ラスト・リング 4
「いらっしゃい、美作さん!」
「あっ! 牧野悪い。手土産一つ持って来なかった」
「ヤダ、そんなの気にしないでよ。それより、寒いから早く上がって」
恐らく、俺に土産を用意する余裕などなかったことは、バレバレだろう。
実際、牧野の顔を見て漸く手ぶらなのに気づいた情けない俺は、促す牧野の好意に甘え、何年か振りに訪れた道明寺家の別荘に足を踏み入れた。
司から全てを訊いて三日経った今日。
オフィスに着くなり鳴り響いたプライベート携帯は、『見つかったぞ。面倒なもんは、さっさと片付けて迎えに来い!』
桜子を見つける"代わり"を頼んでいた司からの朗報だった。
逸る気持ちを必死に抑え、出来る限りの仕事を午前中で片付けると、一人車に飛び乗り、ここ軽井沢までやって来た。
アクセル全開、法定速度なんぞ完全無視。
前を走る車一台一台を片っぱしから抜き去る、普段の自分からは考えられない荒い運転。
そうまでしてスピードを上げても、その道のりは果てしなく長く、遠く感じた。
途中、一時的に降り出した雪に遭遇して、流石に速度は落とさざるを得なかったが、ハンドルを指先でノックしながら運転していた俺は、司をバカに出来ないほど自分が短気な人間だったのだと思い知った。
一分でも早く逢いたかった。
一秒でも早く、その存在をこの目で確かめたかった。
こんなにも簡単に俺を乱す、たった一人の桜子を想って───。
ラスト・リング 4
くそ寒みぃっ!
ったく、マイナスイオン浴び過ぎだろ。
あきらが俺ンとこに来てから三日後、桜子の居場所を突き止めた。
降ってた雪が止んだとはいえ、体温を瞬時に奪うほどの寒空の下。
辛うじて凍らずにいる、幾筋もの細い白糸が流れ落ち行く滝の前に、一人佇む女の姿がある。
少しだけ距離を置いた俺は、その後ろ姿を、もうかれこれ30分も寒さに堪えながら眺めている。
ファー付きの白いコートに、黒いロングブーツ。
寒さ対策はしているものの、茶色いウェーブがかった髪の毛だけが、空気の流れに合わせ揺らぐ以外、その身を震わしもない姿は、周囲の目には訳ありと映るのかもしれない。
今も近くにいたカップルが、女に視線を走らせ、アイコンタクトで何かを語っている。
充分に時間を与えてやった女が、これ以上、他人の話題に上らないためにも、芯まで冷え切った自身の身体を守るためにも、いい加減声を掛けようと足を動かしかけた時。女は、ゆっくりと振り返った。
俯き加減でも分かる覇気のない顔。
周囲なんてまるで目にも入いちゃいない様子の女は、確実にこっちに近づいているのに、俺の存在にも気付きやしねぇ。
「こんなとこにいたとはな。観光は終わったのか?」
堪らず声を掛ければ、風で靡いた髪が顔にかかっても分かる、驚き見開いた目。
「っ……道明寺さん」
「道明寺さんじゃねぇよ。風邪引いちまうだろうがっ」
「……どうして?」
「ぁん? 決まってんだろ。迎えに来た」
「……」
「おまえにンな顔させてんのは誰だ? あきらか? それとも……」
「っ……」
「まぁ、いい。シケタ面のおまえに、今までにねぇ興奮を味あわせてやるよ。素敵な場所で、な」
数年前に言われた台詞をまんま返した俺は、また動きを止め顔を引き攣らせる桜子の、白いカシミヤに包まれた細い腕を掴んだ。
「やっ……、放して下さい!」
「諦めろ。イラついて我を忘れてるバカを待たせてんだよ」
「え」
「あきらだよ、あきら! アイツ、俺に嫉妬して怒鳴るほど余裕失くしてんだよ」
そん時のあきらの顔を思い出すと、思わずニヤケちまう。
今だってきっと、まだかまだかと、腹を空かせたライオンみてぇに、落ち着きなくしてるに違いねぇ。
「ほら、分かったんなら行くぞ」
「やっ!」
足に力を入れ踏ん張る桜子を半ば強引に引き摺り、駐車場に停めてあった車へと押し込んだ。
✢
