Secret 39
「つくし、行くな」
「え?」
朝早くから出かける準備をしている時だった。
思いもよらぬことを言われ、司を凝視してしまう。
「俺も仕事休むから、お前も行くな」
「無理だよ。今日からパリなんだよ? 撮影に穴をあける訳にはいかない」
「ちゃんと話しよう。俺達の今後のこと。仕事より夫婦の話の方が大事だろ?……全部話す。何もかも」
ズキン、と痛みが走った胸にさざ波が立つ。
今後って何?
それは、私達の結婚生活に終わりを告げるってこと?
やっと決断が付いたって言うの?
だから、今頃になって滋さんとのことを打ち明ける気になったの?
全部話すって、そういうことでしょ?
昨夜、あんな態度を取って置きながら、身勝手にもまだ心の準備が出来ていない。
こんなんで覚悟を決めたつもりでいたなんて情けないにも程があるけど、司から別れを告げられたら、今の私は心が持ち堪えられそうになかった。
「どんなことがあっても仕事は休めない」
「俺達のことより仕事が大事か?」
「大事よ、仕事は」
大事だ。別れ話を聞くより仕事に逃げる事で、蜘蛛の糸ほどでも、まだ司との繋がりが維持出来るのなら。
「…………そうかよ」
司はもう何も言わなかった。
お願いだから、このまま何も言わないで、とひたすら心で願う。
出掛けるまでの間に簡単に別れを切り出されてしまったら……。
そう思うと、怖くて怖くて仕方なかった。
内心、怯えながら身支度を整えた私は、「急ぐから、行くね」と、桜子もまだ迎えに来ていない有り得ない状況にも構わず、飛び出すように部屋を後にした。
✢
行かせたくなかった。
こんな時に、パリになんて、ぜってぇ行かせたくなかった。
昨夜、僅かに身体を震わせながら義務のように俺に抱かれたつくし。
どんなに身体が繋がっていようとも、心はどんどん俺から離れていくようで、そんな状態でパリに行って類に会っちまったら……。
嫌でも最悪な想像しか浮かばねぇ。
もう限界だった。
つくしだけじゃなく、つくしを救ってやれない俺自身も。
こんな状況になっちまった以上、詳らかに話した方がいい。
大河原を叩くことも含め、全てつくしに話した上で俺は動くつもりでいた。
例えリスクを背負っても、最悪、経済界にも影響を及ぼすとしても、大河原を抑えるしか、もう道はねぇ。
つくしに言えば、滋のことを案じ自ら身を引くとか馬鹿なことを言い出すかもしんねぇけど、類に奪われるよりマシだ。
突き進むしかねぇ。誰を巻き添えにしようとも。
そう決断した時、携帯が鳴った。三条からだった。
「どうした」
「どうしたじゃありませんよ、道明寺さん。何があったんです? こんな早くから、先輩家に来てますけど」
「俺と一緒にいたくねぇんだろ」
「そんな……」
「何もかも全て話そうとしたのに逃げやがった。仕事なんか行かねぇで、きっちり話そうとしたんだけどな」
「仕事を休んで!? そんな無茶苦茶な!
