エレメント 8
8年ぶりに見上げたビルは、あの頃と何も変わらず、今も堂々とそこに聳え立っていた。
また訪れることになろうとは⋯⋯。
8年前。道明寺HDは苦境に立たされていた。
司の父親が病に伏せた中で迎えた難局。それを乗り越える方法が司の政略結婚であり、少なくともあの頃は、それ以外の策を見つけだせなかったのだと思う。
────8年前のあの日は、本格的な暑さを迎える前だった⋯⋯。
道明寺HDは、M&Aの失敗により巨額の損失を計上。足元は揺らぎ、早急に地盤を固め直す必要があった。
そんな中で持ち上がった資本提携は、秘密裏の条件として、相手企業の社長令嬢と司の婚姻が盛り込まれた。
その結婚さえすれば、大量リストラを敢行せずに乗り切れる。下請けを切り捨てることもない。
そんな状況下、司は奮闘した。何とかそれ以外の方法で立て直すために。
とはいえ司は、アメリカの大学を卒業してから社会に出てまだ3年目。大企業の骨幹を自らの手腕のみで守りきるには、あまりにも無力だったし、無謀ともいえた。
それでもつくしを手放すつもりのない司は、つくしを安心させるために、忙しい合間を縫っては会いに来てくれて、でも司の顔は、見るたびにやつれていって⋯⋯。
何度、叫びそうになったか知れない。
もう無理しないで!
このままじゃ道明寺が倒れてしまう!
どんなに頑張っても抗えない現実もあるのだから⋯⋯。
痩せていく司を見るつくしは、胸に苦しみを抱えながら、終焉の確かな足音を感じとっていた。
司には終ぞ打ち明けなかったが、つくしの元へは、太刀打ち出来ない力が及び始めていたからだ。
「あなたが牧野つくしさんね?」
当時、つくしが働いていた公立保育園の狭い園庭に、何の前触れもなく現れた一人の女性。
夕方のお迎えがピークの時間帯に現れた女性は、名も名乗らず、同僚や保護者の目をも気にせず、子供たちもいる前で平然と通りの良い声を響かせた。
「いつになったら別れて下さるのでしょうか。粘って手切れ金を跳ね上げたいのでしょうけれど、沢山の人を苦しめてまで、人の婚約者からお金を絞り取りたいなんて、私には理解できません」
周囲の興味の目が突き刺さる中、まるでつくしが金目当ての悪女のように悪しざまに言う。
人の目が多い時間にやってきたのは、きっと計算の上だ。
「どなたか存じ上げない方に、お話することはございません。ここは関係者以外立入禁止です。業務に支障を来しますので、即刻お引き取り下さい」
毅然と対応するつくしに、相手は大人しく引き下がった。
充分だったはずだ。保育園関係者の面前でこんな場面を晒しただけで。
口端を引き上げ不敵な笑みを見せ去って行った女性こそが、資本提携先の社長令嬢であり、のちに司の妻となった人だった。
彼女の狙い通り、その日を境に、つくしに対する周囲の目は厳しいものに変わる。
つくし先生は、お金目当てで婚約者がいる男性と関係を持っているらしいわよ。
そんな噂が保護者の間で瞬く間に広がり、大切な子供を預けられないと抗議は殺到。結局、受け持っていたクラスの担任を外された。
それだけではない。公務員であったために、役所にも直接抗議の電話が何本もあったと言う。
同僚等は何も言わない。だが、冷たい眼差しが全てを語っている。
つくしは、針のむしろだった。
それでも辞めるわけにはいかない。今、辞めてしまえば、司が心配するに決まっている。あれだけ公務員に拘ったつくしが辞めれば、何かあったと勘ぐってしまう。彼女が来たのを知ってしまう。
これ以上、司に心配や負担を背負わせたくはなかった。
ただ、覚悟はしていた。
彼女が堂々とつくしの前に現れたくらいだ。水面下では、もう止められないほど司の政略結婚の準備は着々と進んでいるに違いない。
