Secret 46
それは何の前触れもなく突然にやって来た。
横浜のマンションでつくしに会ってから一週間後のことだ。俺の元へ一本の連絡が入った。
つくしの事務所スタッフからで、つくしが今からここへ来ると言う。
全ての仕事を後回しにした俺は、途端に落ち着きをなくし、社員に不可解な目で見られるのも構わず、秘書課の前をウロつきながらその時を待った。
俺がウロつき出して数十分。エレベータがこのフロアに停まったことを告げる音が鳴り、開いた扉からは、つくしがスタッフの一人を引き連れ現れた。
横浜のマンションで会った時のように、消えちまいそうな儚げな雰囲気じゃねぇ。
サングラスは掛けているがメイクもしっかり施し、誰しもが牧野つくしと気付くほど存在感が滲み出ている。
秘書課の奴等からは、小さな驚きの声が上がるほどだ。
事情も知らねぇ連中の前に突然つくしが現れれば、浮き立つのも無理はねぇ。
そんな社員につくしは会釈をし、共に来た事務所スタッフは、うちの社員に手土産の紙袋を差し出した。
そのスタッフには、別室で待機してもらうよう秘書の一人に指示を飛ばし、つくしと共に執務室へと向かう。
執務室の手前にあるデスクに座っている滋にも、同じように会釈したつくしは、だが口は開かず無言のまま通り過ぎた。
滋にはお茶はいらねぇから誰も近づけないように厳命し、ソファーにつくしを座らせる。
「つくし、もう大丈夫なのか?」
対面に腰を下ろし言う。
「うん。でも光はちょっと……サングラスしていたほうが楽なの。このままでもいい?」
「ああ、勿論だ。無理はするな」
「ごめんね、司。忙しいのに無理言って。仕事逃げ出しちゃったことも何とか大ごとにならずに済んだし、仕事も復帰するから、その前に話がしたかったの」
暗い声ではない。寧ろいつも聞きなれている明るい愛しい声で、少しだけ心の曇りが晴れる。
「気にしないでいい。それより俺は、ずっとつくしに会って謝りたかった。折角NYまで来たのに傷つけて、いやNYに行く前にも酷く当たって、本当にすまなかった。余裕をなくした俺が全部悪い」
つくしがクスッと笑う。
「謝らないで。私も同じ気持ちだったから。いつの間にかどんどん追い詰められて、自分が自分じゃないようだった。NYと日本で離れている生活が長かった頃は、傍にいられるだけで幸せだろうなって思ってたのに。でも、見なくて良いものを見えちゃう距離にいるって、難しいこともあるんだね。離れていた頃の方が、何にも惑わされなかったような気がする。司を信じることも出来た」
少しだけ晴れたと思った心に亀裂が走る。
信じることが出来た、そう過去形で語られたがために。
「つくし、俺はこれからだっておまえの傍にいたいと思ってる。おまえは違うのか?」
「好きだけじゃ、どうにもならないこともあるって分かった」
「そんなもん二人なら乗り越えられる。そうやって長い遠距離だって乗り越えてきただろ?」
「私がどんな気持ちだったか分かる? この部屋で泣いてる滋さんが出てくるのを見たの。そのことを司は私に何も言わなかった。普段は行かない会社の飲み会に顔を出して、帰ってきた司のジャケットからは、滋さんの香りが染みついていた。取れかけたボタンを縫い付ける暇もなくて、司が帰ってきてから付けようと思ったときには、不器用にもう付けられていて……。そんな事を妻としてどう思っていたかなんて、司にはきっと分からない」
思いがけない衝撃告白を受け、一瞬言葉を見失う。
そんなに溜め込んでたのか。
此処で滋が泣いてたことまで知っていたとは、まさか夢にも思わなかった。
衝撃を逃し、努めて落ち着いた口調を心がける。
「何で俺に言わなかった? どうしておまえはそうやって溜め込む? 言ってくれなきゃ訂正も誤解も解いてやれねぇだろ?」
「もっと一杯あるよ。でも、司に言う前に司を信じようと努力した。でも流石に限界を感じて、司に自分の想いを全部伝えようと思ったの。二人で約束した日、あの日に話すつもりでいたけど、でも司は家を出て行ったじゃない。
