エレメント 4
結局、司は余計なことは何一つ声に乗せなかった。
チラチラと何度もこちらを窺う様子は見せたものの、互いに何も語らず黙々と食べ、
『ご馳走さまでした』
『おぅ』
交わした会話は完食後のこれだけで、ただただ静かな夕餉となった。
『美味しかった』などの社交辞令一つも言わない愛想なしの女に、司は気を悪くした風でもなく文句一つ付けてこない。
どころか、食後に下げた食器を洗おうとすれば、「手伝う」と、仰天の気遣いまで見せられ、刹那の金縛りに陥ったくらいだ。
直ぐに硬直を解き、お気に入りの皿の未来を案じてすげなく断れば、大人しく引き下がった司は、至って普通の様子でリビングで寛いでいる。
余分な会話も成さないまま入浴を済ませ、水を飲むために向かったキッチンからこっそり様子を窺った今も、暢気に壁に飾られた写真を眺めている司は、やはり目に見えて変化はない。
────冷蔵庫にこんなものを貼り付けておきながら。
入浴前にはなかったはずのものを指でなぞる。
⋯⋯そうか、腸も一緒に煮込んであったのか。
そんな感想を抱かせたものは、冷蔵庫の扉にマグネットで貼り付けられた、メモ帳ほどの大きさの紙。
出来合いのものとの深みの違いは、腸だったのか、と納得させられたそれは、夕食に食べたイカ飯のレシピだった。
あのイカ飯をどこの誰に作らせたのかは知らないが、手書きで書かれたレシピの字には見覚えがある。司の字だ。
コップ一杯の水を飲んでからリビングに足を踏み入れれば、気配に気付き振り向いた司の目線が、つくしの頭から爪先までを一撫でし、そして⋯⋯。
「スウェット着てねぇ」
────拗ねた。
当たり前だ。
司から貰ったスウェットなら、あんたの背後にあるソファーに置きっぱなしでしょうが、と内心で突っ込む。
だが、聞き流したつくしに膨れっ面を見せたのは一瞬で、
「これ、すげぇな」
直ぐに表情を緩ませた。
笑みの中に感心の色を浮かべた司は、スウェットとも、レシピとも関係のない話題に触れる。
司の視線が、ずっと見ていただろう元の場所に戻ったそこは、壁一面に飾られた写真だ。
「全部おまえが受け持ったチビ達だろ?」
小さく頷く。
「へぇ、すげぇ数だな」
つくしがこれまでに保育士として担当してきた子供たちとの写真が、電子ピアノの脇の壁で幅を利かせている。
保育士となって十年以上。教え子の数もそれなりだ。
母を亡くし家庭の事情が変わったつくしは、本来なら司の好意で英徳の大学に進学することになっていたが、それを辞退し短大の保育科への道を選んだ。
母の突然の死に抜け殻になってしまった父は、そうでなくとも怪しかった大黒柱の地位を益々危うく見せ、先行き不透明で濁りまくりの牧野家の経済事情を鑑みれば、一刻でも早く社会に出た方が良い。そう判断した結果だった。
司も事情を理解し、ニューヨークからの長距離電話で何度も応援の言葉をくれたものだ。
夢や希望の前に立ちはだかる経済を無視はできない。
二年後には進の進学も控えている。
少しでも早く稼ぎ手になりたかった。出来れば手に職を持ち、手堅い形で。
そうして導き出し目指したのが公務員保育士で、急な短大受験ではあったが好成績を収め、授業料の半分は免除。
二年の時には地方公務員試験にも合格し、目指した通りに公務員保育士となり、順風な社会人生活をスタートさせた。だが、訳あって結局のところ、公務員は4年も保たずに辞めている。
進退で悩んでいた丁度その頃に、有り難くも企業が母体の私立の園から声がかかり、以来、ずっとお世話になっているプレール保育園は、福利厚生も公務員に引けを取らず、収入面に於いても文句はない。
園長の人柄も良く職員との関係も良好で、働く環境としては、とても恵まれている。
副主任保育士としての肩書きも持ち、子供たちに囲まれた生活を送っているつくしは、急なビジョン変更で就いた保育士ではあったが、今となっては、これこそが自分の天職だと胸を張って言える。
結婚はしない。子供を産むつもりもない。だからこそ余計に、触れ合う子供たちが我が子のように愛おしい。
「なんかおまえ、チビたちよりはしゃいでね?」
写真を見ながら司が言う。
写真の中には、大口を開けて笑うつくしが沢山いる。
芋掘りでは、顔に泥をつけたまま大きな芋を掲げ得意げに笑い、運動会では、子どもたちと一緒に拳を空に突き上げながら笑う⋯⋯そんな写真ばかりだ。
「いいから、もう寝るよ」
