エレメント 11
『たった今、司様が手術室に入られました』
西田からその電話があったのは、土日を除いた、7日間の有休最終日の午前中で、暦は師走に移り変わっていた。
数日前には同じく西田から、司の腫瘍が予想より大きくなってはいなかった、との吉報も受けている。
だから大丈夫だ。司は絶対に助かる。そう信じる一方で、助けを求めずにはいられない。
道明寺を連れて行かないで!
お願いよ、ママ。力を貸して!
道明寺を助けて!
道明寺をあたしが居る世界から奪わないで!
ソファーに座り、両手を組み合わせて瞼を下ろし、ただ祈り、ひたすら願う。天国にいる母を頼りに。
それしか出来ない時間は、とてつもなく長く感じられ、不安が容赦なく襲ってくる。
こうしている間にも、司が遠くに連れて行かれてしまうのではないかという畏怖。
何度も何度も時計を確認しては、まだかまだかと落ち着きをなくす。
ある程度の時間が経ったら経ったで、今度は何かあったのではないかと心配が増し、時間に翻弄されっぱなしのつくしは、遂には時計を見るのを止め、蝕む不安や心配を跳ねつけたくて、取り憑かれたように心で母だけに話しかけた。
内なる声を止めたのは電子音が鳴ったからだ。
もう部屋はすっかり暗くなっており、相当の時間が経っていることを知り、音の発生元、スマホへ急いで手を伸ばす。
相手は待ちわびていた相手、西田からだった。
『牧野様、今、手術が終わりました』
西田の声が震えている。
「それで、手術は⋯⋯」
つくしの声もまた、同様に震える。
『成功です! まだ、病理検査の正式な結果を待たなくてはなりませんが、執刀医の先生によると、手術自体は文句のつけようがないくらい完璧だったそうです。ありがとうございます! 全て牧野様のお陰です。ありがとうございます!』
全身の力が抜ける。
⋯⋯良かった。本当に良かった。それしか言葉が出てこない。
胸を撫でおろしながら、母に、神様に、全てのものに心から感謝した。
電話を通して交わす会話も、互いに震える声での『良かった』ばかりが何度か行き来し、病理検査の結果が出たらまた連絡します、と言った西田の言葉を最後に、くぐもる声のままに電話を切った。
その日は、久しぶりに夜中に目が覚めることもなく、朝まで眠った。
再び西田からつくしの元へ連絡が来たのは、それから2日後だった。
『病理検査の結果も良性でした。もう心配ありません』
通常を上回る早さで出た検査結果は、メールによって知らされた。
これで何の憂いもない。こんなにも心が晴れやかになったのは、いつ振りだろう。
だがきっと、西田はそうじゃない、と勘が働く。電話ではなくメールが来た時点で想像はついた。
そのメールには、
『今夜、司様の所へ来ては頂けないでしょうか』
と、続きがあって、『仕事帰りに寄ります』直ぐに返事を打つ。
今まで電話を寄越してきた西田が、今回はどうしてメールなのか。考えられるとすれば一つしかない。
勤務中だからと遠慮したわけじゃなく、つくしとは話しづらかったからじゃないか、と。
────多分、司の中に、もうつくしは居ない。
✤
「牧野様、お疲れのところわざわざ起こし頂き申し訳ございません。楓社長も牧野様に会ってお礼を申し上げたいと仰っていたのですが、急な出張が入ってしまいまして、日を改めてお礼をさせて頂きたいとのことです」
「いいえ、そんな。あたしは何もしていませんから、お気遣いなく」
指定された病院の裏口近くで出迎えてくれたのは西田で、淀みない口調とは裏腹に視線は微妙に揺れ、つくしの予想は当たっているのだと確信する。
一通りの挨拶を済ませると、マスコミ対策か、ひと目を避けるルートで病院内に入り、関係者専用のエレベーターに乗り込んだ所で口を開く。
「道明寺は、もう大丈夫なんですよね?」
「はい。問題ありません。今日から歩行訓練も始めております。暫くは静養を兼ねて、じっくりここで休んで健康を完全に取り戻してから、退院の運びになるかと思います」
「ただ、記憶がない。違いますか?」
目線を逸した西田は、一拍置いてから「はい」と、小さく答えた。
