Secret 43
まさか、つくしが来るとは思わなかった。
もしかして、倒れた俺を心配して駆けつけてきてくれたのか? そうであってくれたらどれだけ嬉しいか。
でも、そんなことあるはずなかった。
たまたま仕事でNYへ来たついでに立ち寄っただけ。
実際、10分とこの場につくしはいなかった。
俺が逆の立場なら、何を擲ってでも、つくしのの傍に居てやりてぇって思う。
この違いは、つくしと俺との思いに温度差があるせいか、と疑わずにはいられねぇ。
一度は、確かに俺だけに向けられていたつくしの想い。今はまた、昔のように類へと向かいつつあるんじゃねぇかと、後ろ向きな思考に絡め取られる。
つくしがこの部屋に居たのは夢だと錯覚するほど、短くて、寂しい夫婦の会話。
最後に見せたあの笑顔だけが、やけにリアルに感じられた。
「司、食事は済んだ? あーっ、やっぱり食べてない! ちゃんと食べないと駄目だよ!」
「いらねぇ」
つくしが居なくなって暫くすると部屋に戻って来た滋は、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
滋は、俺が倒れた昨日から付きっきりで傍にいたらしい。
使用人たちは、自分たちに任せて帰るよう促したようだが、相手は秘書以前に大河原の一人娘だ。強気には出られなかったのも仕方ねぇ。
男の秘書が同行してたらまた違ったろうが、生憎と急なNY出張だっただけに準備が間に合わず、日本で留守を守ってる。それも手痛い。
意識が戻った俺が帰るよう指示しても、『心配だからいる』の一点張り。
疲れた心を引きずったまま体調を崩した俺の体力は、消耗も激しく押し問答にも力尽きて、粘った滋は結局こうして今もいる。
何で俺の傍にいるのが滋なんだ。
つくしじゃなく、どうして滋が……。
つくしより、滋の方が俺を思ってくれているからか?
そこまで考えて、くだらねぇ、と思い直す。
比較したところで何の意味も持たねぇことだ。くだらねぇ考えは直ぐに蹴散らした。
「司、メロンなら少しは食べれるんじゃない? ほら、滋ちゃんが食べさせてあげるから、あーんして?」
「止めろ」
フォークで突き刺したメロンを差し出す滋の腕を振り払う。
「だったら、ちゃんと食べて。少しでも良いから口にして?」
心配そうに顔を覗き込む滋のしつこさに負け、滋からフォークを奪うと一口、口へと運んだ。
その様子を嬉しそうに見つめながら、滋がニコニコと笑う。
「食いづれぇからジロジロ見んな。つーか、もういいから帰れ」
「だって嬉しくてさ~。やっと食べてくれたから。もっとしっかり食べてくれたら帰るよ」
こんなやり取りも何度めか。その度に体力が消費されてくようだった。
こっちは怒鳴る力も残っちゃなく、笑みを引っ込めねぇ滋に無言で対抗していた時。
「司ッ!」
聞き覚えのある声が、耳を劈く勢いで飛び込んで来た。
「あ……、」
威勢良く入って部屋に来たくせに、数歩で足が止まり言葉を詰まらせたのは、姉ちゃんだった。
「姉ちゃん、何だよわざわざ来ることねぇのに」
「あんた大丈夫なの?」
「何とか喋れるくれぇにはな」
人の体調を気にかけてくる割には、訊ねる声はヤケに低い。
表情も心配顔というよりは、何故か険しさを滲ませている。
長いこと弟をやっていると嫌でも分かる。こんな顔つきの時は、大抵、殴られる一歩手前だ。
だが、怒らせる心当たりなど何もなければ、ぶっ倒れた俺が、どうしてこんな物騒な顔を向けられなきゃなんねぇのか、さっぱり分からなかった。
「大丈夫なら話があるの。滋ちゃん、申し訳ないけど席を外してもらえるかしら?」
「あ、はい」
立ち上がる滋に声を掛ける。
「滋、ついでにこれ下げてくれ」
食えそうもない食事を見てるだけで胸がムカムカする。
だから、下げるよう頼んだけなのに、
「いいのよ、滋ちゃん。後で使用人に頼むから。そんなことより司、話が先よ」
姉ちゃんの気配は益々尖った。
「では、失礼します」
姉ちゃんの迫力に負けたのか、滋は大人しく出て行った。
「来るなりなに怖ぇ顔してんだよ」
「バカな弟の顔見たらムカついたのよ!」
やっぱり機嫌が悪いらしい。それも最高潮に。
だが、頼んでもねぇのに勝手に来たのは、そっちだ。
「だったら、わざやざ来なきゃいいだろうが」