別に司を責めてるんじゃないの。全てタイミングが悪かっただけだと思う。パリから帰って来てからも、ちゃんと司と向き合おうとしたけど、今度は類との事が報道されるし」
頭を掻きむしりたくなる。
反論は微塵もねぇ。自分の嫉妬に問題があるのは自覚してる。つくしを想えば想うほどに募る嫉妬は、自分でも持て余してしまうほどで、我を失う厄介さだ。
たった数度の報道に振り回されただけで、このザマだなんて。
つくしは何度となくこんな思いをしてきたのに……。
「悪かったと思ってる。そこまでつくしが思いを抱えてたなんて気づきもしねぇで、すまなかった。今更だが、全部話すから聞いてくれるか?」
洗いざらい打ち明け、ここからまた夫婦として一からやり直す。それしか考えられなかった。
全て話せば新たな悩みを植え付けてしまうだろうが、これ以上のすれ違いは毒にしかならねぇ。
自分がしでかした失態を心から侘び、互いの胸の内を曝け出し話し合えば、二人の間に生まれた溝など埋められるはずだ。
自分の中の愛情は何一つとして変わらねぇし、困難があっても乗り越えられる覚悟があってこそ夫婦になったんだ。
だが、俺の希望とは裏腹に、つくしは話の舵を真逆に切った。
「私にも背負わなくちゃならないものがあるし、司ならそれは、もっと大きなもので大変だと思う。その力に私はなれない」
「待て、つくし。何の話だ」
「奥さんとして、私は何もして上げられなかった。道明寺司の妻として私は司を支えてあげられてない。私が司の隣にいることも、喜ばれていない事くらい分かってる。この辺で身を引いた方がいいんだと思う」
何を勝手に話を進めてる!
まだ、話し合いすら始まってもねぇのに。
「俺はお前が傍にいることを望んでんだぞ? 俺の気持ちは無視か? それに喜ばれてねぇって何だよ、勝手に決めつけんな」
「昔のように力の前では屈しなくてはならないこともあるでしょ。若い頃なら、怖いもの知らずで逆らうことも出来た。でも今は、それも正しいことかもしれないと思う自分もいる。何かを守る為に犠牲にしなくてはならないものもあるんだって、今ならそう思える」
だからだろうが。
だから、そんなもんに対抗出来るだけの力を俺自身が蓄えるために、6年もつくしと離れNYで頑張ってきたんじゃねぇか。
遠回りしても、それがつくしと俺が幸せになれる一番の方法だと信じて。その信念の元の努力さえ、おまえは否定するのか。
「俺は、おまえを守るだけの力は、とっくに付けてる」
「もう私が疲れたの」
バッサリとつくしが斬った。
「何だよ、それ。また俺から逃げる気か? 折角、お前を手に入れたと思ったのに、また俺の前から消えるつもりかよ!」
つくしは大きく肩で呼吸をし、自分を落ち着かせているようだった。
やがて、薄色のサングラス越しに見るつくしの目が、強い眼差しへと変わった気がした。
「司が何を考えているのか、今の私には分からない。司を信じることが難しい。司は私に隠れて何をしているの? 私の知らないところで何をしてきた? そんな司を私は信じることが出来ない」
つくしが一気に捲くし立てる。
大河原を潰すことを仄めかしているのか。疑念を抱かれるとしたらそれしかねぇだろ。
まさかつくしが気づいているとは思わなかったが、今更隠し立てするつもりもねぇ。
全てを知ったつくしが身を引くような真似をしようとも、そんなもん全力で阻止してやる。
「つくし頼む、」
俺の話も訊いてくれ、と続くはずだった言葉は、つくしによって遮られた。
それも最悪な形で……。
「司、離婚して下さい」
いきなり突きつけられた、待ったなしの最終宣告。
何を言われたのか頭で整理するのに、数秒。
本当にこいつの口から出た言葉だったのか、現実を受け入れるのに、更に数秒。
止めにつくしは、大小の紙を差し出してきた。
大きな紙の方を手に取り目にした時、俺の頭は完全にショートした気がする。
「司にとって必要なものでしょ。何時出して貰っても構わない。好きなように使って」
好きなように使え、だと?
