Secret 42
『司が倒れた』
突然に入って来た言葉を耳が捉えたとき、頭から爪先まで硬直し、心臓が止まるかと思った。
血の気が引き、ガタガタと身体も震えそうになる。
風邪を引いた程度の話なら、今までも聞いたことはある。
しかし、それだって滅多にはなく、高校生の頃、閉じ込められたエレベーターで熱を出したことを除けば、あとは遠恋中の話だ。
それも、大抵は復調してからの事後報告で、電話で知った時には、受話器の向こうから届けられる声は至って元気だった。
それが、心配させないための気遣いだったとしても、司の弱った姿をダイレクトに知る機会はなかった。
実際、体力も恐ろしいほどあるし、病とは縁遠いとも感じていた。そんな司が倒れるだなんて……。
例外中の例外は一つだけ。
かつて港で刺され、生死を彷徨ったあの時のみだ。
脳裏には、その時の司の青白い顔が浮かび、同時に、あの当時に味わった、司を失うかもしれない恐怖をも呼び起こした。
────このままではいられない。
まともな会話も交わさぬまま離れてしまった司の傍に、一刻でも早く駆けつけなければ。
心配のない程度のものであったとしても、この目で確かめないことには安心なんて出来ない。
例え、何を犠牲にしようとも……。
それからの行動は早かった。
スタッフの目を盗んで、急いで撮影所から脱出した。
暫くすると、何度も入る桜子からの着信。
その全てを無視し、ごめん、今回だけは許して! と心の中で繰り返す。
マスコミの目を掻い潜って一旦マンションへと戻り、桜子たちに追いつかれぬ内に、大急ぎで最低限の用意だけをしてNYへと飛んだ。
✢
この屋敷に来るのは、結婚するにあたって挨拶に訪れた以来だ。
突然の訪問に誰しもが驚いたようだったけど、司の妻と認めてくれているのか、屋敷で働く方々ににこやかに迎え入れられた。
「若奥様、お荷物を」
言われ慣れていない呼び名に戸惑いながら、首を振る。
「ありがとう、でも大丈夫です。それより司は何処ですか?」
「二階の東の角部屋で休んでおられます」
もう一度お礼を言うと、
「一人で行けますから」
無駄に広い屋敷の中を駆け出し、司の元へと急ぐ。
寝てるかもしれないし、何よりも一分一秒も時間を掛けたくなかった私は、部屋に辿り着くなりノックもせずに中へと飛び込んだ。
「司っ!」
呼吸も整えず飛び込んだ私は、瞬時に足を止めた。
目の前には、ベッドに起き上がり微笑する司。
その笑顔は、私に向けられたものではない。微笑む先には、滋さんがいた。
────面白くもないのに笑えない。そう言った司の笑う顔が、ここにある。
「つくしっ!」
驚きに声を上げ、ベッド脇の椅子から立ち上がったのは滋さんだ。
食事を司に食べさせていたのだろうか。手には、料理を乗せたトレーを持っていた。
滋さん同様、私の突然の訪問に、司も目を瞠っている。
「何だ、思ったより元気そうだね」
何も言わない司に、敢えて明るい調子の声を出す。
頭の中では、滋さんに見せたさっきまでの司の笑顔と、かつて記憶を失くした司が、別の女性を傍に置いた過去とがリンクしていた。
あの時と同じ。まるで私が入り込む余地ないと思わせる光景に胸が抉られる。
「昨日は顔色も悪くてずっと寝込んでたんだけどね、今日になって起きれるようになったの」
「そうだったの」
妻の私に夫の状態を教えてくれるのは、滋さんだった。
妻である私は、何も知らない。
「滋さん、ありがとう。迷惑掛けて、すみません」
「別に何の問題もないよ。つくしだって忙しいんだし、私もお手伝いさんも居るんだから、つくしは仕事に専念して大丈夫だよ。司のことは心配しないで」
実際、司の周りには面倒を見てくれる人が沢山いる。それは分かっている。
ただ、それで安心できるかどうかは、また別の話だ。私が心配しないで済む理由にはならない。
だからこうして此処に来た。来て良かった。司の顔を見て、そう思えた。
私は、ちゃんと上手く笑えているだろうか。
私の存在など必要ないと否定されたも同じだけど、それでも笑顔は保っていたかった。────せめて今だけは。
「滋、席外せ」
今まで黙っていた司が滋さんに声を掛ける。
