ラスト・リング 7【最終話】
二人で過ごすために予め押さえていた、別荘から程近いホテルのスイートルーム。
ベッドのサイドランプだけが灯る仄かな光の中、乱れた白いシーツの上には、つくしが沈んだまま。
汗で顔に貼りついた黒髪を撫で流し、愛しい女の顔を見て一人胸の中で呟く。
……また、やっちまったな。
ベッドの背に凭れかかりながら、煙草の煙に溜息を乗せ吐き出した。
時々、どうしようもなく堪らなくなる時がある。
今夜はここ数日、桜子の事で自分まで遠い過去に遡っちまってたせいか────。
「指輪、どうしたかな」
ぼんやりしていた俺の横で、突然、眠りから覚醒し、天井を見上げながら呟いたつくし。
喋れる体力が残ってるとは思っていなかった俺は、慌てて吸っていた煙草を灰皿に押しつけ、体勢をつくしへと向けた。
「起きたのか?」
「うん」
「指輪なら燃え尽きたんじゃねぇか」
頭を切り替え、何事もなかったようにいつもの調子で言う。
「そうだね。桜子と一之瀬さんのように」
「あぁ」
「あんな恋もあるんだって思う。でも、戒めまで残してしまう恋愛を、桜子にはして欲しくない」
ベッドに滑り込むと、片腕をつくしの頭の下に入れ、もう片方の手で華奢な身体を胸に引き寄せた。
「それも、もう終わった」
俺の鼓動を訊きながら、つくしが「うん」と頷く。
今俺達は、目の前で繰り広げられてるわけでもないのに、きっと同じ光景を思い浮かべている。
────色のない指輪が、赤い炎に包まれ形を消していく光景を。
ラスト・リング 7
「それにしても、まさかあそこで邪魔するとはねぇ」
本当なら、実際に目にしていただろう光景。それが見られず苦く笑うつくしは、ほんの僅かな咎めを含ませ俺を見る。
「あれは、俺の優しさだ」
「優しさ?」
苦笑いから訝しげな表情に変わったつくしは、分かりやすく眉を寄せた。
「あんなの目の前で見せられたら、速攻で抱きたくなんだろ? 邪魔もんは退散してやったんだよ」
「は? 司じゃあるまいし」
「ったく、男心が分かってねぇなぁ」
「痛ッ!」
つくしのデコを指で弾けば、そこを手で擦りながら返って来る迫力ない睨み。
「惚れた女の決断見ちまったら、理性の制御なんて不可能なんだよ」
「美作さんでも?……って、確かに美作さん、司っぽくなってたけど」
ここ数日間のあきらの様子を思い出したのか、今度は可笑しそうにクスクス笑うつくしを、腕の中で強く抱きしめた。
「それだけの女に出逢っちまったってことだ。あきらも、俺も」
コロコロと表情の変わるつくしは、胸に添えてた手を俺の背中へと回す。
細くて華奢な腕なのに、それは心地よい強さを持ち、まるで俺が包み込まれてるような安らぎを与えてくれる。
今でこそ、こうして愛しい女に触れ、触れられ、その幸せが日常となってる俺達でも、触れる事は愚か。豊かな表情さえ封印しちまった過去がある。
だからこそ、強く願った。
俺の罪とは違う質のもんだが、桜子には、気持ちを曝け出せねぇ忍ぶ恋に囚われず、前へ進んで欲しいと。
罪を背負うのがどんなに苦しいかを形は違えど知ってる俺は、その日をずっと待っていた。
そして、今日。桜子は、一つの愛を昇華し、一歩前へと踏み出したはずだ。
その証が、きっと燃え果てただろう"色のないリング"。
「きっと桜子も同じ気持ち。それだけの男性に、今度こそ出逢ったんだと思う。勿論、私もね?」
クスッと笑うつくしの息が掛かり、胸をくすぐる。
それも束の間。
突然笑みを消したつくしは、声のトーンを下げ言葉を重ねた。
「終わりがいつ訪れるとも分からない、未来の見えない恋愛は辛すぎるもの」
あまりにも心のこもった言い方に、思わず口を挟む。
「おまえもそう思ってたのか?」
止めときゃいいのに訊いちまった俺。
漁村でのつくしの姿を見た時から、どれだけ辛い思いをさせたかなんて、分かりすぎるほど分かってんのに。
今になっても、そん時の心情を告げられれば、どうしようもなく胸は抉られると知ってるだけに、訊いちまったことは失敗だったと改めて認識した時だった。
胸元に額をつけたままのつくしが「ううん」と、首を横に振った。
「司は違うよ? 司とは未来が見えたの。ハッキリと」
あんなに泣かせたのに、何を言ってる?