先輩もパリに行けば、少しは落ち着くかもしれません。こんな騒がれてる日本にいるよりはマシでしょうし。
帰国してから、ゆっくり話し合って下さい。時間なら調整しますから」
「あぁ。三条、向こうでも絶対目を離さないでくれ。頼む」
「分かってます。安心して下さい。じゃあ、五日後には戻りますから」
「あぁ、気をつけて行ってこいよ」
「はい、行ってきます」
電話を切り、重い息を吐き出す。
…………つくし。
全部話すから、俺の所へ帰って来てくれ。
全てを知ってお前が逃げようとも、絶対捕まえてやる。
絶対、お前を一人になんかさせねぇ。
だから、
「お前も俺を一人にするんじゃねぇよ」
誰にも届くことのない気弱な声は、やけに広く感じるリビングに虚しく響いた。
✢
怒涛の日々だった。
滞在期間が決まっている以上、必然的に朝から晩まで撮影は続く。
それでもどうにか駆け抜け無事に撮影を終え、今日はパリで過ごす最終日。
先輩は、文句一つ言わずにやり通したけれど、精神的に普通ではない時に黙って仕事をこなす姿は、傍で見ていても辛いものがあった。
昔なら、観光! 観光! と騒いで、心から楽しそうに写真を撮っていただろう先輩が想像出来る。
今では、要求されるままに楽しい雰囲気を醸し出し、カメラに納まる先輩自体が被写体だ。
マネージャーとしてはおかしいけれど、少しでも我儘でも言ってくれたら、と思わずにはいられない。
この人の事だから、例え何か要求したいことがあっても、一緒になって動いてる私を気遣って、きっと何も言いはしないのだろうけど。
せめてもの救いは、こっちに花沢さんがいることだ。近くにいると思うだけで、心の拠り所になる。
私でさえそうなのだから、先輩なら尚更に違いなかった。
その花沢さんとは、漸くこのあと会うことが出来る。
少しでも気晴らしになってくれれば、そう願いながら先輩を見た。
「ねぇ、先輩。花沢さんが何かお土産で欲しいものはないかって言ってましたよ?」
「これから会うのに、わざわざお土産? 気を遣わなくていいのにね」
花沢さんの話題を出した途端。狙いを定めたように私のスマホが音を奏でる。
「噂をすれば花沢さんです。お土産、何がいいか聞き出しておいてって頼まれてたんですけど、返事が遅いから待ちきれなくなっちゃったんですよ、きっと」
呆れ笑いで先輩に話してから、電話を耳に当てた。
「もしもし、お疲れ様です。…………えぇ、もう終わってホテルにいますよ……花沢さんから聞いてもらえます? 今、先輩に代わりますね。……先輩、花沢さんです」
携帯を先輩に手渡す。
「類? うん、うん、そうなんだけどね。じゃあ、ラデュレのマカロンが良いかな。…………そうなの? そこまで言うなら、クロワッサンもお願いしちゃおうかな。…………うん、ありがとう。じゃあ、また後でね」
桜子ありがとう、と話し終えた先輩から携帯を受け取る。
先輩の食欲が落ちている、と花沢さんに事前報告をしておいたせいか、お土産は少しでもつまめるものをと思ったのだろう。上手く先輩を誘導したらしい。
きっと、それだけじゃない。直接会えば、先輩の奥底に潜む気持ちも引き出してくれるかもしれない、花沢さんなら。そう期待した。
それから1時間程して、私達のホテルまで迎えに来てくれた花沢さんと、パリでの最後の夜を共にした。
私たちが宿泊するホテルとは離れたところにある、花沢さんがリザーブしてくれたオーベルジュには、私達三人の他に、何かあった時のためにと、うちのスタッフも数人同行し、離れた席で食事をしながら待機している。
和やかに始まった食事は、流石は花沢さんが案内してくれたお店だけあって、何もかもが美味しく、食欲が落ち気味だった先輩も、いつもより多くを口に運んでいる。
他愛のない話を交わし、穏やかに時間は流れてメインの食事も終わると、タイミングを図っていただろう花沢さんが、遂に核心に触れ静かに話し始めた。
「報道に振り回されてる?」
今まで、それについて話さなかった花沢さんの唐突な質問に、先輩は僅かに目を見開いた。
けれど逃げ場はなく、ボソボソと先輩は話しだした。
「振り回されるって言うか………でも、正直疲れた、かな」
「司は牧野だけだよ。何も心配しなくていい」
反応を示さない先輩の表情は硬い。
「司のこと信じられない?」
「好きだけじゃ、どうにもならないこともあると思うの。信じたくても、どうしようも出来ないこともあるし」
「なんでそう思う? 報道だけでそこまで思いつめたりはしないよね? もしかして牧野、誰かに何か言われた?」
ビクッ、と肩が跳ねた先輩は、視線を泳がせた。
