Secret 37
冴えない頭と顔と身体全てを浄化するように、温めのお湯にゆっくりと浸かる。
汗をかくこと以外、特別することのない入浴時間は、嫌でも昨夜のことを想起させた。
まるで帰宅するのを見張っていたかのようなタイミングで、玄関に入るなり見知らぬ番号から掛ってきた一本の電話。
『話がある』。常識外れな第一声から始まった相手は、続けて名乗った。大河原だと。滋さんの父親だった。
昨夜、私は滋さんのお父さんに呼び出され会っていた。
マンションの外へ出て来るよう言われ、その指示に従うと、待っていたのは一台の高級車。
乗るよう促され、止まったままの車の中で話は唐突に切り出された。
まるで、私の気持ちを揺さぶるように。
『私があなたを呼び出した理由はお分かりかな?
単刀直入に言おう。司君と別れて頂きたい。理由は、彼は滋と結婚が既に決まっているからだ。
なに、あなたが悪いわけではない。ただ滋の方がもっと司君に相応しい。そういうことだ』
『随分と非常識なお話ですね。事実がどうであれ、大河原さんとお話しすることは何もありません』
『あなたの為に言ってるんだよ。彼は既に決断している。その証拠に、滋とのことをマスコミがどんなに書き立てようとも、彼は止めようとはしないじゃないか。全ては事実だからだ。
あとは、あなたとの付き合いをどう清算しようかと悩んでいるだけだ。
司君が苦しむのを、あなたも傍で見るのは忍びないだろう。司君の事だ、君にも申し訳ないと思っているのだろうね。
だが、今のあなたは司君を支えていると言えるのかね? 忙しい身で、司君の事まで気が回らないんじゃないのかい?
今、司君を支えているのは他でもない滋だ。それも精神的だけではないようだ。世間では滋の妊娠も囁かれているようだが、それはない。ただ、いつそうなってもおかしくはない』
────精神的だけではない。
────いつそうなってもおかしくない。
繰り出された言葉が頭の中をぐるぐると回り、それらを証明するかのように差し出された一枚の写真。
私と司が約束していた翌日の日付が記されているその写真には、司と滋さんが、ホテルの一室から一緒に出てくるシーンが写っていた。
あの朝、前日と同じ服を着ていた滋さんを見かけた時からの疑惑は、確実な決定を突き付けられ、真実となった。
頭が真っ白になり『話すことはありません、失礼します』と、何とか口にし、車を降りようとする背後を追いかけて来たのは、
『あなたの今後の生活は保障しよう。だから、あなたから司君と別れてやって欲しい。私達も、出来れば穏便に済ませたいのでね」
どこまでも人を馬鹿にした言い草と、脅迫めいた科白だった。
そのどれもが私の神経を甚振るように刺激する。
生活の保障? ふざけないで、そんなもの要らない!