辛うじて、それだけが耳に残る。
渡された紙を茫然と見る視界の端では、用は済んだとばかりに、つくしがバッグを掴み立ち上がった。
つくしを引き止めようにも、金縛りにあったが如く身体は動かず、カラカラに乾いた喉は、声を出すのも困難なほどの動揺に襲われる。想像以上の打撃だ。
俺の話なんて最初から訊く気もなく、こんなにもあっさりと決断したつくしに、信じらんねぇ思いもあった。
端から俺の話は耳に入れるつもりはなかった、ってことか。
ドアへと向かい、一度立ち止まったつくしが言う。
「何も言わないんだね。本当は、どっかで期待してたの。こんなの嘘だって」
何も言わねぇって、何も言わせず勝手に結論出しといて、それはねぇだろ。
しかも、嘘だなんて否定してやれねぇ話だ。大河原を叩く件は……。
どんなにつくしが反対しようとも、叩くときは叩くしかねぇんだから。
気を動転させながらも「つくし!」声を振り絞り説明しようとしたが、虚しくもつくしの姿はなく、躊躇いもせずに部屋を出て行った後だった。
取り残されたのは俺と、俺の手にある一枚の紙。
緑色で印字されたそれは、妻の欄につくしの署名捺印がされてある、離婚届。
……何で、こうなるんだよ。
今まで、つくしとの幸せを守るためだけに動いてきたのに、何で……。
確かに嫉妬して傷つけたりもしたが、こんなに早く結論を出して俺の話には耳も傾けねぇとか、こんなの有りかよ。
手にしていた紙を思い切りテーブルに叩きつければ、空気の流れに煽られた別の紙が足元に落ちた。
そう言えば、もう一枚何かを渡されていたと気づく。
緩慢な動作で落ちたものを拾い上げ、目に入れるなり、
「っ! 何だよこれっ!」
驚愕に声を上げた。
それはメープルのスイートから、俺と滋が出てくる写真だった。
つくしはこれを見て誤解したのか?
『────司は私に隠れて何をしているの? 私の知らないところで何をしてきた?』
数分前のつくしの言葉を思い出す。
つくしが仄めかしたのは大河原を叩くことじゃなく、この写真だったのか、と愕然とする。
続けて思い出すのは、つくしの最後の言葉だ。
『何も言わないんだね。本当は、どっかで期待してたの。こんなの嘘だって』
バカっ、ちゃんと言えよ!
つくしが指してるのは、全部、写真に対してじゃねぇかよ!