「誰があんたに会いに来たって言ったのよ。私はね、もしかして、つくしちゃんが居るんじゃないかと思って来たのよ!」
なるほどな、そういうことか。と納得する。
連絡入れたのは姉ちゃんだって、つくしも言ってた。
会えると思って期待したんだろ。それが叶わなかったからって、病人に八つ当たりするとは、勝手もいいとこだ。
「残念だったな。つくしなら、もう仕事に行ったぜ」
「えっ? やっぱりつくしちゃん此処に来たの?」
「あぁ、たまたまNYで仕事あって寄ったみてぇだな。旦那が倒れたっつうのに、さっさと仕事に戻ったけどな」
言い終わった途端だった。ヒュっと風を斬る音がするなり、俺の左頬に強烈なパンチが入る。
「痛ぇっ! いきなり何しやがる!」
仮にも病人相手に、一切手加減なしの一撃。
「あんたが大バカだからよ!」
「訳分かんねぇこと言うなっ! 一体、俺が何したっつうんだよ!」
「知りたいなら教えてあげるわ! あんたなんか訊いてまた倒れちゃえば良いのよ!」
睨みが増し、凄ぇ剣幕で言われてもまるで分からねぇ。
「いい? 良く訊きなさいよ。つくしちゃんはNYで仕事なんて入ってない。本来なら、日本であきらのとこの仕事をする筈だったのよ。
あんたが倒れて、つくしちゃんに知らせようとしたけど、撮影中かもしれないから、先ずは事務所にスケジュールを確認したの。そしたら、あきらのとこの仕事だって言うから、あきらに電話したのよ。桜子ちゃんの携帯番号知らなかったし、あきらに頼めばいいって! 多分つくしちゃんは、その会話を耳にしてしまったのね。
ごめんなさいって、置き手紙だけを残して、仕事を放り投げて姿を消した! どう? その馬鹿な頭でも理解した?」
「……嘘、だろ?」
頬の痛みなどどこかに消え、言葉を失くす。
そんな……。
だって、あいつは仕事に行くって……。
それに、どんなことがあっても仕事は休めねぇって、そう言ってたんだぞ。
何より仕事が大事なはずだろ?
────俺から気持ちが離れたんじゃなかったのか?
心拍数は跳ね上がり、血の気が一気に引く。
「こんなこと嘘ついて何になるのよ。全部本当よ。そこまでして、つくしちゃんはあんたに会いに来たの! つくしちゃんが背負ったリスクは大きいって、あんたにも分かるわよね?」
類との件でマスコミだって付き纏ってるはずだ。
そんな中、仕事を投げ出して来たら一体どうなるか。
「幸い仕事先の相手があきらだったから大事にはしないだろうけど、一部のマスコミは、つくしちゃんが失踪したって騒いでる気配もある。報道規制はかけてあるけど、ゴシップ記事専門のようなところだったら、完全に防げるかどうか……」
眉を寄せた姉ちゃんの目に不安が宿る。
だったら何故だ。
そこまでして来たんなら、何故俺の傍に居ねぇんだよ!
「だったら、どうして……、」
つくしは帰ったんだ、と続けてぇのに、動揺が先走り思いが声に上手く乗らねぇ。
「ねぇ、司。つくしちゃんが来た時も、あんたの傍には滋ちゃんが居たの?」
確かに滋は居た。
食欲がねぇと食事を拒否してんのに、強引に滋が飯を運んで来て直ぐのことだった。
その中に、滋が自分で作ったと言う見た目からしてヤバそうなスープも置かれ、無視する俺の脇で味見した滋が、『不味い』って顔を顰めたところで、呆れて失笑を漏らし……。そこまで記憶を巻き戻し、ハッとする。
つくしが現れたのは、その時だ。
まさか、それを見てつくしは……。
「司。私でさえ、あんたと滋ちゃんが一緒に居るとこ見て一瞬躊躇ったわよ。つくしちゃんには、あなた達がどう映ったかしらね。どうして、司の傍に居ないで帰って行ったのかしら」
こっちに来る前から、つくしには冷てぇ態度を取り、一方の滋には、どんな質のものであれ笑みを向けていたのをつくしが目の当たりにすれば、どう思うか。
────考えるまでもねぇ。
俺は、ベッドから飛び下り駆け出した。
部屋の扉を勢い良く開けると、丁度コーヒーを持ってきた滋が入り口を塞ぐ形で立ち、一旦止まるしかなかった俺の腕を、すかさず姉ちゃんが掴んでくる。
「何処行く気よ!」
「決まってんだろ、つくしの所だ! 今ならまだ間に合うかもしんねぇだろうがっ!」