『あなたにそんなことして頂く理由はありません!』
跳ね付けるように叫ぶのが精一杯で、私は車から飛び出した。
混乱した状況のまま帰る気にはならず、喩え一時でも何もかもを忘れたくて、モデル仲間を誘い夜の街へと繰り出した、昨夜。
望み通りに一時の記憶は失ったけれど、心に棲みついた哀しみは、今になっても色褪せてはいない。
「つくしっ! つくし風呂か?」
司の声が聞こえるなり、乱暴に開けられたバスルームのドア。
「ちょ、ちょっと何?」
突然現れたことに驚き、昨夜の出来事を振り返っていた私は、体を隠すように慌てて口元近くまでお湯に浸かる。
「いや、風呂ならいいんだ。いないから心配しただけだ」
「ごめん、もう上がるから」
「おう」
心配そうな顔で窺う司から目を逸らした私は、結局は直ぐには上がらず、のぼせる寸前までお風呂から出ようとはしなかった。
長湯から上がりリビングへ行くと、新聞に目を落としていた司が視線を上げ、こっちへ座れと自分の横を叩いた。
渋々ながら、司の隣に腰を下ろす。
「何? もう朝食も作らないといけないんだけど」
「お前に辛い思いをさせて悪いって思ってる。ストレス発散も必要だ。でもな、だからって黙って行くな。心配すんだろ?」
「……ごめんなさい」
「次からは、ちゃんと連絡しろよ? それより、二日酔いは大丈夫か?」
「うん。お風呂に浸かったら少しはすっきりしたから」
「そうか」
司は、不意に腕を伸ばすと、私を引き寄せ腕の中に閉じ込めた。
鼓動が聞こえてくるこの胸は、いつだって温かくて安らげる筈だったのに、今はこんなにも苦しい。
そんな気持ちを抱いてしまう私の頬に優しく触れた司が、顔を上向きに持ち上げたとき、嫌だ、と咄嗟に心が拒絶した。
今はこれ以上、触れられたくない。
気持ちのままに司の胸を押しのけ立ち上がる。
「ごめん……、朝食作らないといけないから」
下手な言い訳で背を向ける。
でも、そうでもしなきゃ、涙が込みあげるのを抑えられそうになかった。
✢
「どうですか、先輩の様子は」
つくしが俺から逃げるようにキッチンに入ってから暫くすると、いつものように三条がやって来てた。
まだ、キッチンで朝食の準備をしているつくしに聞こえないよう、三条は声を潜めている。
「普通じゃねぇな」
「そうですか……。今は、仕方がないとはいえ、やり切れないですよね」
仕方ねぇなんて割り切れなかった。
あんな風に俺を拒絶したつくしが、どこか行っちまうようで、いよいよ俺自身にも余裕がなくなっているのを自覚する。
「桜子、今日は何が飲みたい?」
俺にコーヒーを持ってきたつくしが、いつもの様に三条に声を掛ける。
「ありがとうございます。では、私もコーヒーを頂いていいですか? それより先輩? 凄いですよ。ある調査で先輩が結婚したい女性No.1になったんですって。良い奥さんになりそうって声が多かったらしいですよ」
もうこれは反射だ。
面白くねぇ話題には、無意識のうちに眉間に皺が寄る。
「三条、何が凄いだ! 人の女を勝手に! つくしは俺の妻だっ!」
「……も知らな……くせにね」
蚊の鳴くようなつくしの声を拾い、荒らげた声を引っ込める。
あまりにも小さい声音は、何を言ったのか聞き取れねぇ。
「つくし、どうした?」
「何も知らないくせに、世間はいい加減なんだな、と思って。何を見て良い奥さんだなんて思うのかな。実際には、妻らしいことなんて何一つしてないのに。全然、良い奥さんじゃないじゃない! 本当笑っちゃう!」
皮肉めいた歪な笑みを口元に作ったつくしは、苛立ちを露にした。
「そんなことねぇよ。つくし、お前はお前らしくやってるだろ?」
「何を? 私らしく? 何も私はやってないじゃない…………っ」
そこまで言って言葉を止めたつくしは、今度は、取ってつけたように紡ぐ。
「あ……、桜子ごめん。今コーヒー持ってくるね」
つくしは小走りでキッチンへと行ってしまい、取り残された俺と三条。
まるで無意識に言ってしまったかのように我に返ったつくしは、自分の言動に自分自身が一番驚いている様だった。
「いっぱいいっぱいですね、先輩」
「あぁ」
つくしは俺といると辛いだけなのか?
苦しいだけなのか?
流石の俺も弱気になっちまう。
現状維持のまま、これ以上はつくしを救う手立てはないんじゃねぇか。
そう思う俺の脳裏には、無茶を承知で最後の手段が浮かんでいた。
その後、何とか自分を保とうとしている様子のつくしは、さっきの事はなかったように振る舞い、いつものように三条と世間話をしている。
普段と違うのは、俺とはあまり話をせず、目線も合わせようとはしなかったってことだ。
出掛け際、つくしに拒絶されるのが怖かった俺は、頭を撫でるに留め、キスもせずに家を出た。

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