意味が分からずつくしを見下ろせば、俺の視線に気付いたのか、優しい眼差しで俺を見た。
「確かに泣いた時期もある。でもね、司が漁村に迎えに来てくれた時、司との未来が私には見えたの」
「……」
「司が迎えに来てくれる前。ちょっとだけ付き合った人がいたって、話したことあるでしょ?」
……面白くねぇ話だ。
桜子が、まだつくしに俺の想いを伝えなかった間に、つくしは、漁村に住む地元の男と一時付き合っていた。
俺への想いを断ち切るためだったと、再会したのちにつくしから打ち明けられてはいたが、何度訊いても面白くねぇもんは面白くねぇ。
「その人とは見えなかったんだ、未来が」
見えて堪るかっ!
その頃の事を思えば言える立場でもない俺は、控えめに胸の内でひっそり毒づく。
「未来の話をしても、そこにいる自分が全く想像つかなかったの。その人には悪いことしたって、本当にそう思うけど……でも、司は違った」
「……」
「司が私の前に現れて、死ぬまで俺の傍にいてくれって言ってくれた時。司と一緒になったら大変だけど賑やかだろうなって。歳取っても、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら、笑って、怒って、忙しく明るい毎日を過ごすんだろうなぁって、直ぐに未来が描けた。
17歳で私は、めぐり逢っちゃったんだよね、そんな大切な人に。それを教えてくれたのは司。だから、これも捨てられなかった」
背中に廻っていない手で、つくしが土星のネックレスを弄る。
「必死で私に向かって来てくれて、精一杯の司の想いが宿ったこれを、私は捨てられなかった」
「……つくし」
「好きな人から貰った形あるものは、二人が幸せな時はいいけど、一人になった時には、思い出したりもして苦しくもさせる。
それでも捨てられなかったのは、これをくれた時の司の確かな想いを、誰よりも私が知っていたから。
本当のこと言えば、何度も捨てようとは思ったの。忘れなきゃって……。
でも捨てられなかったし、もし海や川に投げ捨てたとしても、飛び込んで、またこれを探したと思う」
強く抱きしめてたはずの腕に更に力を入れ、つくしの首筋に顔を埋める。
苦しいだろうに、されるがままのつくしは、抱きすくめられたためにくぐもった声になっても、話を止めようとはしなかった。
「愛する人から貰ったものって、幸せな時は喜びを与えるけど、逆の場合は苦しみを齎すものにもなる。一之瀬さんはもう大人だから、それを知ってたのかもしれないし、もしかしたら、桜子と出逢って初めて、自分の左薬指にある指輪の重みを感じたのかもしれないけど。
でも、だから桜子にはあの指輪だったんだと思うの。贈らなければ良いだけなのに、贈らずにはいられないほど桜子を好きだったって、唯一証にしたもの。それがあの指輪」
理由なんてねぇ。ただ、好きな女にあげたい。
かつての俺も、その気持ちだけを土星のネックレスに乗せ贈った。
一之瀬も、そんな気持ちだったんだろう。
薬指に嵌められた指輪が一之瀬にある以上、それは決して赦されねぇのに。
それでも、自分の気持ちを証明した、それが"色のない指輪"だった。
薄く鉛筆で描かれただけの指輪に想いを乗せて。
「一之瀬さんの奥様が桜子のマンションに来た時。桜子は、クリップで挟んで飾ってあったそれを守るように前に立ったの。一之瀬さんの想いは桜子に通じていただろうし、だからこそ奥様の目には入れちゃいけないって、咄嗟に思ったんだと思う」
一之瀬自身が描いた、繋がれた二つの指輪。
つくしから話は訊いてはいたが、今日初めて、別荘で実物を見た。
デザイナーなだけに、まるで写真のように綺麗に仕上げられたそれは、乱暴に破られたメモ用紙に描かれたものだ。
敢えてメモ用紙を選んだのは、重みを感じずいつ捨ててもいいようにと配慮した、せめてもの一之瀬の優しさだろう。
その優しさにも気付いていたからこそ、桜子は想いが込められた指輪を、妻には見せてはいけないと判断したに違いねぇ。
しかし、いざとなった時の一之瀬の気持ちは、一つの想いに片寄っていた。
妻を目の前にした時、『別れて欲しい』後先も考えずに、そう告げるつもりでいたと、一之瀬は後に俺に語っている。
口に出来なかったのは、それを察知した桜子が、一人非を被り受けつけようとしなかったからだ。
一之瀬の想いを知りながら桜子は守ったはずだ。
全てを投げだせるほど、ガキじゃなかったがために。
