エレメント 6
残業もなく約束の時間よりかなり早くホテル周辺に着いたつくしは、正面玄関には向かわず、ホテル内の庭園に繋がる門から入ることにした。
このホテルは広い庭園が売りの一つだ。
庭園をゆっくり散策しながらエントランスを目指せば、時間を潰せる。
それに、都内とは思えない自然美が、気持ちを落ち着かせる効果を齎してくれるかもしれない。
小路を寄り道しながらのんびりと歩く。
ぽつぽつと咲き始めた椿を見つけては立ち止まり、御神木の前では、樹齢500年の生命力を見上げて命の息吹に触れ、水の音を拾ってはまた足を止めてを繰り返し、やがて小川に掛けられた赤い橋が現れた。
幸いにも周りには人はおらず、こぢんまりとした橋の真ん中で遠慮なく立ち止まる。
色づいた紅葉の下のせせらぎを見下ろし、いつしか、見えるはずのないものを幻影として見ていた自分に気付く。
ハッと我に返り、急ぐように歩を進めて橋を渡りきったつくしは、バサバサと大きな葉擦れの音を聞き、ふと頭上を見上げた。
黒い影のように目に映ったのは、飛び立ったニ羽の鳥。その背後の空は、濃紺がオレンジを呑み込むグラデーションで彩られていた。
もうすぐ闇に支配される、移り行く空。
────逢魔が時、か。
「夕暮れ」「日没」「黄昏」と、その語源と言われる「誰そ彼」。他にも色々あるが、今目にしている風景は、この表現が最もしっくりくるように思えた。
しかし、同時に得も言われぬ胸のざわつきが襲う。
不吉な時間帯とされるその表現は、大きな不幸を暗示しているとも言われ、つくしは急速に背筋が寒くなる。
辺り一面影が濃くなり迫りくる闇夜。
静けさの中で一際響く不気味な草木のざわめき。
辺りには人影もない。
この世に一人取り残される錯覚に陥ったつくしは、救いを求めるようにエントランスへと向かって駆け出した。
途中、ライトアップされていることに気付き、化粧を施されたように美しい庭園が浮かび上がっていたが、人を魅了するだろうはずのそんな光景も、今のつくしには何の慰めにもならなかった。
無事に司と合流したつくしは、煌めく庭園が見渡せる個室で、日本料理をご馳走になっていた。
「カーテンレール?つーのか? そこに洗濯モンかけといた。昔、牧野がよくやってたろ? ちゃんと俺だって出来んだよ」
「出来たんだ」
「おぅ。シーツも、クルクルに丸めといてやった」
「⋯⋯そう、クルクルに」
食事の合間に紡がれる会話。必要以上に話は膨らまない。いや、つくし側が膨らませそうになかった。
次々と運ばれてくる芸術と呼ぶに相応しい料理の数々も、つくしには分からない。それが美味しいのかどうか。
昨夜に続き、つくしの味覚は今日も取り戻せそうにない────。
✤
昨日は仕事が入っていたからまだ良かったが、今日は日曜日だ。仕事も休みとなれば、司と接する時間も当然ながら長くなる。
その時間を埋めるように、つくしは忙しなく動いた。
掃除機をかけ、窓を拭き、キッチンの換気扇の油も落として、少し早めの大掃除。
そんなつくしの姿を見てか、司が「風呂掃除は俺がやってやる」と突然言い出す。
この人の人生において、風呂掃除の経験などあっただろうか────いや、あるわけがない。
「何悩んでんだよ。いいからやらせろ!⋯⋯ん? 何かこの言い方だと淫らな誤解を生みそうだな。いいから風呂掃除させろ!」
戸惑うつくしを他所に、馬鹿な科白を真面目に言い換えた司に押し切られ、どれが洗剤かも分からぬ所から指導し手順を教える。
任せたものの不安しかない。しかし、結果として良い意味で裏切られた。
やるとなったらとことんやる司の質が発揮されたのか、普段つくしが行う掃除より徹底的に磨きあげられた風呂場は、水滴一つ残さず仕上げられていた。
ついでに脱衣場まで綺麗に掃除してある。完璧だ。
「どうだ。俺の手にかかればこんなもんだ」
顎を上げ自慢げに言う司は、「一旦、休憩しようぜ。俺が美味いコーヒーを淹れてやる」と、一度寝室へ行くと大きな箱を抱え戻ってきた。
そんな大きな箱が寝室にあったなんて気付きもしなかった。ウォークインクローゼットに隠していたとしか思えない。
人の家のクローゼットを勝手に開けるな!という不満が、自然とつくしの口調をぞんざいにさせる。
「一体何なのよ、それは」
「エスプレッソマシンだ。おまえは大人しく座って待ってろ」
司の答えから、記憶のページを捲る。
『どれだ』と考え『あれだ』と、直ぐに答えを見つける。
暫くして司が淹れたコーヒーが目の前に置かれた。
泡立てられた牛乳がこんもりと盛られた表面は、コーヒーの色が筋のように混ざり合っている。
つくしは、無感動を装いコーヒーを飲み、何口かに分けて、温かいうちに飲み干した。
「どうだ? すげぇだろ?」
「⋯⋯普通に美味しかった」
コーヒーの味なんて分からない。
もし、つくしが見つけた答えが正しければ、過去に飲んだものと同じ味のはずだ。
だが、一度しか飲んだことのない元の味なんて覚えていない。覚えているのは、冷めきっていたことだけ。味覚があろうがなかろうが、味の良し悪しなど分かるはずがなかった。
「絵の方はどうだったよ。ラテアートは」
「え?」