暖炉のある広いリビングに通されるや否や、存在を求めて辺りを見回す。
「ごめんね、桜子はまだなの。今、司が迎えに行ってるから、もう少しだと思うんだけど」
「あ、あぁ、そうか」
気持ちばかりが焦り、完全にらしさを失った俺に、牧野はクスッと笑みを溢すと、手際良くお茶の用意をして、俺の前にコーヒーを置いた。
「今日は悪いな。それにこの間も」
「この前、司から訊いて分かったでしょ? 司も私も、桜子には感謝してもし足りないくらいなの。それに、相手が美作さんだったら尚更だよ。力になれるなら嬉しいくらい」
「牧野、ありがとな」
「お礼なんて言わないでよ。美作さんの激レアシーンも見せてもらったし?」
悪戯っぽく笑う牧野に、顔は恥ずかしさから熱を持つ。
牧野が言う激レアとは、三日前、意味深に言葉を操った司に翻弄され、まんまと感情剥き出しになった俺が、思わず声を荒らげたことだ。
冷静に考えれば、そんなはずないって分かるのに、思考能力は完全に寸断。気付けば俺は、勢い良く立ち上がっていた。
『桜子はな、俺に抱かれ犠牲になったとしても、意志を貫き通す女だ』
司が放った言葉に頭は真っ白になり、それのみに俺の思考は支配された。
まさか、司と桜子が?
全く予想してなかっただけに混乱し、激しく燃え盛る怒りと嫉妬。
そんな怒りを漲らせた俺を冷静に戻してくれたのが牧野だった。
黒オーラ全開の司の脇腹目掛け、牧野が素早く繰り出したストレートパンチ。
綺麗なパンチをまともに喰らって呻く司に、
『そんな言い方したら、誰だって勘違いするに決まってんでしょうがっ!」
容赦なく牧野は怒鳴りつけた。
『ってぇな! 少しは加減しろっ! 第一、俺は間違ったこた言ってねぇ! こいつが勝手に嫉妬に狂って勘違いしたんだろうがッ! そもそも、つくしの笑顔に頬なんか染めやがった、あきらが悪りぃ!』
頬を染めた!?……って、そんな事はどうだっていい。それより勘違いなのか?
司と桜子との間には、何もなかったのか?
正確に物事を判断できないでいると、
『司は猛獣だけど、桜子を襲ったりしてないから安心して?』
そう言ってニッコリ笑う牧野に、漸く俺は落ち着きを取り戻した。
要は、こうだ。
桜子との関係を洗いざらい司を通して牧野に伝えた事で、俺は、その気まずさと照れから顔を赤くしていた。
ついさっきも牧野に、"激レア" と、からかわれ顔に熱を持ったように。
それが、牧野の笑顔で頬を染めたと、あのバカに勘違いされ、挙句嫌がらせされたって訳だ。
たかだか、それだけのことで嫉妬し悪魔に変身する男に、『嫉妬に狂って』とまで言われる俺の哀れさ。
でも、俺は知っている。
もし、あの時、
『だとしても諦められるかよ!』そう反論していなかったら、司は、本気で桜子を俺に近づかせやしなかっただろう。
それだけ司は、桜子に感謝しているのだと思い知った。
俺の頭を白くさせた、あの司の言葉も満更嘘ではなく、三人の過去を遡ってまでの全てを訊いたから……。
「美作さんだけじゃないよ。誰かを本気で好きになった時。自分でも知らなかった自分が顔出したりするんだよね。私もそうだったし」
"激レア"をフォローしてるつもりか、自分には紅茶を用意した牧野が、一口すすってから話し始めた。
「桜子もそうだと思うの。昔、私は司からも皆の前からも姿を消したじゃない? 周りに迷惑掛けたくなくて、司の足枷になりたくなくて……。
その思いも確かに嘘じゃなかったんだけど。でもね、心の中じゃ凄く怖かったの。
いつか、司も別れを決断する日が来るんじゃないかって。だから予防線を張ったのかもしれない。司からその言葉を訊きたくなくて、自分の気持ちに嘘までついて。
自ら身を引く事で、私は自分を守っていたんだと思う。ね? 向かい合うことから逃げたなんて、私らしくないでしょ?」
「それだけ立ち向かう相手は大きかったしな。おまえがそう思うのも無理なかったろ」
