ラスト・リング 5
「降ろしてもらえませんか」
運転してやってる俺を気遣うでもなく、助手席から愛想のねぇ声音が狭い空間を震わす。
とっくに車は走り出してるっつーのに、ったく、諦めが悪りぃ。
でも、桜子はそういう女だ。意地を張ってるわけじゃねぇ。
自分の気持ちを押し殺し、そうまでしても守りたいものを守るため、突っ張って見せて一線を引いている。
一年前の、あの時もそうだったように。
「分かった」
「……」
「って、俺が言うとでも思ったか」
チラッと桜子を見遣れば、忌々しげな視線を俺に投げつけ、そして窓へと顔を背けた。
窓の外には、また降り出した大粒の雪屑。
白いそれは、フロントガラスに静かに張り付き、動かしたワイパーが擦れる小さな音だけが俺達を包んだ。
ラスト・リング 5
桜子が距離を置きたがってるのも仕方ねぇ。顔向け出来ねぇとすら感じてんだろう。
今まで、耳にしただろう俗言のせいで。
そこに、俺達の意図が隠されていたとは知りもしねぇ桜子からしてみたら、当然の感情だ。
そうまでしても、大事なダチの隠した気持ちを優先した。そうするしか、桜子の愛情を残してやれなかった。
それが正しかったのか間違ってたのかは、今でも分からねぇけど、俺達を救ってくれた桜子にしてやれるのはそれしかねぇと、苦しみと怒りを抑え込み決断した事だった。
つくしとの今があるのは、桜子のお陰だ。
雨の日に、つくしと別れた過去。
つくしを失った俺は自暴自棄になり、女に走った。
それも未練たらしく、肩先まで伸びる黒髪はストレートで、身体つきは華奢な女ばかり。
やり場のない苛立ちを、その女達に辺り散らすような堕落した日々を過ごしている間に、つくしの姿が変わり果てているなんて考えもしなかった。
桜子が、俺のマンションに現れるまでは……。
『今までにない興奮を味あわせてあげますよ。素敵な場所で───』
桜子の挑発に乗り、予め用意されていたヘリで連れて行かれた場所は、寂れた漁村。
そこで初めて、桜子の言葉に多分な嫌味が含まれていたと思い知らされ、そして、目にした現実に俺は言葉を失くした。
『どうです? 自分を振った女が苦しんでる姿。これ以上の興奮はありませんよね?』
刃物のような言葉は、氷のような冷やかと鋭さを持ち、俺に突き刺さる。
それ以上に角膜に映る光景は、俺の胸を抉り、今にもその動きが止まってもおかしくない程だった。
髪をバッサリと切り、華奢だった身体は更に一回り以上も小さくなり、噎び泣くつくしの姿。
岩場の影からでも分かるほど、頬は痩せこけていた。
この時ほど、自分の行いを悔いたことはねぇ。
気持ちに蓋をし、別れる選択肢しか持てなかったつくしと、それをどうする事も出来ずに、現実から目を背け続けた愚かな自分。
どんなに時が流れても、雨の日から立ち止まったままの俺達は、前へも進めず大きな傷だけを残した。
そんな俺達に、繋がるチャンスを与えてくれた救世主が桜子だ。
その桜子に頭を下げ、つくしへの想いを託し、それからは気持ちを入れ替えて、我武者羅に仕事に励んだ。
つくしを守れるだけの力を付ける、その一心で。
漁村で変わり果てたつくしを見てから、二年後。
俺はつくしを迎えへに行き、暫しの交際を経て、たった一つの夢"つくしとの結婚"を叶えた。今から五年前のことだ。
力を付けた俺を認めたのか、結婚には、もうババァも反対はしなかったが、そのババァに心から安心して貰いたいがため、一日でも早く俺をサポート出来るようになりたい。そう主張するつくしを尊重し、様々な教養を身につけさせ、今じゃつくしは優秀な俺の秘書だ。
そんな一変した環境下。必死で頑張るつくしを、俺とは違う形で支えてくれたのも桜子だった。
つくしは道明寺司の妻として秘書として、慣れないパーティーへと出向き、時にはパーティーのホスト役として、様々な人間を招く場面も大いにあって。既にうちの人間からも、つくしの専属養育係と認識されちまうほど信頼の置ける存在だった桜子は、そう言う場面に於いても、最大限の力をつくしに貸してくれていた。
桜子と一之瀬仁が知り合ったのは、そんなパーティーでのことだ。
うちが主催のパーティーで、初めて顔を合わせた二人。
その後、どんな風に形を変えて行ったのかは俺達にも分からねぇ。
それによって、俺達と桜子の関係までもが変わってくなんて、想像もしなかった。
何も分からねぇまま、桜子の気持ちも訊いてやれねぇままに、全ては終止符を打った。
