エレメント 7
静寂が二人を包んだかに思えた。
けれど、
「何を言うかと思えば、馬鹿かおまえは!」
沈黙を簡単に司が払いのける。
「俺が死ぬわけねぇだろうが。そんなくだらねぇこと言うくらいなら体調は大丈夫そうだな。ったく、心配して損したじゃねぇかよ。俺は風呂入ってくっから、おまえはとっとと寝ろ」
はぁ、ったくよ! と、わざとらしい溜息をつくしに聞かせ、司はリビングを出て行った。
司が現れた瞬間から、つくしの頭には司が会いに来た理由の『心当たり』が常に居座っていた。
だからこそ、マンションに現れた司を久しぶりに目にした時、咄嗟に踊り場に隠れたつくしは、全身から一気に足元に落ちるように血の気が引き、自分を維持するのに苦労した。
司がつくしの前に現れた理由。それは、過去の記憶に答えがある。
いつだったか、まだ司と付き合ってた頃。観てもいない映画のあらすじをきっかけに、
『あたしならどうするだろう』
と、つくしが何気なく呟いた一言から始まる。
つくしが思案する間に乗っかってきたのが司だ。
『俺なら、牧野を喜ばせて、牧野の笑顔が見れればそれでいい』
即答した司に心が怯み、耳を塞ぎたくなった。
だからつくしは、何をしたら喜ぶか司に訊ねられても、さっさと会話を打ち切りたくて、『秘密』と答え、決して明かしはしなかった。
それでも止まらず、
『まぁ、牧野のことならおまえより俺の方が良く知ってるしな。教えてもらわなくても牧野を喜ばせてやるよ』
遂には、余裕を見せ笑う司に突っかからずにはいられなくなり、自分が発端で発展した話題にも関わらず八つ当たりをした。
『その頃なんて、とっくに別れてるかもしれないじゃない!』
この不吉な予感はのちに当たることになるが、当時の二人は、まだそんな未来など予想もしていない。
そんな二人が話題にしていた映画のタイトルは忘れた。
だが、その映画が何をテーマにしていたかは覚えている。
【死ぬと分かったら最後に何をするか】
怖かった。自分の最期は客観的に描けても、司の居ない世界を想像しただけで、とてつもない恐怖がつくしを襲った。
もし、まだ人の『死』を漠然とした形でしか捉えていなければ、つくしはこんなにも怯えなかったかもしれない。
だが、既に母を亡くし、身近で『死』というものを経験した身としては、想像するだけで怖い。
大切な人が、ある日突然この世から消えてしまう恐怖。
生あるものは、いつかは命が尽きる。そんな自然の摂理も、司を対象とした途端に全力で心が拒絶する。
想像した司がいない世界は、錯覚に陥ったあのホテルの庭園そのものだった。
一人取り残される世界は、暗く、恐ろしく、綺麗なものも綺麗と思えなくなり、果てしなく寂しく、どこまでも哀しい。
だから一昨日、つくしは庭園から駆け出した。救いを求めるように司の姿を確認したくて。司を目に映すまで恐怖から逃れられそうになくて。
でも、司の姿を目にして恐怖を拭いたいのに、目にすればするで甦るものがつくしの前に立ち塞がる。司が現れた理由の『心当たり』となる、あの時の司の声が⋯⋯。
甦るそれが、更なる恐怖をつくしに植え付ける。
『別れるとか、冗談でも縁起悪りぃこと言うんじゃねえよ!』
でも仮にだ、と続けられた司の言葉を忘れるはずがない。
『もし別れていたとしてもだ。俺が生涯愛するのはおまえだけだから、その時はおまえに会いに行く。嫌がられようが何だろうが、惚れた女に絶ってぇ会いに行く。病気とかで命が短けぇってなったら、最後は惚れた女を喜ばせて、サイコーに可愛い牧野の笑顔が見てぇ。その笑顔さえ見れたら、もうこの世に思い残すことはねぇよ。満足して直ぐにでも死ねる』
耳が覚えている。司の声を⋯⋯。
頭に刻まれている。司の言葉が⋯⋯。
忘れられるはずがない。
けれど、否定したかった。こんな心当たりは、ただの自惚れだと。現れた理由はこんなことなんかじゃないと。
なのに、否定には悉く亀裂が入る。
8年ぶりに見た司は最後に会った時より痩せ、触れた手から伝わってきたのは冷たい体温。
戦慄に襲われながらも、普通じゃない、そう判断したつくしは、自分の家に留まらせ、司の体温を引き上げるのに必死になった。
司の要求通り部屋に入れ、直ぐさまコーヒーを作り、お風呂を沸かし、ベッドは乾燥機を使って暖めて⋯⋯。
もし、司が現れた理由がつくしの心当たり通りだとしたら、そう考えると、最初から司をベッドに寝かす以外の選択肢はなく、つくしがリビングで寝る選択肢もなかった。司が寝ている間の変化を見逃すわけにはいかない。ならば隣で寝るのが一番だった。
同時に、つくしは自身の振る舞いも徹底させた。何をされても喜ばず、笑わず、無愛想を貫く。絶対に司を満足させてはいけない、と。