「司様は、何故、手術を受けたのかも分かっておられませんでした。⋯⋯高校に入学したての頃までの記憶しかないと⋯⋯」
苦しそうに紡ぐ西田に笑顔を見せる。
「西田さん、それでも道明寺は生きています。これからも生きていけるんです。こんな喜ばしいことはないですよ? ね?」
司の記憶の中から消えたつくしを慮ってか、西田はお茶を濁すような曖昧な頷きを見せたが、告げた言葉は嘘偽りのない気持ちだ。
司がいなくなるかもしれないと恐怖に慄いていた日々を思えば、生きてくれている以上に望むべくものはない。
同じ世界に司が存在する。それだけで充分だ。つくしの心には何の陰りもなかった。
ただ、気掛かりはある。
「でも、記憶がないんじゃ本人は混乱してますよね? いきなりあたしが訪ねて大丈夫でしょうか?」
これだけが気になっていた。
司は約束通り手術を受け命を繋ぎ止めてくれた。だから、記憶がなくなっても自分が会いに行く、会って全部話す、そう司と約束したつくしもまた、必ずそれを守るつもりではいた。
けれど、術後から日が浅い。まだ混乱しているかもしれない司の前につくしが現れては、更に混乱に拍車をかけ、体調に影響を来すのではないかと、その心配だけが拭えない。
「内心では混乱もしているかとは思いますが、ですが、客観的に現実を受け止めていらっしゃるようです。牧野様との面会も、司様ご本人のご意思なんです」
「え? でも、記憶がないんですよね? なのに、どうしてあたしと?」
西田が答える前に、エレベーターが目的の階に着く。
エレベーターを降りると、SPと思しき体格のよい黒服の男性たちが、所々に立っていた。
その人たちの前を通り過ぎ、病室へと先導する西田が、
「詳しくは、ご本人からお聞き下さい」
言い終わるタイミングで、直ぐに病室へと辿り着いてしまい、それ以上、探ることは出来なかった。
ネームプレートが掛けられていない病室。
マスコミや、その他の人の目を避けるためのVIP専用の部屋なのだろう。
「私は、廊下にてお待ちしております」
一歩下がった西田に目で促され、病室のドアをノックする。
「入れ」
司だ。間違いなく司の声だ。司は確かに今を生きている。
つくしは胸に陽だまりのような温もりを感じながら、病室へと足を踏み入れた。
パーテーションが手前にあり司の姿を確認できず、更に歩みを進めて────『ぎゃっ!』心で悲鳴をあげ、思わず足が止まった。
温もりは、まだ胸にある。生きていてくれただけで大満足だ。でも。
⋯⋯な・ん・で・す・か、その目つきは。
司が視界に入るや否や、鋭く突き刺さる絶対零度の眼差し。
つくしの脳裏に過去の出来事が過る。
これは、『出てけぇー』と怒鳴られるパターンか、それとも枕が、疾風の如く飛んでくるか。どっちだ。
高校の頃にも記憶を失くした司が、敵意を向けた時の行動を思い出し、鞄をギュッと握りしめつくしは身構えた。
うわ、この目。まんま赤札全盛期の頃の道明寺じゃん!
上半身を起こした態勢でこちらを見る司の目は容赦ない。
高校入学当時までの記憶しかないのだから、仕方ないといえばそうなのかもしれないが、何せ、こんな司を見るのは久方ぶりだ。
切れ味抜群の狂気にも似た双眸を前に、頭を悩ます。
赤札の頃の司相手に会話なんて成り立つ?
仮に話せたとしても、下手すりゃ怒鳴り合いだ。
え、もしかしてあたし、またこいつとここで戦う羽目になるとか?
まさか、根性を叩き直すために、頭を手術したばかりの道明寺を殴るわけにもいかないし⋯⋯。
でも、これだけ相手を威嚇し、怯ませるほどの元気があるのだ、何よりだ。と、別の角度から物事を捉え、自分を励ます。
暫しの逡巡ののち、意を決して口を開く。いつまでも黙っているわけにもいかない。
まずは名乗るところから始めよう、と口を開けば、
「あ、あのね? あたし、」
「あんたが牧野つくしか」
制するように先に訊ねられる。
記憶を失くしているのに何故かつくしの名を知っている司は、どんな女なのか見定めようとでもしているのか、一段と眼光を鋭くさせた。

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