先輩に意図的に何かを言ってくるとしたら、それは誰か。間違いなくその筆頭は、滋さんの父親だ。
確証はないけれど、以前にも滋さんの父親は先輩に接触した可能性がある。
しかし、その時の接触が今の先輩に影響を及ぼしているとは思えなかった。
今までも無理と我慢は重ねてきただろうけど、先輩がこんなにも余裕のなさを露呈しはじめたのは、ごく最近だ。
だとしたら、再び接触してきたと考えるべきか。
花沢さんも、私と同じ可能性を疑ったのか、ストレートに先輩に訊ねる。
「牧野、誰に会った?」
「…………」
花沢さんは、口を噤み俯いている先輩に気付かれぬよう、私に視線で確認をしてくる。
『何か知ってる?』と目で語る花沢さんに、私は素早く首を左右に振った。
「牧野、全部話して」
「話したくない」
先輩が顔を上げる。
花沢さんをじっと見つめた先輩は、キッパリと拒絶すると、二人の真剣な眼差しがぶつかり合った。二人の根比べだ。
どちらも譲らず無言が続く中、可能性を頭で巡らす。
もし、先輩が誰かと接触していたとしたら、それはいつだ。
考えられるとしたら、あの日しかない。
何も告げずに黙って飲みに行った、あの日。
尚も視線を逸らさず我慢比べは続いたが、しかし、先に折れたのは花沢さんだった。
「くくくっ。俺の負け」
「ごめんさい、類。心配してくれてるのに」
「いいよ、言いたくないなら。その代わり司には話して。これが俺が引き下がる条件」
先輩は一度唇を噛み締め、そして覚悟したように重い口を開いた。
「話すのが怖いんだ。本当は、日本を立つ日に司に話しようって言われて、怖くて逃げ出してきたの。こんなに自分が弱いなんて思いもしなかった。今の私は、司と向き合う勇気が持てない。昔の自分とはまるで違う。
いつかこんな日が来るって覚悟もしていたはずなのに、本当は凄く怖くて、自分でもどうしていいのかもう分からない」
追い詰められた声だった。
「牧野、覚悟って何? 牧野の覚悟は多分間違ってるよ。ちゃんと司に全てを話してごらん。アイツはバカだけど、お前の為ならなんだってする。それだけが司の取り柄みたいなもんでしょ。
それに、弱くなるのも仕方ないよ。子供だった昔とは違って、女性としての喜びも幸せも手に入れたんだ。面白くもない話が蔓延れば臆病にもなる。昔と違ったって、おかしな話じゃない」
「類」
「牧野の弱い一面も、女としての一面も、全て引き出したのが司だってのは、正直悔しいけどね。
でもね、惚れてる女に何も言って貰えないって、司もきっと悔しい思いしてると思うよ。俺には分かる。俺だって司と想いは同じだから」
「類……、ごめんなさい」
「それはもういい、聞き飽きたって。俺は、牧野が幸せならそれでいい」
ずっと堪えていただろう涙が、先輩の大きな瞳から次から次へと溢れ出し、頬に幾つもの筋を作る。
肩を震わせ、何度も愛しい人の声を口にしながら流す涙が痛々しい。
幸せの涙へと変わる日が早く来て欲しい。そう願いながら傍らで見ていた私に、事務所から電話が入る。業務連絡だろう。
少し離れた場所へと移動し、二人の様子を視界の先に置きながら、電話に出た。
通話を終え席に戻る頃には、泣いてすっきりしたのか、化粧が崩れながらも先輩の顔には笑顔が浮かんでいた。
「逃げないで、ちゃんと話してみる。類、ありがとう」
「先輩、その顔NGです。メイクが崩れてますから直しに行きましょう」
「うん」
踏ん切りのついた先輩と一緒に席を立とうとした時、ふと視線を感じさり気なく花沢さんを見れば、目配せをしている。
私は連絡する所があるからと理由をつけ、先輩を他のスタッフに預けて席に残った。
「今から話すことは誰にも言わないで」
フランスに来る前から考えていたらしい花沢さんの胸中は、こうして切り出された。
「──────そう言うわけだから、その時は極秘で一度帰国する」
花沢さんの話を聞き終え、「はい、分かりました」と、力強く頷く。
互いに連絡を取り合うことを約束し、先輩が戻って来る前に話を畳む。
事態が動くかもしれない、と小さな希望を見つける。
しかし、心が弾んだのも束の間。
この食事から数時間後。まさか、花沢さんの肩を借りて泣く先輩の姿が日本で報道されることになろうとは、この時は思いもしなかった。
しかも、写真ではなく映像として流れ出たそれは、花沢さんに対して複雑な感情を持つ道明寺さんの心を乱すには、十分過ぎるほどの効力があった。
計算外の出来事が、また新たに余計な時間を作り出す。

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