「うん、確かにそうなんだけど……。だけど、別れてもちっとも楽になんてなれなかったんだよね。
気持ちを抑えられなくて、私のこと忘れないで、なんて身勝手にも司を想うと涙が止まらなかった。
そんな私を、ずっと見ていたのは桜子なんだよ? その桜子が今、私と同じように身を隠してる。自分の気持ちを誤魔化して、現実から目を背けても前には進めないって桜子なら知ってるはずなのに。でも、そうする以外、どうしようもなかったんだと思う。
きっと凄く悩んで、凄く迷って、そして自分の傷を広げてる」
そう言って、カップを持ったまま遠くを見つめる牧野からは、大切な桜子を心配する気持ちが滲み出ていた。
かつて牧野は、俺たちの前から忽然と姿を消した。牧野が高校二年の冬のことだった。
別れを告げられた司は生気を失くし、俺達は、その変わり様に言葉を失くした。
牧野を捜すでもなく、日に日に堕落して行く生活。
全てを諦めた司には、俺達の意見なんて耳にも届きやしなかった。
牧野が心配でその行方を探ろうともしたが、見つけたところで、そんな状態の司を目の当たりにしては、却って牧野を傷つけてしまうだけだ。
牧野には牧野の幸せが、きっと別の場所にある。そう信じて、俺達は牧野から連絡があるのを待ち、捜すのを諦めた。
だが、そうしなかった奴が一人。
俺達には何も言わず頼らず、桜子は一人で牧野を見つけ出し、その姿を何年も影から見守り続けていた。
それが、三日前に司から訊かされた話の一つだった。
声を掛けるでもなく、名も知られていない漁村に通い続けた桜子。
牧野は、明るいうちは元気に振る舞い、しかし、人気のなくなる夕暮れから夜になると、それは脆くも消えた。
砂浜の上で片腕で膝を抱き、もう片方の手を胸元に当て、海原を前に涙していた牧野の姿を、桜子は何度となく目にしていたのだと訊く。
声を掛けられなかったのは、俺達が探し出さなかった理由と、きっと同じだ。
掛けたくても掛けられなかったんだろう。
弱々しく一人で泣く牧野の本当の気持ちを知った桜子が、変わり果てた司のことなど言えるはずもない。
戻って来いと言えなくて当然だった。
そんな桜子に好機が訪れたのは、司と牧野が別れて二年と少しが経った頃だった。
偶然、帰国していた司と出くわした桜子は、その隣に並ぶ女を見た時、チャンスを見つけたと思ったらしい。
『俺が、姿見がつくしに似た女ばっか選んでたって、桜子に見破られたんだよ。実際は、似ても似つかねぇ女ばっかだったけどよ』
キッチンを気にしながら、牧野に聞こえぬようにと、司がそっと俺に耳打した事実。
それを桜子は逆手に取ったらしい。
女なんて誰でも良いと装っていたのに、牧野に似てる女を求めていたなどと決して認めたくはない司と、似てないなら自分とでも構わないだろうと、言葉巧みに流れを作り出し挑発した桜子。
その挑発にまんまと乗っかった司は、桜子に連れ出された。
─────牧野のいる、寂れた漁村へと。
桜子が何度も見てきた姿が、その日も司の目の前にあったという。
膝を抱き、片手で胸元を弄りながら泣く牧野。
その手が何を弄っているのか。それが、自分が贈ったネックレスだと気付いた司は、牧野に声を掛けることなく、全ての想いを桜子に託した。
『俺は、誰にも文句言わせねぇほどの力をつけてくる。俺を信じてくれるなら牧野に伝えて欲しい。必ず迎えに来る。今度こそ、おまえを守り抜くと』
見極めは必要と思ったのか、それとも司に試練を与えたかったのか。恐らくその両方だとも思うが、その言葉を牧野に伝えたのは、それから一年後だというのだから、何とも桜子らしい。
あの時、桜子が牧野を見つけていなかったら。
身体を張って司を挑発し、漁村へと連れ出してなかったら。
今の二人の幸せは、なかったかもしれない。
いつもはクールなくせにダチ想いの桜子。根は優しさで溢れている女だ。
