Secret 32
ウォーターサーバーから冷たい水を一杯グラスに注ぎ、窓際へと行く。
「どうぞ、お水です」
「……ありがとう」
「いいえ」
差し出した水を勢い良く飲み干した滋さんは、窓辺に立ったまま動こうとはせず、目の焦点を窓の外に置いて徐に口を開いた。
「つくしが……、何か言ったの?」
「何のことです?」
敢えて惚けて躱す。
滋さんが何を指しているかは、勿論分かっている。
道明寺さんが、寝ている女性を運んだりするか否か。
それを道明寺さんに確かめた私が、滋さんに同意を求めたことで、言外に匂わせた意図を悟ったはずだ。
滋さんが先輩についた『嘘』を、私は知っている、と。
当然、滋さんは先輩から訊いたと思うだろうし、だからこそ私に投げた質問だ。
その嘘を直截には指摘しない。本人の口から語られるまでは。
けれど、逆に質問をした私に、返って来る言葉はなかった。
「私に聞かれてはまずい話でもあるんですか?」
「…………」
「何も言えないのが答えなのかもしれませんね」
普段、女らしさからかけ離れた所に自分をキープしている滋さんは何処にもなく、不安な影を落とした姿がそこにはあった。
「いけないこと? 欲しいものを欲しいと、口に出してはいけないこと? 手に入れようとすることがそんなにいけない?」
「私に何て言って欲しいんです? 何を言えば滋さんは救われますか?
きっと今の滋さんには、誰の声も届かないかもしれない。でもその答えは、滋さんの中にまだある、私はそう信じたい」
「そんな答え、私が持っていなかったら? 桜子にとっても大切なもの、私が壊そうとしたら?」
言ってる言葉とは裏腹に、滋さんの手は小刻みに震えている。
何かに怯えるように。いや、自分自身に怯えているからか。
「滋さん、質問ばかりですね。何を恐れているんですか? 突き進むのがそんなに怖いのなら、傷が深くなる前に引き返せば良い。それでも、私の大切なものを壊すと言うのなら、私はそれを守る。単純で当たり前の事です」
「私も、……私なら自分にとって大切なもの、本当の意味で守れると思ってる」
「そんなこと、神でもないのにどうして分かるんです? 大体、押し付けの優しさって、往々にして有り難迷惑になるんですよね」
辛辣に本音を語れば、流石にカチンときたのか、外に向けられていた視線が、剣を乗せて私に向かってくる。
でも、残念ながらそれは弱く見え、とてもじゃないけど迫力に欠ける。
「それと、私の言う大切なものは一つじゃありません。その中に滋さんも含まれている。……滋さんだって、一つじゃないと思いますけど?」
睨むように私を見ていた滋さんの眼差しが、驚きで丸くなる。
私の言葉に嘘はない。
何年も友達をやってきた私達の関係を、そう簡単に崩させたりやしない、と念を込める。
それきりどちらも黙したままで、静寂だけが横たわった。
沈黙にそろそろ退屈を覚えた頃、亀裂を入れたのは、意外な訪問者だった。
✢
「どうしたんですか?」
「忘れ物したから」
「…………はぁ、また遠まわしな言い方を。 滋さんなら中にいますよ、どうぞ」
一瞬考えただけで俺の行動の意味が分かったらしい。
大きな溜息は余計だけど、あの二人よりは話がスムーズだ。
「司や牧野と違って、回転速いね」
「比べる相手が悪すぎるんですが」
三条に案内され部屋に上がると、窓辺に立つ大河原が驚愕の顔で俺を見る。
でもそれは、ほんの数秒のことで、俺がソファーに座るのを見てから直ぐ、逃げるように視線を反らした。
「花沢さん、何か飲み物のリクエストあります?」
「抹茶飲みたい。牛乳入れて抹茶ミルクにして」
「ないですから! そういうものは西門さんにでも頼んで下さい!」
そんなに怖い顔しなくてもいいじゃない。
三条がリクエストを訊いたから答えたのに……、理不尽だ。
「総二郎に頼むと怒られるんだけど。じゃあ、飲めるものなら何でもいい」
「飲めるもの以外の何を出せって言うんですか! 飲めるものしか出しません!」
目を釣り上げた三条がその場を離れてから、決して俺を見ようとしない大河原に声をかける。
「座れば」
「帰ったんじゃなかったの」
「忘れてたからね、あんたと話すの」
「私となんて、今までだってまともに話した事ないじゃない」
別に世間話をしようとは思わない。
でも、牧野についてなら話はいくらでもある。
「聞きたかったんだよね。牧野を追い詰めてどんな気持ちなのか」
「なによ、それ」
「まさか、無自覚で言ってた訳じゃないでしょ。言葉の端々に俺は悪意を感じたけど。開き直りってやつ? だとしたら、怖いよね、同時に滑稽でもあるけどさ」