つくしが、二人の関係に気付いたのをきっかけに。
それは俺達が、とあるパーティーに出向いた時だった。
桜子と一之瀬も呼ばれていたのだろうそのパーティーで二人を見掛けたつくしは、俺と共に周りの奴等に一通りの挨拶を済ませると、一人その後を追いかけた。
友人を見掛けたから声を掛ける。
ただそれだけの何気ない行動が、知り得なかった事実を浮き彫りにすることとなる。
人混みを抜け、庭へと向かう二人。追うように庭に出たつくしは、夜の暗さの中でも、その表情が読み取れる距離にまで近づいた時、その身を木の陰に隠し息を呑んで動きを止めた。
目の前には、愛おしい眼差しで見下ろす一之瀬と、同じように見上げる桜子。
そんな二人に、つくしが声を掛ける事はなかった。
その次の日。
つくしは誰にも何も言わず、一人暮らしを始めた桜子のマンションに向かった。
全てが明らかになってから俺に報告しようと思っていただろうつくしは、一人胸を痛めていたに違いねぇ。
妻のいる立場の一之瀬とそんな関係になってるんだとしたら、止めるつもりで。
それ以前に、妻帯者だとは桜子は知らないのかもしれない、と心配を宿しながら、相当混乱していたはずのつくしは、桜子のマンションに向かう自分の背後に、異変があるなどと気づく余裕もなかった。
何度もインターフォンを鳴らされ観念した桜子は、オートロックを解除し、開けた玄関のドアの先。
真っ先に男物の靴を見つけたつくしは、桜子を振り切りそのまま上がり込み、見た。
その部屋に馴染むようにラフな格好をした一之瀬と、そして……"色のない指輪"を。
目の前に広がる現実が本当なのか、確かめるように『どうして?』と、一之瀬に漏らしたつくしの言葉は、玄関先から聞こえて来た、女の怒声と平手打ちの音によって掻き消された。
苛立ちを乗せ近づいて来る足音。
それがつくし達の前にやって来た時、全てが終わった。
怒りを露わにし部屋に入って来たのは、一之瀬物産の社長を父に持つ、一之瀬の妻。
桜子と一之瀬の逢瀬を突き止めるために、つくしを尾行していたらしい。
夫に対する不信感は、妻と言う立場の女がいち早く察知するのも無理はねぇ。
つくしが気付くずっと以前から、その相手が桜子だとも気付いていたんだろう。
感情のままに思いを叫ぶ、一之瀬の妻と、妻を真っ直ぐに見つめ、何かを言おうとした一之瀬。
それらの動き全てを止めたのが、左頬を赤く腫らした桜子で、素早くテレビの横に立つと、薄笑いを浮かべたと言う。
『バレたんなら、もうお終い。面倒なのは御免です。本気でもなかったし、奥様にお返しします。
先輩にもバレちゃいましたね。先輩の近くにいれば、あわよくば地位のある男を手に入れられると思ってたのに、残念。それ以外に先輩と一緒にいるメリットなんて、何一つないですもの』
それからだった。
連絡をしても繋がらず、つくしに牽制を掛けた桜子と会わなくなったのは。
林道を走り、もう直ぐ敷地内に入る一歩手前。続いていた静寂を突き破る。
「一之瀬のことは、もう忘れられたのか?」
唐突に投げかけた俺に、
「忘れるも何も、その場限りの付き合いでしたから」
外に視線を置いたまま、桜子は素っ気なく答えた。
「あきらもその場限りか?」
「……」
「おまえに気持ちがねぇなら仕方ねぇ。けど、あきらの気持ちは知ってんだろ? ちゃんと受け止めて考えてやれ。自分の気持ち偽って突き放すような真似だけはすんな」
俺が言わなくても、んな事しても互いに傷を残すだけだって、俺達を見て来た桜子なら知ってるはずだ。
なのに、あきらに対して敢えてそうしてるように思えてならねぇ。
今の桜子の気持ちは、あきらへと向かってる。少なくとも、俺とつくしは、そう睨んでる。
だとしても、素直にそれを口にする女じゃねぇ。
全ては、終わった恋愛がネックになってるせいで。
だったら、俺達が出来るのはただ一つ。
んなもん全部取っ払って、桜子が守りたかったものを守るだけじゃねぇ。今度こそ桜子自身を守り、前へ進めるよう背中を押してやるだけだ。
「一之瀬との仕事は終わった。もう誰に遠慮もいらねぇ」
「……」
掴んでる手に力を入れたのか、桜子の膝の上にある皮のバックがギュっと音を鳴らす。
「この一年、おまえが傷つくような噂や、つくしの噂も耳にしてんだろ? これからは、んなもん誰にも言わせねぇから」
「……バカみたい」
「……」
「噂? 笑わせないで下さい。そんなの痛くも痒くもないわ。私は、人の男を寝取るような女ですよ?
