エレメント 1
───ドクン。
心臓が体に悪い跳ね方をする。
息も一瞬止まった。
全身の血が一気に足元に落ちていくようだった。
大脳皮質に収められていた過去の記憶が、目まぐるしい勢いで甦ってくる。
身を翻し踊り場の壁に咄嗟に隠れたつくしは、支離滅裂に思考を積み上げた。
こんな所に居るはずがない。何かの間違いだ、疲れているからだ、階段を一気に三階まで駆け上がって来たせいで、脳に酸素が行き渡らずに見せた幻覚だ。
呪文のように事態を否定する要因を連ねても、こっそり覗いた先に見える現実は、数秒前に目にしたそれと変わらなかった。
否定する要因こそ否定された現実。
茫然と立ちすくむ踊り場に一陣の風が通り抜ける。吹き荒ぶ木枯らしが頬に痛い。
その刺激が、つくしの思考を働かさせた。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
震える体に波立つ鼓動。それらを整えるように、息を深く吸い込み長く吐き出す。
何度か繰り返したのち覚悟を決めると、殺風景な表情を顔に貼り付け、踊り場から足を踏み出した。
踵の低いパンプスを鳴らし、律動的な足取りで一番端にある自宅のドアを目指す。手前の障害物には目もくれない。
脇目も振らずに歩く廊下は、然して距離があるわけでもなく、ものの十秒足らずで着いたドアの前。予めバッグから取り出しておいた鍵をドアノブに差し込んだ───その刹那。
「おい」
ドアの横に
だが、この程度の耳障りな音など聞き流すに限る。
ピクリとも顔色を変えず、何事もなかったように解錠しドアを開けると、今度は先を阻むように横から手が伸び、ドアの縁を掴まれた。
「無視すんな」
「⋯⋯邪魔なんだけど」
雑音に反応せざるを得なくなった状況に追い込まれ、険のある眼差しをドア横25センチ上方に向ければ、
「暫く匿ってくれ」
唐突に非常識を語るのは、障害物。もとい────8年前に別れた男、道明寺司だった。
沈黙が横たわる。
つくしはまだこの現状を認めたくなくて、瓜二つの誰かなんじゃないかと、視線をチラリと少しだけ上にずらした。
例えば、亜門かもしれないし?⋯⋯、と願いを込めて見た髪の毛は、8年経っても変わらない立派なくるくるで、残念ながら本人だ、と項垂れたくなる。こんな独特な捻り具合、二人といない。
無言で交わる視線と視線。
カジュアルな出で立ちの司は、最後に見た時より痩せている。そんな変化にも気付けるほど、互いに目の置き場を譲らない。譲ればこの現状を認めたことになると、勝手に勝負でもするように挑んでいるのだが、どうやら相手は違うらしい。
つくしとは対象的に落ち着いた眼差しで見下ろしてくる。
そのストレートな視線が胸に痛い。それを悟られないよう、更に眦を意識して吊り上げた。
暫しの膠着が続き、しかし先に折れたのは、つくしだった。思い当たる節を見つけたからだ。
そうか、そうだったのか。そうと分かれば説得せねば、と使命感すら湧き、息を一つ吐いて肩の力を抜いた。
「悪いことは言わない。自首して」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯は?」
たっぷりと間を空けて返って来たのは気の抜けな声だが、そんなものには構わず、熱意を込めて続ける。
「いい? 悪いことをしたら罪を償う。これが社会で生きる人間の守らなくちゃならないルールなの。権力に物言わせようとしても駄目。特権階級も今の時代は叩かれるだけ。ちゃんと罪を自白して、きちんと罪を受け入れて、そして償って。⋯⋯大丈夫、気持ちを入れ替えれば、その先の人生、やり直すことだって出来るはず」
「てめぇ」
司の反応を見て、おや、とつくしは眉を顰めた。
匿って欲しいと言うくらいだ。逃げているからこそ成り立つ言葉に、遂に罪を犯して警察から逃走しているのかと当たりをつけたのだが⋯⋯、違ったのか。