大河原の言葉に牧野は絶対傷付いている。
平気を装って、ひっそりと。
明るく振舞っていた姿は、三条の言うように、何か吹っ切った、そう表現してもおかしくなかった。
大河原の態度や言葉にも、何も反論しなかった牧野。
何か全てを理解し覚悟しているように思えてならない。
それも、大いに間違った方向へと向かって。
「別に、私は本当のことを言っただけ」
「その割には揺れてるみたいだけど、あんたの気持ち。どうして俺の顔が見れない?」
「…………」
俯いたまま何も言わず、けれど、漸く顔を上げた大河原は話す気になったのか、ゆったりとした足取りでこっちに来て、向かいの席に座わった。
「牧野を苦しめる奴は許せないんだよね」
「…………」
「牧野が苦しめば、司も苦しむ」
「…………」
「あんたって、好きな男のそんな姿見るのが趣味なわけ? 良い趣味してんね」
「そんなわけあるはずないじゃない!」
声を荒げ否定する大河原。
だが、すぐに落ち着きを取り戻すと、今度は突然に口元を緩ませた。
「何がおかしい?」
「……ずっと思ってた。類君が私の邪魔しにくるって。フランス行くって聞いてホッとしてたのに、残念。でも、…………どっかで望んでる自分もいた」
「ふぅん」
「私、司を諦めないから。自分の想いを解放してあげるって決めたの。司の傍にいる間、私は自分を自由にしてあげるの。
だけどもし、……もし、司から離れる時までに、司を手に入れられずに私が悪足掻きしたとしたら…………、」
「なに?」
「その時は、苦しむ司とつくしを救ってね、類君」
大河原も苦しんでいる。
ずっと好きだった男が手に入るかもしれないという希望をチラつかされて。
それに心揺れるのは、当然の心理かもしれない。だって、人間は弱い生き物だから。
例え間違っていると分かっていても、正しい扉を開ける手は、そう簡単に伸ばせなかったりもする。
俺だって、牧野の涙を見る度に司から奪ってやりたい、何度そう思ったか知れない。
それが出来なかったのは、牧野の求める幸せは、常に司の傍でしか存在しなかったから。
どんなに泣いて苦しんでも、その後に生まれる最高の笑顔を湛えた牧野の傍には、必ず司がいたから。
だったら俺は、無駄に多い意地っ張りなアイツを一時だけでも開放してやって、素直に泣かせてやればいいって答えに辿り着いたのは、何時からだったろう。
人にはそれぞれ役割がある。そう思えるようになってからは、心が軽くなった。
牧野の幸せが司の傍にあるのなら、大好きな笑顔が消えることのないように、俺は俺のやり方で守り、あの二人を見守る。それが俺の役割だ。
そして、そんな風に誰かを愛せた自分を、俺は結構気に入ってもいる。
「あんたに言われなくても、そうするよ」
「……そう」
「自分のすべきものは何か、あんた自身が見つけなければ、司を愛した想いも報われない」
「………まだ悪足掻きしたい自分もいる」
ひと呼吸置いた大河原は、バッグを手繰り寄せ、それから真っ直ぐに俺を見て、取り出したものを差し出した。
「だから……、その時は、これ────」
✢
「お待たせしました。コーヒーでいいですか?」
「ありがと。でも、もう用済んだから帰る」
全く、この人は本当に自由気ままだ。
そんな人が、先輩の為となると、こうして機敏に動いてしまうのだから、先輩が人に与える影響は絶大だ、と言うべきか。
既に玄関に向かう花沢さんに、
「花沢さん、向こうで先輩共々、ご馳走してもらえるのを楽しみにしてますからね」
声を掛ければ、振り返り軽く微笑みかえされる。
その視線が傍にいた滋さんに移ると、途端に表情を消し、
「いざって時は、俺は遠慮しないよ。覚悟して」
温度の感じない声で言った花沢さんは、そのまま玄関を出て行った。
滋さんは、下ろした腕をもう片方の手で掴み、自分の身体を包み込むようにして口を噤んだまま。
今、私が言うべきものは、何もないはず。
今夜は、もう休ませてあげたい。
普段から、花沢さんの心の内を読み取るのは簡単じゃないのに、先輩の事となると、的確に揺さぶりを掛けてくる話術に捕まった後だ。
疲れた心も身体も疲れているはず。
今はただ、休ませてあげたかった。
明日になれば、また先輩に刃を向けたとしても、今だけは、そっとこのままで……。
───それから一週間後。世間が注目するパーティーは幕を開けた。

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