美作さんの事だってそう。婚約者がいるのを知ってて、その場だけの関係を持っただけ。そんな女に悪かった?
バカみたい。先輩をも傷つけた私に謝るなんて。道明寺さん、いつからそんなにお人好しになったんです?」
桜子からの睨みを目の端で捉える。
「つくしが傷ついただと? そっちこそ笑わせんな」
敷地内に入った車。
そのままエントランスに滑り込ませブレーキを踏むと、桜子に視線をぶつけた。
「うちのつくしを舐めんなよ? あんな嫌がらせ、つくしにゃ傷にもなんねぇよ。
つくしはな、桜子の部屋で指輪を見た時から、おまえの気持ちなんか気付いてんだよ。おまえが心にもねぇ事をつくしに言ったのだって、つくしや俺は関係ないって、一之瀬の女房に分からせるためだろ。
この一年、つくしも俺も胸が痛んだのは、そんなおまえの傍で支えてやれなかった事だ」
眉を寄せ、苦しそうに顔を歪めた桜子が、ぶつかってた視線を静かに外す。
「噂を気にしてんのは、おまえの方だ。その噂をあきらの重荷させたくなくて、こうして姿をくらましたんじゃねぇのか?」
「……」
「あきらはな、そういうもんも全部引き受けてくれる」
「……」
「おまえがした事は、世間の常識ってやつから考えりゃ褒められたもんじゃねぇ。けどな、てめぇのケツはてめぇで拭いたんじゃねぇの?」
「……」
「一之瀬の立場を守るため、俺達にも迷惑掛けねぇため。全部の非を一人で背負って、自分の気持ち押し殺してまで身を引いたんだろうが。そんだけ人を好きになったその感情に、良いも悪いもねぇ」
エンジンを切ってドアを開ける。
「おまえの小芝居に付き合うのもここまでだ。おまえの本質を知ってる俺達に、いつまでも通用すると思うなよ? 俺もつくしも、それから、中で待ってる落ち着きなくした男もな」
「……っ」
「行くぞ」
俯き瞼をきつく閉じている桜子の膝の上、置かれた皮の鞄には、涙の痕が点々と滲んでいた。
ジッとしたまま動かない桜子を促すように、助手席側に周りこみドアを開ける。
「早くしろ。つーか、俺が限界。これ以上、あいつ等を二人きりにさせられるかッ!」
イライラと髪を掻く俺に、ゆっくりと顔を上げる桜子。
俺を見上げたツラは、涙に濡れそぼっていて。後から後から込み上げてくるものを、必死で抑えるように唇を噛む桜子は、声にならない声で「……はい」と、頷くと、その足を地面に下ろした。
こんなに分かりやすい男だったか?
別荘の玄関扉を開けるなり、我先にとばかりにバタバタと騒がしく駆けよって来たあきらを見て、心底、首を捻りたくなる。
安堵に合わさって好きな女を目にしたせいか、白い歯を見せだらしなく緩んだその表情。
「桜子ッ!」と叫んだあきらは、その腕ん中に桜子を収めたかったんだろうけど。広げかけた腕も空しく、あきらが叫ぶと同時に動き出していたつくしに先を越され、願いは叶えられなかった。
「焦んな。話すんのにも順番つうもんがあんだろーが」
つくしの温もりに包まれて、この一年張り詰めていただろう気持ちが解けたのか。つくしに抱かれ、感情のままに泣く桜子を見て安堵した俺は、面白いほどテンション急降下のあきらの肩に慰めるように手を乗せた。
「わ、分かってるって。牧野も話したいこと沢山あんだろうし」
「あぁ。それより、あきら。俺の居ぬ間に、またつくしの笑顔にヤラレたりしなかっただろうな」
凄めば素直なまでに強張る、あきらの肩。
「なっ、な、な、何言ってんだ! あ、あるわけないだろう?…………っ、ぐぇっ!」
俺は、肩にあった手を瞬時に動かし、躊躇いもなく腕に力を入れると、つくしと桜子の邪魔をしないよう、あきらの首を締めあげながら居間へと向かった。

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