離婚届だけに目が行っちまって、他を見る余裕もなければ、思考だって途切れんに決まってんだろうが。
「ふざけんなよ」
疲労感なのか虚脱なのか、得体の知れないものに包まれた体は気怠く、ソファーの背もたれにぐったりと身を預ける。
こんな途方もないすれ違いが横たわっていたとは、思いもしなかった。
それにこの写真。こんなもんをつくしが持ってたってことは、大河原の親父が動き、接触を図ったに違いねぇ。
滋がホテルに来たところから、全ては仕組まれてたわけか。
そしてつくしは、まんまとその策略を信じた。
こんな写真を見せられたつくしは、どれだけ心にダメージを喰らったことか、想像するまでもねぇ。その心境を思えば胸が軋む。
大河原の親父の行動を把握出来てなかった俺の落ち度でもある。
だが、その一方で別の感情にも蝕まれる。
連日の報道のせいで普通じゃない精神状態だったにしてもだ。
俺を信じるどころか耳も傾けず、あのクソ親父のみを信じた、やるせなさ。それは結構堪えるもんがあった。
同時に全てが腑に落ちた。
道理で今まで何を言っても反応が薄いはずだ。
可能な限り時間を割いて寄り添ってきたが、そんなもん意味がなかった。つくしは俺に不信を抱き、俺の話なんざ最初から遮断していたんだろうから。
写真は真実なのかと、追求すらせずに……。
結局、俺の気持ちはまるで無視で下された一方的な決断は、たった一枚の写真を根拠に俺を切り捨てたも同じだ。
何をやってもつくしには届かねぇ。そんな空虚さに見舞われる。
もう縁を切っちまうか。
どんなにつくしを想っても、俺をあっさり捨てるのは昔からだ。
どうせ何をやっても報われねぇんなら、手放す方が面倒もなくていい。その方がいいよな?
自分に問い掛けた答えは、
「いいわけねぇっ!」
速攻で出た。一人ツッコミ状態だ。
自分への問いかけは想像するだに恐ろしく、独り身を仮想しただけで一瞬にして地獄を見た。
あいつが居ない世界なんて、俺に取っちゃホラーでしかねぇ。
どんなに面倒だろうが厄介だろうが、苦労を背負ってでも手放せねぇ唯一の女。
へこまされた後の向かう先は、開き直りの仕切り直しだ。
先ず自分はどう動くべきか。精神の安定を図るために深い呼吸を繰り返す。
徐々にクリアになってきた頭を働かせ、決断する。
頑なになったつくしを説き伏せるのは容易じゃねぇ。ならば勝手に動くまで。
スマホを取り出しタップする。
呼出音を6回数えたところで相手が出た。
「三条か、俺だ! つくしのスケジュール教えろ!」
『いきなりどうしたんです? 先輩、道明寺さんのところに行ってるんじゃないんですか? さっきスタッフから、そう報告受けたばかりなんですけど』
どうやらつくしは、事前に三条には知らせず此処に来たようだ。だから別のスタッフを従えてきたのか。
離婚話を切り出す場には、三条を連れて来たくはなかったんだろう。
いずれバレるにせよ、少しでも心配かけたくなくて。如何にもつくしが考えそうなことだ。
「つくしならもう帰った。離婚届を置いてな」
『えっ?』
「つーわけだから、早いとこつくしに会えるようにしろ。12月の今時期は、パーティーの招待も多いだろ。そこでいい」
『パーティー会場でいいんですか?』
「ああ。どうせ話し合いの場を作ったところで席にすら着かねぇよ、今のつくしは。パーティーで充分だ、乗り込んでやる。あいつに離婚はしねぇって宣戦布告するだけだからよ。それとな、三条。俺は動くからな」
揺るぎない決断を口にする。
「大河原の親父に結婚の事実を打ち明ける。もう待たねぇし、どこにも配慮なんかしねぇ」
三条が息を飲む気配を感じる。
『大河原家には、いつ打ち明けるつもりですか?』
「つくしに会って宣言したら、翌日か翌々日には実行に移してやる」
『もし、話がこじれたら?』
「決まってんだろ。大河原に未来はねぇ。地獄をみせてやるよ。俺を怒らせたことを精々後悔すればいい」
自然と酷薄な笑みが漏れる。
『…………ゴジラ化寸前』
「あん? 何か言ったか?」
『いえ、何も。道明寺さん、少し時間を下さい。どのパーティーが良いか、こちらでも検討したいので。明日には連絡しますから』
「分かった、頼む」
電話を切った後も一人で不敵に嗤う。
覚悟しとけよ、クソ親父。
それからつくし、おまえもだ。
散々、我慢に我慢を重ね大人しくしてきた分だけ反動は大きい。
こうなったら、とことん暴れてやる。
血が騒ぎ覚醒した気分だった。

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