司の興味を写真から切り離したくて短く告げる。笑みの一つも刻まずに、写真の中の人物と同じとは到底思えぬ素っ気なさで。
素っ気ない態度のまま、歯を磨きに洗面所に足を向けかけたところで、司の声が追いかけてきた。
「そっか。おまえ、明日は土曜出勤だもんな。早く寝ねぇとな」
つくしの動きがピタリと止まる。
くるりと首の捻りだけで司に振り向き、目を細めた。
「なんであたしのシフト知ってんのよ」
「あ? あぁ。これ」
そう言って司が指差したのは、ボードの上にある卓上カレンダーだ。
「印ついてたから出勤かと思ってよ」
土曜出勤の日にだけ付けてある星マーク。それだけで出勤を見破るとは、どれだけ勘が鋭いんだ、この男は。
「あんまり部屋のものジロジロ見ないでよね」
クレームを言い放ち、今度こそ洗面所に行くことで会話を畳む。
余計なことを今は話したくはない。何も言いたくないし聞きたくもない。このまま何も話さず夢の中に逃げ込んでしまいたい。
しかし、歯を磨き二人揃って寝室に移動するなり、騒がしい一幕が開ける。
「ごちゃごちゃ言うな!」
「ごちゃごちゃ言ってるのはあんたでしょ! いいからそっちで大人しく寝なさいよね!」
寝室で突っ立ったまま声を跳ね上げる大人が二人。
どっちがどっちで寝るかの言い争いが勃発して、もうかれこれ20分近く。お互い一歩も譲らず戦っている。
「よし、妥協案だ。一緒にベッドで寝るってのはどうだ?」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯提案の一つとして言ってみただけだ。今にも人を殺しそうな目で見んな」
司が慄く様子から察するに、どうやら自分の目つきは、知らぬ間に殺傷能力を備えていたらしい。
「提案は却下。図体がでかいんだから、道明寺がベッドで寝て! 言うこと聞かないなら今すぐ追い出すわよ? ここの主はあたしなの。あたしに決定権があるの、分かったわね!」
端からベッドは司に使ってもらうつもりでいたつくしは、その意見を譲るつもりはない。
抗議は受け付けません!のアピールで、隙を突いて素早く客用布団に潜り込む。
「あ、こら待て!⋯⋯ったく、明日も仕事なのに、こっちの方が良く眠れんだろ?」
「自慢じゃないけど広い方か狭い方かで言ったら、昔の習性で未だに狭い方が落ち着くの。寧ろ、グッスリ眠れるくらい。あー、落ち着く」
「だったら何でセミダブルなんて置いてんだよ」
値の張る高級ベッドを誰かさんが買ってくれたお陰で全然駄目にならないから、捨てるタイミングを図れなかっただけよ! と、一気に言葉が喉元を突き破りそうになるが、直前で何とか呑み込む。
ムキになって言い返す方が不自然だ。まるで捨てられなかったのを弁解するように、言い訳を組み立てる子供みたいで⋯⋯。
誰かさんこそが当時恋人であった司であり、二人でこのベッドできつく抱きしめあいながら眠っていた光景まで思い出して、余計に吐き出せる言葉を失った。
ならば、黙るに限る。
無言の術に呆れたのか、やがてこれ見よがしの溜め息が訊こえ、続けてがさごそと布が擦れる音がした。
やっと諦めてベッドに入ったらしい。
「お、温けぇ」
事前にセットしておいた布団乾燥機の温めモードは、ちゃんと機能を果たしてくれたようだ。
呟いた司の言葉を最後に、秒針の音だけが小さく音を成し、静寂が広がる。
リモコンで照明を落とし、ベッドサイドのランプだけが灯る中、瞼に力を入れギュッと目を閉じた。
狭い布団に窮屈さは感じない。さっき司に告げたように、寝るのに何ら支障はない。寧ろ、心地よさすら感じるはずだ。⋯⋯いつもならば。
しかし今夜は、鉛を呑み込んだように重さを感じる胸はざわざわと落ち着きがなく、いつまでも経っても解消されない。
この晩、つくしが夢の中へ逃げ込むことはなかった。
些細な物音にも気付き、気付くと暫くは眠れず、微睡んだと思ったらまた目が覚めて。そんな繰り返しで、気付けばいつもの起床時間一時間前。
布団から這い出てたつくしは、まだ眠る司を寝室に残しリビングへ移ると、ベランダの窓を全開にした。
ひんやりとした空気に体を晒しながら、気分を切り替えるように何度も何度も深呼吸を繰り返す。
だが、のしかかる胸の重みは、今朝になっても一向に楽にはならなかった。

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