「おぅ、なかなか上手く描けてだだろ?」
「ごめん、あたしの『え』は驚きの『え』であって、アートの方じゃない⋯⋯もしかして、あの筋みたいなのが絵だったの?」
「てめぇ、人の力作を。あれは筋じゃねぇ! つくしだ、つくし!」
「あたし?」
「雑草の方のつくしだ!」
嘘っ!⋯⋯それは大変可愛そうなことをした。
どう見ても淹れる際に自然と出来た筋のようなものにしか見えず、気にも掛けずに飲んでしまった。
けれど、俺に不可能はないと事あるこどに言い張る司だが、相変わらず絵心は壊滅的、あれを『つくし』だと見抜ける方が奇跡だと思う。
力作だとどうして胸を張れるのか、その自信がまた凄い。
とはいえ、可愛そうなことをしてしまったには違いない。⋯⋯でも。
「あれをつくしだなんて認めない」
敢えて冷たく斬る。
一瞬、しょげた様子を見せた司だったが、立ち直りは早い。負けず嫌いなのは織り込み済みだ。こんなもので満足されては困る。
思惑通り、「次こそ見てろよ」と意気込む司は、紙を用意しスマホを弄りだした。
どうやらデッサン力をあげるために、スマホで『つくし』の写真を呼び出し、スケッチに勤しむらしい。
つくしは司を放置して、今度は料理作りに励んだ。
夕飯だけに留まらず、明日用にとクリームシチューを作り、普段ならやらない作り置きの料理にまで手を出し、そうして休日の時間を潰していくしかなかった。
長い時間に感じた休日もやっと夕食を終え、片付けも済んだところで司が口を開く。
「先に風呂に入れ。俺が掃除した風呂に一番に入らせてやる」
しょげた姿はもう何処にもない。安定の俺様口調だ。
何も考えないまま、逆らわずに先にお風呂に入らせてもらう。
だが、脱衣場に足を踏み入れた途端、漂う入浴剤の香りで思い知る。
────お風呂掃除は布石だったのか、と。
バスルームに踏み込めば、一層濃くなった香り。
⋯⋯無理だった。もう限界だ。
込み上げてくる涙を抑えきれない。それでも必死で食い止めにかかる。湯船に浸かりながらも全力で抗う。
抗う分だけ長湯になり、しかし、長湯になるだけ抗ったのに、風呂を出て鏡に映したつくしの目は赤い。
ドライヤーで髪を乾かし、歯磨きも済ませて脱衣場を出たつくしは、そのままキッチンへと向かい、保冷剤を取り出してタオルに包んだ。
それを視界が確保出来るギリギリのラインに押し当て、のぼせた態を装って司に気付かれないよう赤い目を隠す。
「どうした?」
リビングに移動するなり向けられる心配を宿した声。
「のぼせたみたいだから、このまま寝るね」
足を止めることなく寝室に入り布団に潜り込む。保冷剤は勿論目の上で、これで明日、目が腫れることも防げるはずだ。
司が寝室を覗き込むのが気配で分かる。
「待ってろ。水持ってくる」
慌てたように水を持ってきた司は、それからも心配そうに傍から離れようとはしない。
「もう良くなったから大丈夫。ただ眠いだけ。だから道明寺もお風呂入ってきて」
暫く思案した様子の司は、
「すぐ上がるから、何かあったらちゃんと言えよ? 分かったな?」
入浴をさっさと済ませてから、本格的に傍にいることを選択したらしい。
つくしが頷くと、司は静かに寝室を出て行った。
息を詰め耳を済ます。
リビングのドアに続き、脱衣場の開け閉ての音を確認し、つくしは急いで起き上がった。
✤
「行ってきます」
今日も見送ってくれるらしい司に声をかける。
「もう体調は大丈夫なのか? 無理しねぇで今日は休めよ」
「どこに前日のぼせたからって休む社会人がいんのよ。もう本当に大丈夫だから、じゃあね」
普通を装い、いつもと同じ時間帯に家を出たつくしだったが、いつもと同じ時間には帰宅しなかった。
予定の就業時間よりかなり早い時間に玄関の鍵を開ければ、突然帰宅したつくしに司は目を見開いた。
「どうした? やっぱ具合悪りぃのかよ」
「違う、ただ急遽半休取っただけ」
昨日の今日だ。こんな形で帰って来たのだから司が心配するのも無理ない。だが、構う余裕などなく、いつにも増して無愛想な返答になる。
気遣う眼差しを受けても気付かないふりで流し、夕飯まで心を鎮める時間に充てる。
夕食には、昨日の内に作ったシチューを出し、その脇には、司が用意したチーズを乗せたパンが添えられた。
「⋯⋯これ、何のチーズ?」
「ヤギだ」
⋯⋯そうか、ヤギだったのか。
会話をしたのはたったそれだけで、つくしは黙々と食べた。食べ終わると無言のまま入浴を済ませ、そして────。
ソファーに座ったつくしは、いよいよ覚悟を決める。
「ねぇ、道明寺」
俯いたまま口を開いた自分の声は掠れていた。
「どうした? またのぼせたか?」
「⋯⋯」
心配そうに近付いて来た司は隣に座り、けれどつくしは、髪の毛が遮る顔を上げようとはしなかった。
黙るつくしに、司の声音が本格的に焦り出す。
「おい、大丈夫か? 具合悪いなら医者を呼ぶぞ。⋯⋯牧野? おい、頼むから何とか言ってくれ!」
つくしは息を吸い込み、吐き出すと共に声を絞り出した。
「道明寺⋯⋯⋯⋯、死ぬつもりなの?」

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