その桜子が、今はあの時の牧野のように一人で泣いているかもしれない。
「桜子が誰を想っていたとしても、俺はアイツを守ってやりたい」
無意識に、偽りのない想いが口から滑り落ちる。
かつての司がそうだったように、俺の想いにも一切の迷いはなかった。
暖炉の薪がパチパチと音を鳴らす。
牧野は何かを考えているのか、黙ったままだ。
静まり返る広い部屋。
まるで、時間が止まってしまったかのような感覚に襲われる。それがまた俺を焦らせる。
桜子はまだか? 司に電話でも入れてみるか? いや、もう少し待った方が……。
何度も同じ思考を繰り返し、落ち着きなく腕時計を見遣った時。思い耽っていた牧野が徐に口を開いた。
「やっぱり、私思うんだ」
「うん?」
「遠い過去は置いといたとして……。大人になってからの桜子は、気持ちのない相手と関係を持ったりなんかしない」
淀みのない綺麗な瞳を真っ直ぐに俺に向けた牧野は、自分の言葉に自信があるように迷わず言いきった。
「でもな、桜子はアイツのニュースを観て──」
『様子が変わったんだよ』と続けるつもりだった俺の言葉は、牧野によって遮断された。
「私が辛い時、その気持ちを一緒に引き受けてくれた子だよ? 人の気持ちをいい加減に捉えたりなんかしない。絶対に」
「……」
「だからこそなの」
「だからこそ?」
「うん」
歯切れの良かった口調は急に止まり、俺の顔を窺うように、
「美作さんからしたら、訊きたくない話だろうけど」
そう前置きをしてから、話を続けた。
「桜子は、あの人のことを本気で愛してた。そして、あの人もきっと桜子を……」
俺に気遣って、牧野が躊躇したのだと分かる。
牧野が指す"あの人"こそが、倫に外れてまで桜子が愛した男で、司と仕事で手を組んだ、世界的に名の知れた有名デザイナー、一之瀬仁だった。
「許されはしない恋愛だったけど、それでも、桜子はちゃんと人を愛せる子なの」
「……あぁ」
「一年前は、桜子が自分の気持ちを誤魔化しているのを分かっていても、それに向き合えなんて、無責任に言うことは出来なかった。そう言う恋愛だったから」
「うん」
「そんな周りにも影響を与えてしまう恋愛をした自分を、きっと桜子は今も卑下してる」
「そうかもな」
「そのせいで、桜子が新たな恋愛に踏み出す勇気が持てないでいるのだとしたら、助けてあげたい。どんなスタイルの恋愛だったとしても、胸に抱いた想いだけは嘘じゃなかったと思うから」
「……」
「だから、美作さんお願い! あの子を守ってあげてっ!」
そう言った牧野は、スカートをギュッと握りしめ、膝に着く勢いで頭を下げた。
なぁ、桜子?
おまえは知らないだろ。
こんなにも牧野達がおまえを想ってくれてることを。
おまえは、自分のしたことで牧野達に顔向け出来ないって思ってるだろうけど。
俺だって、司達がおまえを責める気持ちもあったろうって思ってもいたけれど、それは全て誤解だった。
おまえと距離を置いていたのは、怒ってたからじゃない。全ては、桜子を想ってのことだ。
この一年、桜子は俺に任せ、また桜子の近くに居た俺にも余計なことは言わず、ただひたすら桜子の負担を少しでも減らすために動いていた。
それは、桜子が抑え込んだ本当の気持ちを誰よりも早く気付いたからこそ、報われなかったその愛を、傷しか残さぬ悲しいものだけにはしたくないと、牧野と司が守ろうとしたからだって、何も知らずにいる桜子に早く知らせたい。
牧野と司の、一年間の秘めた思いを……。
そして、伝えたい。俺のこの想いを……。
大粒な雪が、ひらひらと舞い出した窓の外。
冷たく真っ白な世界に包まれるその前に、温もりを分け与えてやりたい。
だから、早く来い!
俺は心から強く願った。

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