きっと近い内に道明寺側からアクションを起こしてくるはず。そう思っていたつくしは、だから驚きはしなかった。西田からの突然の電話にも。
「牧野様⋯⋯申し訳ございません。楓社長が、お話をさせて頂きたい仰っております。⋯⋯ご足労願えますでしょうか」
聞いているこちらが苦しくなるほど、一言一言を絞り出すように、悔しさを滲ませた声だった。
つくしは直ぐに応じ出向いた。
覚悟は決まっている。怖いものなど何もない。
社長室に通され、お茶を出されたところで楓が切り出した。
「お呼びした理由は、もうお分かりよね?」
楓の背後には、立ち姿勢で西田も控えている。この人らしくもなく目線を下に置き、口元は、傍目にも力を入れているのが分かるほど、きつく引き結ばれていた。
こんな場面に立ち会わせてしまうのを申し訳なく思う。思うとともに、見せしめのように立ち会わせた楓に怒りが湧く。
西田は、司が誰よりも信頼を置いている人だ。司とつくしのために必死になって動いてくれていたことも、司から聞いていたつくしは良く知っている。
つくしは真っ直ぐに楓を見た。
「いいえ、分かりません」
楓の眉がピクリと跳ねる。
まさかこんな切り返しが来るとは思ってもみなかったのだろう。
だが、無力には無力のやり方がある。雑草には雑草の意地がある。
つくしが司にしてあげられる、せめてのものはこれだけだ。その覚悟でつくしはこの場に来た。
────あたしは負けない。
「でしたら、単刀直入に申し上げるわ。司と別れて頂戴」
「何故でしょうか」
流石に楓の表情にも微かな亀裂が入った。
「あなたがそこまで理解力がないとは知らなかったわ」
「えぇ、馬鹿なんで。馬鹿にも分かるように説明して頂けませんか?」
「⋯⋯幾ら欲しいの? 要求額を飲みましょう」
「私は説明を求めてるんですけど。いきなりお金の話にルート変更されても、益々理解できないんですが」
あなた、馬鹿にしてるの? と言った楓の顔が厳しくなる。
「そちらこそ馬鹿にしているのでは? 何故別れなければいけないのか、分からないから説明を求めてるだけです。何も難しいことなど言っていないと思いますけど」
楓は、「ふざけないで!」苛立ちを声音に乗せた。
「あの子は道明寺司なんです。大変なこの時期に、愛だの恋だの浮かれている場合じゃないのよ。道明寺司として社員を守るのは当たり前です。義務よ。普通とは違うんです。それをいつまでも好き勝手して、あの子には早く自覚をもってもらわなければ困るわ。結婚して自分が道明寺司で──」
「道明寺司道明寺司って煩いのよっ!」
突然のつくしの怒声に呑まれた楓は、目を瞠り言葉を止めた。西田も驚いたように顔を上げる。
「そんなでたらめな説明で理解できるはずないじゃない!」
「でたらめですって?」
「ええ、そうよ! でも、どうやら理解できていないのはあたしじゃなく、あなたのようですね」
鋭利な眼差しに真っ向から受けて立つ。つくしは、今にも掴みかからんばかりの勢いで捲し立てた。
「道明寺が政略結婚するしかないこんな状況に陥ったのは、あなたや! 重役のお偉いさんたちが! 何十年も働いてきたベテランが揃いも揃って判断を誤った結果の失策じゃない! あなたたちは、その自分たちの失敗を社会人3年目の若者に尻拭いさせようとしているだけよ! 事実を捻じ曲げて尤もらしく語らないでっ!」
「なっ、なんですって」楓が目を剥く。
「違うだなんて言わせない! 普通の会社なら、社長のあなたが引責辞任すべき事態のはずよ! それもせず、自分たちの判断が甘かったくせに、道明寺だから政略結婚するのは当たり前? 笑わせないでよ! そんなのただの人身御供でしょ!