トレーをサイドテーブルに置いた滋さんは、
「つくし。食事食べさせてあげてね。食欲ないみたいだから」
私の横を通り過ぎる時、そう言葉を残し部屋を出て行った。
やっぱり滋さんが食べさせていたんだ。
「どうした、こんなとこまで」
やっと私に向けられた言葉。
なのにその目は私を見ようとはしない。
「……あの……、急遽、仕事が入って、さっきNYに着いたの。そしたら丁度、お姉さんから連絡あって、司が倒れたって聞いたから」
「そうか」
「でも、良かった。司が倒れたなんて想像もしてなかったから驚いたけど、思ったより元気そうで安心した」
「周りが大騒ぎし過ぎただけだ」
何か言わなきゃ、と嘘で固めた話の先を探し、でも直ぐに、着信音で思考が邪魔される。
誰からの電話かは見なくても分かる。
「出ろよ。仕事の電話だろ」
相手は間違いなく事務所か桜子だ。
きっと心配掛けている。それだけじゃない、おそらく迷惑も。
嘘を言って聞かせた司の前で話をする訳にはいかず、私は出もせずに電話を切った。
「いいのか、出なくて」
「いいの。どうせ早く戻って来いっ──」
答える傍からまたスマホが鳴り、会話が続かない。
「いい加減出ろよ」
電源を落としておけば良かった。
これ以上は怪しまれると思い、司のベッドから離れ、漏れ聞こえないよう窓辺まで移動してから画面をスワイプする。
「先輩! 無事なんですね? NYですよね? 道明寺さんのところへ行ってるんですよね?」
桜子には珍しく、受話器越しの声からは、多分に含まれた焦りが伝わってくる。
責めもせずに私の身を案じてくれる桜子に申し訳なく思いながらも、
「うん。もうすぐ戻るから、心配しないで。じゃあね」
司に悟られないうちに一方的に電話を切り、今度こそ電源も落とした。
「もう行くのか」
真正面を見据えたままの司は、私を捉えようともせず静かに言う。
「うん。仕事だから、行かなきゃ」
「旦那が倒れても仕事優先なんだな」
司の笑顔を見てから覚悟は出来ていた。と言うより、もう私が幕を下ろそうと、自然とそう思えた。
司に対する思いは何も変わらないけど、久しぶりに司の笑顔が見れたから。
大好きだったはずの司の笑顔は、私ではもう作れないと感じたから。
司を支えているのは、滋さんの父親が言う通り私じゃない。滋さんだ。
私はもう必要ない。
「仕事は休めないよ。どんなことがあっても。じゃあ、私はもう行くね。ご飯くらい自分で食べてよね」
涙が零れ落ちないうちに、この場を立ち去ろう。
渦巻く感情に身を委ねるのは、この場を離れてからでも遅くはない。
頑張って笑顔を見せるから、せめて忘れないで欲しい。
司の視界に入り込むように、司の正面に回り込む。
「あんまり無理しちゃダメだよ。じゃあね」
きっと大丈夫。上手く笑えてる。
これが最後だからと必死に笑顔を作る。
昔から好きだと言ってくれた、とびきりの笑顔を残して、私は司に背を向けた。
✢
「つくし、もう行くの?」
エントランスへと向かうつくしを追い、声を掛ける。
「うん、仕事があるから。…………滋さん、司のことお願いします」
「さっきも言ったでしょ。心配要らないって」
「そうだね」と、言ったつくしは、口元に静かな笑みを湛えていて、何を考えているのか分からなかった。
私に酷いことを言われているのに、何故反論しないの?
何を考えてるの?
そんなつくしを注意深く見ていると、
「久しぶりに見た、司の笑った顔。きっと思えるよ。滋さんで良かったって、きっと思える。じゃあ、行くね」
それだけ言うと、手にしていた帽子を深々と被り、振り返ることなく歩いていく。
『つくし!』そう呼び止めようと手を伸ばし、けれど、結局は声は出さずに手も下ろした。
私は、つくしを呼び止めて一体何を言おうとしたのだろうか。
つくしが帰ってくれてホッとする反面、遠ざかって行く小さな背中が、私の胸を苦しくさせる。
その苦しさから逃れるように自分に言い聞かせる。自分で決めた道だ。後悔なんてしない、と。
思考からつくしの影を払い出すように頭を振り、弱っている司に寄り添うのは私なんだと、東の部屋へと踵を返した。

にほんブログ村