一之瀬には、一之瀬が求めていた世界がある。好きなデザイナーという仕事に全力を注ぎ、自分の才を世に広げる。
桜子と出逢う前までは、それが夢であり全てでもあった男だ。
桜子は、その夢を含めて愛しただろうし、また、それを奪う愛し方は出来なかったんだろう。
全てを捨てるには、一之瀬は大きくなりすぎた。
大人になっちまったら色んなもん抱えちまって、恋愛だけに突っ走るのも楽じゃねぇ。
全てはつくしの為だけに生きてる俺でも、自分の地位を考えれば、そう理解も出来た。
「なのに、その指輪が戒めになってただなんてね」
つくしの声に悲しみの色が帯びる。
「そんな恋愛、悲しいと思わない?」
大人しく腕の中で収まっていたつくしが、いきなり俺の胸を押し、見上げて問い掛けてくる。
「あぁ」
「色んな過去を辿りながら、今というこの時に繋がるの」
「そうだな」
「過去は消えない。それを反省して、二度と過ちを犯さないと心に刻むのは正しい行いだけど、でも後悔を量産して苦しむだけなら、何も生み出さない。そんな過去だけに囚われた生き方は違うと思う。
だって、間違った分だけ人は成長出来るはずだよ? 学習して成長したなら、前へ進むべきだって私は思うの。司は、そう思わない?」
「…………だな」
「だったら……、」
一度会話を途切らせたつくしは、背中とネックレスに添えていた手をゆっくりと動かし、俺の両頬をその手で包み込んだ。
「もう悔やまないで」
桜子の話から突然メインに踊り出された俺は、咄嗟に言葉を紡ごうとしたが、意志の強い眼差しがそれを赦さなかった。
「どんな過去でも、それがあったから今の私達があるの。だから、もう自分を苦しめないで」
……気づいてたのか。
どうやら、つくしは桜子に重ねて俺にメッセージを伝え続けていたらしい。
全て気づかれてた俺は、誤魔化す言葉も見つからず口を噤んだ。
俺は今でも、不意に過去の過ちから逃れられなくなる時がある。
どうでもいい女を夜毎抱き、つくしが泣いて苦しんでるとも知らず、似てもねぇ女につくしの幻を重ねた、忌わしい過去の罪。
それを拭うように、つくしの温もりを求め、その肌に触れ、もがき苦しみながら激しくつくしを抱いても、迂闊にも背後から求めてしまえば、燻り続けてきた罪の意識が一気に覚醒し、押し寄せ、そして苦しさが増す。
その苦しみから逃げるように、つくしの顔を振り向かせれば、自分はこいつを汚してるんじゃねぇかってすら思えてきて────。
「私は、司に取って戒めにしかならない存在なの?」
「違ぇ!」
それだけはねぇと、すかさず声を上げ否定する。んなことは思っちゃいねぇ。
俺の悔いは身勝手なだけだ。今は、つくしという最愛の女を手に入れ、震えが立つほどの幸せを感じてる。
ただ、それが余計に俺を狂わすのか、大事な女が泣いていた時に俺は……、そう思うと自分の首さえ絞めたくなる。
泥沼に沈んでくように、息をするのも苦しかったあの頃の感覚まで呼び覚まされ、どうしようもなくなっちまう。
「お願い、苦しそうに抱いたりなんかしないで」
俺を逃さないように、頬を包み込んだままの手。
その手に僅かな力を加えて、つくしが言う。
「司には私がどう映る? 誰よりも私を見てくれている司なら分かるでしょ? 私が今、不幸に見える?」
「……いや」
「でしょう? 私、今凄く幸せだもん。司が傍にいてくれるから」
頬を挟んでるつくしの手に、自分のものを重ねる。
「司の苦しみが癒えるのを待とうって、ずっと思ってたけど、もう止める。
だって、あの過去は今に繋がる通過点だったんだから、そこに立ち止まったままでいたって、何も生み出さない。
司とだから未来を歩きたいって、だから、この指輪に誓ったんだから。この指輪の価値は重いのよ?」
俺の薬指に嵌るリングと、お揃いの自分のリングを重ね合わせるように、つくしが左手を絡ませる。
「私にとって司との恋が最後。どんな事があっても、この指輪を外す気もなければ、私は司の傍を離れたりしない」
「…………悪かった」
完敗だった。
全て見破られ、嘘もつけずに素直に謝れば、つくしの頬が緩む。
「俺様らしくないとこだって、私にはちゃんと分かっちゃうんだから。誰よりも司が私を見ていてくれるように、私だって、誰にも負けないくらい司だけを見てるしね!」
「……」
「でも、俺様らしからぬその無口さは、やっぱり不気味~!」
思いの丈を吐き出したつくしは、俺が感じている惨めさを必要以上に与えないように、ふざけ口調に切り替えたんだろう。