それは縋るような願掛けにも似ていた。どう頑張っても笑えそうにはなかったけれど、自分が笑顔さえ見せなければ、司は生き急ぎはしないんじゃないかと、そう信じたくて⋯⋯。
『否定』と『心当たり』が同時に存在し、やがて一つ、また一つと、『心当たり』の裏付けが重ねられていく。
『否定』を打ち消すように、可能性は一方に大きく偏っていった。
最初の晩に出されたイカ飯。
あれは、かつて二人で観ていた旅番組で紹介されていたイカ飯に反応し、
『作り方、教わっておけば良かったなぁ』と、叶わぬ夢を口にしたのを、絶対に司が覚えていたからだ。
だからこそ司は、あのイカ飯を用意した。母の味を、もう一度つくしに味合わせたくて。レシピまで添えて。それがつくしが喜ぶことの一つだと信じて⋯⋯。
何故、司が母の味を知っていたかは分からない。分からないが、
『ママのイカ飯は絶品だったんだから』自慢げに話したあの時の会話を、つくしは今でも鮮明に覚えている。
それでも『心当たり』を認めたくなくて、「気のせいだ」「たまたまだ」「考え過ぎだ」と悪足掻きして。
けれど、翌日に指定されたホテルの名を目にした時、『心当たり』の裏付けが補強された、と愕然とした。
過去につくしは、あのホテルのディナーに司を誘っている。
つくしから誘うことなんて滅多にない。よっぽどつくしが行きたいのだろうと、『任せろ、仕事の都合つけて絶ってぇに連れてってやる』誘われた側の司は、大袈裟なまでに喜んだ。
結果を言えば、約束は叶わなかった。
当日になって急に入った司の出張。それは一ヶ月半にも及び、帰って来た司は、申し訳なさそうにあのホテルに行こうと誘ってくれたけど、今では意味がなく、つくしは『また今度にしようよ』と断った。
結局、付き合っていた当時は、一度もあのホテルに行ってはいない。
コーヒーだってそうだ。
コーヒーの記憶なら一つしかない。
二人でデートをした時だ。以前、女友だちと入ったカフェが気に入り、いつか司を連れて行こうと思っていたそのお店に、二人で足を運んだ。
でも残念なことに、その場所は違うテナントに変わっていた。
『あぁー、飲みたかったなぁ』そうつくしが漏らした過去の記憶、それがルーツだ。
きっと司のことだ。閉店したお店が使っていたコーヒー豆を探し出したに違いない。それぐらい司なら平然とやってのける。
全部が全部、つくしが望んだものばかり。
司は、つくしの笑顔を生み出すためだけに、喜ぶだろうことを探している。つくしが何を喜ぶかを教えなかったから、思い出の中から探している。
だから、つくしは知らない。司が、過去の自分が望んだどれを覚えていて、何をチョイスするのかを、つくしは何も分からない。
次々に思い出から引っ張り出されたかつての自分が望んだものを目にする度、これを覚えていたのかと、目の前は暗くなり、泣きたくなった。
極めつけは入浴剤だ。
あの入浴剤の存在が、目を背けたかった現実をつくしに直視させ、『心当たり』を確信として受け入れようと覚悟させた。
────間違いなく、司に死が迫っている、と。
入浴剤のエピソードは、司とつくしが共有する過去の思い出には存在しない。あれは司と別れてから近所のお店で見つけたもので、入浴剤の割にはお高いからと、特別な日にだけ買って使っているお気に入りのものだ。
────それを司が知っている。
ずっと司は、つくしを気にかけていたのかもしれない。別れてからもずっと。そう思うと駄目だった。水底に沈んだように胸が苦しくなる。
同時に、確信を持った以上、悠長にはしていられない。じっとなんてしていられなかった。
初めに司は、最低でも一週間は滞在すると言った。その時に全てを打ち明けてくれるかもしれないし、もしかすると黙って消えるつもりかもしれない。恐らく、後者の可能性の方が高い。
それまで待っていられるはずがない。
昨夜、司にのぼせたと嘘をついたつくしは、司がお風呂に入ったのを確認すると、急いで起き上がり、クローゼットにしまってある箱の中を漁った。
そこで探し出した一つの名刺。
何の躊躇いもせずその番号に掛け、そして会う約束を取り付けた。
司には半休と言ったが、司が来てからというもの、『心当たり』の恐怖が付き纏い睡眠もままならなかったつくしは、土曜の時点で既に今日から7日間の有休をもぎ取っている。今のつくしでは、大切な子供を預かるのに心身共に相応しくない。
そう判断して休みを取っていたつくしは、今日、仕事に行く振りをして会いに行っていた。
全てを知っているだろう人物、道明寺楓と、司の秘書、西田から話を訊くために。
────そこを訪れたのは、呼び出され別れを促された、8年前のあの日以来だった。

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