二言目には道明寺司、道明寺司って、道明寺を記号みたいに扱わないで! 道明寺は記号なんかじゃない。血も涙も通った感情を持つ一人の人間なの。その道明寺に失敗のツケを払わせて、それを当たり前だなんて言わせないっ!」
顔を引き攣らせながら凝視する楓に、つくしは声量を落として訴える。
「それでも、政略結婚しか打開策がないのら、せめてあなたは理解すべきよ。これから先、苦しむかもしれない道明寺の気持ちを。自分の人生を犠牲にしなくてはならない道明寺の孤独を。
そして、道明寺が生まれてきたことを悔やんだりしないよう、精一杯の愛情を以てフォローしてあげて。描いた人生とは違っても、苦難の中にも幸せはあるはずだと、道明寺の幸せを願ってあげて。一緒に探してあげて。人生に絶望させたりしないで。当たり前だなんて嘯いて、道明寺の苦悩を無視なんてしないでよ。
道明寺は人生を犠牲にするの。あなたも努力をするべきだわ。何でも「道明寺家の人間なら当然」の一言で覆い隠さず、ちゃんと道明寺に伝わるように母親の愛情を惜しみなく示して。
その努力を怠らないで下さい。せめてこれから先は。道明寺が前を向いて生きて行けるように。
⋯⋯これが、あたしが道明寺と別れる条件です」
「⋯⋯⋯⋯」
傍にいることが叶わぬ以上、少しでも司の孤独を拭い、前を向けるよう誰かに託すしか手立てはなく、更に脅しの駄目押しで追い詰める。
「あたしが出した条件を飲めないのなら。⋯⋯死ぬわよ、道明寺を道連れにして」
「何を馬鹿なことを!」
「出来ないとでもお思いですか? 今のあたしに怖いものがあるとでも?」
司と離れる以上に怖いものなどあるもんか。だからといって、司の生命をつくしが握って良いはずもない。何よりも大切な人の命は奪えない。
あくまでも脅迫という狡い手段だが、狡猾だと後ろ指を指されようが、方法など選んでなどいられない。そうまでしても、この人には努力をして欲しかった。
幼い司に贈ったぬいぐるみを隠れて大切にするのではなく、きちんとした形で愛情を司に届けられる、その努力を。
本心を見破られないために、つくしは鼻で笑い、せいぜいふてぶてしく言ってやる。
「賭けてもいいわ。あたしが望めば、道明寺はあたしの想いを汲んでくれる。別れるくらいなら、二人で死んだ方がマシだ、ってね」
「⋯⋯⋯⋯」
「これは、あなたの大事なビジネスに影響を及ぼす重要な取引きのはずよ。あなたが判断して下さい」
普通の母親のように生きてこられなかった人だ。今更、母親として要求されても、つくしを前に素直にもなれないだろうし、無駄なプライドが邪魔しているはずだ。
だから、ビジネスという名を引用し迫る。
やがて、「⋯⋯条件を飲みます」視線を落とした楓の静かな声が答えた。
「絶対に約束は守って下さい」
「これはビジネスです⋯⋯守るわ」
用件が済んだつくしはソファーから立ち上がり、視線が上がらない楓に告げる。
「道明寺を産んでくれたあなたを信じます」
背を向け歩を進めたドアの手前、「今夜にでも、道明寺と別れますから」そう告げて部屋を出た。
見送るために付いてきた西田は、エレベーターの前で頭を下げた。
「⋯⋯力及ばず、申し訳ありません」
スラックスに押し当てている手は、拳を作り小刻みに震えている。
「頭を上げてください。西田さん、これからも道明寺の味方でいてあげて下さい。お願いします」
「勿論です。私のサラリーマン人生は、司様に捧げるつもりです」
上擦りながら答えた西田は、つくしがエレベーターに乗り込みドアが閉まるまで、決して頭を上げようとはしなかった。
その晩。つくしは人生最大の嘘をついた。
つくしの家にやって来た司に、「話がある」そう切り出して────。
「ごめん。ずっと言いたくても言えなかったけど、もう限界。あたし、こんな恋愛がしたかったわけじゃない。身の丈にあった普通で穏やかな生活がしたい。道明寺が相手だとそれが叶わない。もう沢山なの。道明寺の事情にあたしを巻き込まないで!
今あたしにあるのは、道明寺への愛情じゃない。大変な状況にある道明寺へ思うのは、単なる同情。愛情がなくなったと気付いた以上、自分の気持ちに嘘はつけない。だからお願い、別れて下さい」
「誰かに何か言われたのか」
「違う。そう疑われると思ったから言えなかった。でも今更、道明寺に嘘なんかつかない。これはあたしの本心。今のあたしには、道明寺の気持ちが重いの。重すぎて潰れそうなのよ。だから解放して欲しい。もう自由になりたい」
「⋯⋯⋯⋯」
「お願い。あたしの気持ちは変わらない」
「⋯⋯⋯⋯分かった。今まで悪かったな」
去って行く大きな背中が、その日はやけに頼りなげに見えた。
こんな風に司を傷付けるしかなかった自分は、楓たちと同罪だ。
結局は、司が望まない道へと押し出したのだから。
この時、つくしは誓った。誰とも結婚しない。子供も産まない。これから先も司だけを愛していくと⋯⋯。
それ以前に、司以上の人などこの世にいるはずもなかった。
頼りげのない背中を見送ったあの日から、8年。
8年の間に司は結婚し、そして離婚した。
1年前の離婚こそニュースで知ったが、今に至るまで司の私的事情は何も知らない。
知らなくて当然だ。全てはあの日から司に関わる全ての縁が切れたのだから⋯⋯。
それなのに、その縁が切れたはずの場所に再び訪れることになったつくしは、8年前と同様、社長室へ踏み込むなり、腹から出した怒声を響かせた。

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