エレメント 2
玄関で自分に渇を入れてから、一直線に向かった先はキッチンで、水を入れた電気ケトルをセットする。
沸くまでの間もじっとはしていられない。
暖房を入れ、リビングに置いてあるお気に入りのアンティークポールハンガーに脱いだコートを掛けて、今度はバスルームに向かわなければと、無駄なく動線を進む。
取りかかるべくは風呂掃除だ。
隅から隅まで丁寧に磨き上げ、終わればお湯張りの自動スイッチを押し、つくしは腰を叩きながらまたキッチンへと舞い戻った。沸いたお湯でコーヒーを淹れるために。
息つく暇もない気忙しさだ。仕事で疲れていたことすら忘れる。
「インスタントだけど」
リビングにあるテーブルの上に愛想の欠片もなくマグカップを置けば、ソファーには座らず、ラグの上で胡座をかいている司が顔を上げた。
乱雑に置いた紙袋の中身を漁っていたらしい。
「おぅ、サンキュー。つーか、相変わらずちょこまかしてんな。おまえも少しは落ち着いて座れ」
過去に散々飲まされ免疫があるせいか、インスタントにクレームをつけないところは感心だ。
だが、「落ち着いて座れ」の命令は受け入れられない。落ち着けるはずがなかった。やることはまだまだある。
「いいから、あんたは大人しくこれでも飲んでなさい」
紙袋に囲まれた司に偉そうに言い捨て、リビングの続き間にある寝室へと向かう。
リビングとを隔てている引き戸を開ければ、8畳ほどのスペースに置かれたセミダブルのベッド。
そのベッドに飛び乗るや、シーツーだ、枕カバーだ、と次々に剥ぎ取り、終われば、ベッドの下部に備え付けられた引き出しから綺麗な替えを取り出し、今度はベッドメイクしていく。
その手際の良さは、遙か遠い昔、道明寺邸でメイドとして働いた経験の賜物だ。
ベッドの上を皺なく整えると、休む間もなく寝室にあるウォークインクローゼットを開けた。
嵩張るものを何でも呑み込んでくれるこの広いクローゼットは、ここを借りる時の決め手の一つにもなった。
家賃の割にはリビングが10畳もあり、加えて、この大きなクローゼットまで付いているのだから、女性の一人暮らしには充分すぎる。
商店街も近くにあり立地も良いのに家賃はお手頃。もしや事故物件なのではと疑ったくらいだが、不動産の営業マン曰く、オーナーが金銭的余裕のある人だから問題ないと言う。その一言で即決した。
広さも収納も抜群な上に、出身の短大が程近かったために地理的にも馴染みがある。迷う理由の方が見つからなく、契約後に直ぐ住み始めてから、気付けばもう7年半以上。
長く住めば、知らず知らずのうちに荷物は増えていくものだが、このウォークインクローゼットの大活躍で、部屋全体がごちゃごちゃせずに小綺麗さをキープしている。
そんな大活躍のクローゼットから、布団乾燥機と客人用の布団を取り出した。
ベッドに乾燥機をセットし、次に考えるのは布団の置き場所だった。
リビングに敷くべきか。しかし、一瞬頭を悩ませただけで、結局は、ベッドとクローゼットの狭い隙間に敷いた。
敷き終えたタイミングで、お風呂が沸いたことを知らせるメロディが訊こえてくる。
シーツと枕カバーを洗濯機に放り込み、
「道明寺、お風呂沸いたから先に入って来ちゃって」
リビングに戻ると、まだがさごそと紙袋を漁っている司に言う。
「男に風呂を勧めるとか、おまえ大胆だな。おまえがその気なら、俺も応えてもいいけどよぉ……」
「…………」
「睨むな。冗談だろうが。冗談っつーもんには笑って返せ。んな怖ぇ顔すんじゃねぇよ」
顎を突き出し『さっさと行け』と促す。司曰くの『怖ぇ顔』とやらのままで。
「ったく、冗談も通じねぇのかよ」
ブツブツと文句を垂れる司は、着替えだろうか、紙袋から荷物をいくつか取り出した。
そのうちの一つがスウェットだ。
本当に泊まるための準備を万全にしてきたらしい。
「ほら、こっちはおまえの。俺とお揃いな」
立ち上がった司は、透明の袋に入ったレディースものを押しつけてきた。
「なんでお揃いで着なきゃなんないのよ」
「堅ぇこと言うな。有り難く受け取って喜んで着とけ」
素直に身につけたとしたら、司がどんな顔をするのか容易く想像出来て、『絶対に着ない』と頑なに誓いを立てる。
「リビングを出て右側のドアがお風呂場。タオルも置いてあるから早く入って。洗濯は明日するから、洗うものはカゴに入れといてくれれば良いから」
素っ気なく言い、手渡されたスウェットはソファーに置く。
言い合う時間さえもどかしい。さっさと入ってきて欲しい。
つくしには、まだやることがある。食事の用意に取りかかなければならないのだから。
いつまでも相手はしていられないとその場を切り上げ、キッチンへと足を向ければ、司の声が引き止めた。
「飯か? なら米は用意しなくていいからな。俺が買ってきたものがある」
それだけ言うと、司はお風呂場へと消えた。
その姿を見送り首を捻る。
⋯⋯謎だ。
情報が少なすぎて判断に迷う。
言葉通りご飯のみを買ってきたのか、それともメイン込みで用意してくれているのか。
なら自分は何も作らなくて良いのか。いくつかの可能性が頭を過る。
普段から母国語を得意としない男だけに、食事は用意しなくていい、という意味で言った可能性もある。如何とも判断しがたい。
暫し考えた後に、味噌汁とサラダだけは用意することに決めた。
もしも、ご飯だけしか買ってなかったとしても、冷凍してあるおかずがあったはずだ。最悪、それをレンチンすればいい。
だが、温かい味噌汁だけは作っておきたかった。
サラダを小皿に盛り、具沢山の味噌汁を仕上げたところで、司がリビングに戻ってくる。
もっとゆっくり温まれば良いのに。
肩までしっかり浸かっただろうか。まさかシャワーだけで済ませたとか?
キッチンからカウンター越しに司の様子を窺う。
仄かに赤身が差した顔をタオルで拭っているところをみると、汗をかくくらいには、ちゃんと体を温めたようだ。
安堵の息を吐いていると、紙袋を手にした司が、ずかずかとキッチンへと侵入してきた。
喉でも乾いたのかと、常温のミネラルウォーターを差し出す。
「サンキュー」と、受け取った司は、キャップを開けるなりゴクゴク飲み、ペットボトルの水を半分に減らしたところで、不可解なことを口にした。
「おまえはあっちへ行ってろ」
何を言われたのか理解する前に、手にしていたお玉を引ったくられ、背中を強引に押される。
「何? 何なのよ!」
振り返りながら抗議をするもあっさり無視で、呆気なくリビングにあるソファーまで追いやられた。
「あとは俺に任せとけ」
得意げに笑っているが、何をする気だ、この男は。
立ち尽くすつくしを置き去りに、司は一人キッチンへと戻っていく。
まさか、料理をするつもりなのだろうか。
立ち尽くしたままのつくしは、そのまさかの光景を想像した。
頭に浮かんだのは、過って自分の指をザックザク切り刻んでしまう司の姿。
⋯⋯⋯⋯た、大変だ! 血塗れの大惨事だ!
つくしは、ブルっと体を震わせた。

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皆様、地震は大丈夫でしたでしょうか?
かなり大きく長い時間の揺れでしたし、余震の心配もあるかもしれません。
夜ですので余計に不安になりますが、くれぐれも気をつけて安全にお過ごし下さい。