悪戯な笑みは、俺の心情をも切り替えさせるためだと分かるから、だったら俺はそれに応えるしかない。
「おまえがそこまで俺に惚れてるとはな」
「なっ、調子に乗らないでよね!」
「は? ホントのことだろうが。俺がジジイになっても、傍にいてくれんだろ」
「それは、勿論そうよ」
「耄碌しても離れんなよ」
「当ったり前じゃない。離れてなんてあげないわよ」
「シモの世話も頼むかもしんねぇけどな」
「しょうがないから、しっかり面倒見てあげる!」
手を絡ませたまま、デコを突き合わせ二人で笑う。
当たり前だった。俺が笑えば、つくしも笑う。
つくしが笑っていれば、俺の気持ちも満たされる。
いつだって俺達の想いは一体だった。
過去の罪に囚われ苦しむ俺の姿に、つくしにも同じ痛みを与えちまってたはずだ。
ましてや、つくしからしてみたら、面白くもねぇ話だ。
これ以上、つくしに痛みを与えていいはずがなかった。
俺達が再会するきっかけを作ってくれた桜子だって、どんな経緯で俺達が元に戻ったのか、痛みを伴う過去話は敢えて避け、周りのダチ達にも詳しくは教えちゃいなかった。
振り返ってもしょうがねぇもんは、不必要とばかりに。
その桜子だって今頃、自らの手でリングに火を点しただろう。
それは、一つの恋を昇華した証。そして、前を向くための決意の表れ。
俺も、二度とあんな過ちは犯さないと誓うから、もう罪から解放されてもいいか?
見つめる視線の先。
俺の気持ちなど丸分かりだろうつくしが、綺麗に笑う。
自分では消せなかった罪を浄化するように、濁りのない澄んだ瞳で俺を捉え、惜しみない笑みを与えてくれる。
「もう楽になっていいんだよ」
「あぁ……すまなかった、つくし」
愛しい女の笑顔に守られて、心が凪いだ水面のように穏やかになる─────────はずが。
「司が自分一人を責める話じゃないしね。私だって沢山間違えて、司を一杯傷つけた。それに、その……私にも付き合った人がいたわけだし?」
「……」
「お互いさまってことで……って何? 何でまた無言!?」
「…………」
「ちょっ、なんで目まで据わらせてんのよ!」
「………………」
「嘘ッ! まさかの青筋出現!?」
「……………………」
「そ、そんな怒んなくたって。直ぐに別れたし……って、待った!」
「…………………………」
「なに押しつけてんのよっ!」
「シモの世話、してくれんだろ?」
「それ意味が違うからーっ!」
✢
俺に身を預けたままスヤスヤと眠るつくし。
もう少しすれば、当たり前のように幸せそうな顔をして、つくしは俺に「おはよう」と微笑むだろう。
この当たり前だと思える幸せは、過去から繋がれた結果。
思い出すのも辛い過去でも、あの時がなかったら、今の俺達はどうなっていたのか……。
そんな過去をも重ねて今の幸せがあるんなら、今度こそ俺は、後ろを振り向かねぇ。
せめてこれからの日々は後悔しないよう前を向き、つくしと共に進む道に、精一杯生きた証を刻んでいけばいい。
笑って、泣いて、怒って、嫉妬して。時に躓きながらも、また笑える道を模索して。
そうやって、今だけに留まらず時間を積み上げていく。
例え、明日に辛さや悲しみが待っていようとも、人間は立ちあがれる勇気を秘めている。
立ちあがった先に続く道は、きっとある。
そう信じる強さを二度と失いたくはない。
何が起こるか分からない今の世の中で、この先どんな苦境に立たされたとしても、天文学的な確率で同じ時代に生まれ出逢ったこの奇跡と共に、俺は生き抜いてみせる。
人間は弱い生き物だが、隠れた強さも備えているはずだから。
時に脅威ともなる自然にだって打ち勝てる可能性のあるそれは、愛を育む豊かな心と知恵だ。
その愛と知恵を持つ人間は、だから生きていこうと思える。
喜びを分かちわあうだけじゃなく、共に苦難に泣き、慰めあい、困難を乗り越えるために知恵を出しあって、手を取り合い生き長らえていく。
出来るはずだ、俺たちなら。────絶対に。
だから。
「早く起きろよ?」
眠るつくしの手を取り、薬指の指輪に誓いのキスを落とす。
「おまえがいなきゃ、始まんねぇだろ?」
未来へと繋がるこの時間が。
数年後も、数十年後も。
未来で笑う俺達に会うために、幸も不幸も共に歩んで行こう、今日というこの時を────。
fin.

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謎だらけのスタートでしたが、最後までお付き合い下さり、本当にありがとうございました!