、ここに来て沸々と怒りが湧いてくる。
大体ね、楽しさや幸せだけに満ち溢れた人生なんかあるはずないじゃない!
人は何かしらの悩みを抱えながら、この窮屈な世の中を懸命に生きてんのよ!
ふざけんなっ!
「あんたの、その人生に未練がない冷めた思考は、手術の時に悪いもんと一緒に切り取られたと思って捨てることね! これからは、何があろうとも気張って生き抜きなさいよ!」
「何を偉そうに」呟いた司の顔が不満げに歪む。
「勘違いしてんじゃねぇよ。誰が率先して死ぬかよ。人を願望者みてぇに言うな。それに指示されてる。あんたが知ってる俺に、この先は絶てぇに死を選ぶんじゃねぇって。ったく、指図ばっかしやがって勝手なや⋯⋯」
最後は、勝手な奴、とでも続けようとしたみたいだが、それが自分であることに気づいたのだろう。司は言葉尻を呑み込んだ。
記憶を失くす前の司が指示を出したのなら大丈夫だ、と妙に安心する。
決めたことは必ず守るのが司だ。そして、今の司は術前の司に従順だ。
高校入学当時の記憶しかないなら、荒れまくっていた当時に戻ったと同じ。その頃の司といえば、大人たちは勿論、親友たちでさえ手を焼いていただろうに、術前の司は、今の司を完全にコントロールしている。こうして、つくしと会話をさせてしまう程に。
自分の扱いは自分が良く知っていたのだろう司が死ぬなと言ったのなら、それは絶対だ。
高校生の頃の司だって、白か黒かはっきりしていた男だった。曖昧な嘘などつくはずがない。その男が率先して死なないと言うのなら、それは信用に値する。
「それ訊いて安心したわ」
つくしはソファーから立ち上がった。
必要なことは話せた。もう充分だ。
「道明寺と話せて良かったよ。約束通りあたしの話も出来たし、手術して間もない道明寺に無理もさせられないから、あたしはこれで帰るね。早く元気になって、これからも無茶しないでね!」
気持ちも軽く、ドアへと向かって数歩進んだところで、「おい」司の声が呼び止めた。
振り返り、何? と首を傾げる。
「あんた、俺のことがまだ好きなのか?」
「っ!」
最後に何てことを聞いてくるのだ、この男は。
恥ずかしげもなく聞いてくる様子は、まるで他人事だ。尤も、記憶のない司にしてみれば、確かに他人事なんだろうけれど。
『晩飯なんにする?』くらいのノリで気負いなく訊かれては、段々とつくしの恥じらいも消え失せ、気楽なものへと変わった。
最後くらい素直になってみるのも悪くない。
「好きだよ。この気持ちは一度だって変わったことがない。だからって、この先どうしたいとか、何かを望むことは一切ないから、道明寺も気にしないで?
お互いそれぞれの道で人生を全うしましょう、ってことで! じゃあ、今までありがとう。元気でね!」
司に手を振ると、今度こそ軽い足取りで病室を出た。
気持ちが軽くなったつくしとは裏腹に、病室を出た廊下では、待っていた西田が硬い表情を見せ、そして頭を下げた。
「私たちは、牧野様に負担ばかりを強いてきました。挙げ句、この様な結果になり、何て申し上げれば良いのか⋯⋯」
「やだ、西田さん。8年前とは違うんですよ? 負担だなんて⋯⋯手術が間に合って良かったです」
間に合って本当に良かった。実際、ギリギリだったと思う。
あの日、司がつくしの前に現れてくれなければ、つくしが司の異変に気付かなければ、司は誰にも言わず海外へと渡っていた可能性だってある。
「西田さん、もう頭を上げて下さい」
それでも下げたままの西田に向け、つくしは続けた。
「道明寺に生きて欲しいと願ったのはあたしです。道明寺の中からあたしが消えても、あたしは道明寺と出逢えたことを、これっぽっちも後悔していません。出逢えて幸せでした」
心からの言葉だ。
西田は、司がつくしを覚えていなかったことに、無念のようなものを感じてくれているのかもしれないが、こんなにも自分を愛してくれた人と巡り合えたのだ。不幸なはずがない。
記憶は消えても、愛された過去の事実まで失われたわけではない。その事実は、つくしの心の宝箱に、一生涯大切にしまっておく。
「だから、気にしないで下さい。ほら、西田さん、顔上げて下さいって」
漸く顔を上げた西田に、つくしは微笑んだ。
「道明寺はもう大丈夫です。俺様な性格までは直らないでしょうけど、ちゃんと自分の命を大切にして生きて行くはずです。これであたしも、安心して自分の人生を歩んで行けます。だからこれは、前向きなサヨナラなんです」
「牧野様⋯⋯」
自惚れかもしれないけど、あれだけつくしが泣いて生きろと騒いだのだ。きっと司は、つくしを悲しませることはしない。術前の司が、今の司に言い聞かせているはずだ。
「西田さん、色々とご心配下さりありがとうございました」
ペコリと頭を下げ、別れを告げる。
「待って下さい、牧野様。夜ですし、せめて車で自宅まで送らせて下さい」
折角の好意ではあるが、つくしには寄りたいところがあった。
実は安心したせいか、急激に空腹を感じている。こんなにも食への欲求が高まるのも久しぶりのことだった。こうしている間にも、この静かな廊下で、胃袋からの激しい主張の音が繰り出されるのではないかと、心配すらある。
「あ、大丈夫です。えーっと、実はですね。ラーメンと餃子でも食べてから帰ろうかなぁって」
色気のない告白を恥じ入りながらすれば、西田はまだ、つくしが無理して明るく振る舞っているとでも思っているのか、探るような眼差しをしている。
嘘は吐いていない。いないが⋯⋯。隠しはしました、本当はレバニラも頼むつもりでいます。と心でこっそり付け足す。
「なので、本当にここで。西田さんも、どうぞお元気で!」
「あ、お待ち下さい、牧野様!」
西田がまだ何か言いたげだが、つくしのお腹も限界だ。
「ホントに大丈夫なんで! じゃあ、さようなら!」
体の中心部から恥ずかしい音が漏れ出す前に、逃げるようにくるりと身をひるがえし、小走りで場を後にした。
病院を出ると強い北風がつくしを襲った。
マフラーを口元まで引き上げ、この時期は一段と賑わっているだろう繁華街に足を向けながら、目下の悩みに頭を捻る。
はて、豚骨にすべきか、醤油にすべきか。味噌も捨てがたいのよねぇ。意識はもうラーメン一直線だ。
こんな小さなことで悩める自分が嬉しい。
「幸せよね」
マフラーに覆われた口元を緩めると、胃袋が呼応するように「ぐぅぅぅ」と威勢の良い音を鳴らした。

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