「馬鹿なことは止めなさい! あの子はね、色んなものを覚悟の上で此処に来たはずよ。今、あんたが感情に任せて下手に動いたら、マスコミに狙われてるつくしちゃんの負担は益々増える。帰国するなら明日以降、時間を空けて戻りなさい。それまでに、その頭を冷やすことね!」
尤もだった。
正しく突きつけられた正論に返す言葉がねぇ。
俺が追いかけたところで、滋のことも類とのことも何も動きがない今は、余計に話を複雑にするだけだった。
「くそっ!」
何でつくしを引き止めなかったんだ。つくしに辛く当たって、つくしの気持ちも考えねぇで。
「司、何かあったの?」
扉の前で声を掛けてくる滋を、俺の腕から手を退かした姉ちゃんが制した。
「滋ちゃん、コーヒーを持って来てくれたのね。どうもありがとう。でも、此処は職場じゃないわ。プライベートで司の世話をするのは、本来ならつくしちゃんの仕事なの。つくしちゃんが出来ないのなら、私や使用人がするから、心配しなくても大丈夫よ。いくら司と友人だとは言え、女性である滋ちゃんに私の妹の仕事を任せる訳にはいかないの。散々、面倒見てもらったのにごめんなさいね。理解してくれると嬉しいわ」
滋の顔が瞬時に引きつる。
「……分かりました。では、私は帰ります」
お辞儀をしてから持ち上げた顔は、傷付いている様がはっきりと見て取れる。
「悪かったな」
それだけ言うと、滋より先に背を向け、目眩に襲われる体を引きずりながら部屋の中へと引き返した。
「辛いけど、分からせないといけないことよ」
滋が居なくなり、力を失くした身体をベッドに落とすと、姉ちゃんは静かに言った。
「本当なら、あんたがこの部屋に断固として入れるべきじゃなかった。司が滋ちゃんの扱いに配慮してるのは分かるけど、確実な一線は引くべきなのよ。でも、それが出来ないのなら、憎まれ口を叩くことくらい、私が買って出るわ」
気は強いが根は優しいって、弟の俺が良く知っている。
「嫌な役やらせちまって悪かった」
いつでもつくしの味方でいてくれる最高の理解者に感謝しながら、項垂れるように頭を下げた。
それから俺は、最短で日本に帰国できるよう動き、こっちでの仕事をババァに代わって貰うよう、姉ちゃんに引き続き目一杯に頭を下げ頼み込む。
経緯は、ババァもとっくに知ってたらしい。
「つくしさんが築きあげたものへの邪魔しか出来ないのなら、いっそ解放して差し上げたら?」
白い目で見られ嫌味を言われても、返す言葉は持たない。
ひたすら体を折り畳み、頼み込むしかねぇ。
漸く納得して貰うまでに漕ぎ着け、後は翌日の出発を待つだけだった。
しかし、まんじりともせず迎えた朝、三条からの電話が入り、齎された情報に顔が青ざめる。
「三条か! つくしはどうしてる? 無事に着いたか?」
『やっぱり帰国したんですね?』
「なっ、まさか帰ってねぇのかよ!」
全身に戦慄が走る。
心配で心は荒れ狂い、スマホを持つ手は震えが止まらねぇ。
『念の為に羽田にも成田にもスタッフを張り付かせていたんですけど、飛行機に乗ったのか、乗ってないのかも分からなくて。もしかして空港で見逃しているのかもしれませんけど、連絡が全く取れないんです。私も部屋で待っているんですが、マンションにも戻ってきてないようですし。
道明寺さん、すみませんが先輩の搭乗記録を調べて貰えませんか?』
「分かった。直ぐに調べて折り返す」
逸る気持ちで指示を出し調べさせた結果、つくしは、此処を出て一番早い時間の飛行機に乗っていた。
羽田に、4時間前には着いているはずだ。
何度つくしのスマホを鳴らしてみても、電源が落とされ繋がらねぇ。
報告の電話を入れた三条にも、やはりまだ連絡はないらしく、
『帰国してると分かれば、大丈夫です。心当たりに探りを入れますから』
遠い距離に阻まれた今は、三条に頼るしかなかった。
デスクの上に肘を付き、組み合わせた両手の上に額を乗せる。
何処に行っちまったんだよ。
せめて声だけでも聞かせてくれ。
俺が嫌なら三条でもいい。無事だと伝えてくれ、頼むから。
あれは、さよならの代わりだったのか。最後に見せたつくしの笑顔を瞼に浮かべながら、つくしを失うかもしれない恐怖に堪え、ただ無事を祈るしか術はなかった。

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