「なに勝手に俺を犯人にしてやがんだ! 犯罪者前提で語ってんじゃねぇっ!」
気の抜けていた声に熱がこもった。しかも、かなり高そうな温度で。
だったら⋯⋯。
だったらどうしてよ。どうしてここに⋯⋯。
つくしは顔を逸し、司に掴まれたまま中途半端に開くドアを正面に見る。もう司を視界には収められなかった。
「何しに来たのよ」
「だから、逃げ場所が必要なんだよ」
ドアを掴む司の手を振り払う。払った時に触れた司の手は氷のように冷たく、温度が高いはずの男の体温に内心で怯む。
一体、いつからここで待っていたのか。
閉じかかるドアを再び掴まれ、正面を向いたまま言う。
「誰かに恨まれて逃げてるんだとしても、他を当たって。あたしには関係ない」
出した声は自分が思っていた以上に硬い。
「おまえホント失礼な奴だな。恨まれて逃げてるわけじゃねぇよ。人が折角取った長期休暇なのによ、邪魔する社の奴らがいんだよ。分かったなら匿え」
お願いする立場でありながら命令形なのは、流石の俺様だ。
「ホテルにでも行きなさいよ」
「んなの直ぐ見つかっちまうだろうが。ここが一番安全だ」
独身女性が借りれるほどの普通の1LDKのマンションだ。オートロックはあっても、24時間体制で管理人がいるわけでもない。
事実、そのエントランスをクリアしたからこそ司は今ここにいるはずで、VIPである司を守りきれる要素などないに等しいこの場所が、なぜ故に安全なのか。
理解に苦しむ間に司が詰め寄った。
「匿うくらいしてくれてもいいんじゃね? あんだけこっ酷く俺を振ったんだからよ。詫び代わりに、困ってる時くれぇ情けかけてくれたっていいだろうが」
つくしの表情は揺るぎもしない。
それもそのはずだ。初めこそ殺風景な表情を意図して貼り付けたが、今は血の気が失せたせいで自然と表情は硬直し、剥がしたくとも無表情が剥がれない。
「その手を退けて」正面を向いたまま、起伏のない声音で言う。
「冷てぇ女だな、おまえは」
「退けなきゃ中に入れないでしょ。それとも他当たる?」
喩えば、別れた奥さんとか⋯⋯。
だがそれは、余りにも無神経だと声には乗せなかった。
一拍置いた司が「いいのか?」一転してか細くなった声で訊く。
「嫌ならいいけど」
「ヤじゃねぇー!」
気性同様、声のトーンの上げ下げまで激しい司は、漸くドアから手を離し、足元に置いてあった紙袋を引ったくるように掻き集めた。
気が動転していたから今の今まで紙袋の存在に気づかなかったが、ざっと見た限りその数、10数袋か。
大中小の様々な大きさの紙袋を抱えた司の両腕は、他には何も持てないほどの余裕のなさだった。
こんな大荷物、一人で持ってきたのだろうか。荷物なんて自分で持たないはずの、この男が。
「ここに来る前に、泊まるのに必要なもん買って来たんだよ」
怪訝に見るつくしに気付いたのか、司が答えた。
「あんた、いつまでいる気?」
これが着替えだとしたら、一日や二日の量じゃない。
「最低でも一週間か」
悪びれもせずに言う司に、それ以上の何かを言うつもりのなかったつくしは、黙って玄関ドアを目一杯開けた。
そうでもしなければ、嵩張る紙袋が邪魔をしてドアを潜れそうにない。
早くしろ、とばかりに顎をしゃくれば、がさごそと音を立てながら、司は体の向きを横にした歪な恰好で中へと入って行く。
後に続くつくしは、早く冷気を遮断したくて、素早くドアを閉めた。
ドアノブを持つ自分の手が酷く冷たくなっているのに気付く。それが小刻みに震えていることも。
突然訪れた現実に、浮足立つ自分を自覚する。
ドアノブから放した手の震えを押さえ込むように、両手を胸の前で固く組み合わせた。
『しっかりしなさいよ、つくし』
戦慄が襲う自分を鼓舞しながら────。

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