その先へ 10
「ただいま、っと」
帰って来た玄関で、パンプスを脱ごうとして体勢を崩す。
いつもより浮腫んだ足のせいで、パンプスがスムーズに脱げない。
手でそれを片方ずつ脱ぎとると、シューズクローゼットにしまい、明日からはもう少し低いヒールにしようと考えながら、リビングへと向かった。
「姉ちゃん、お帰り」
「あ、ただいまー。進の方が先だったんだ」
「うん。新しい職場での初日じゃ気も張るだろうと思ってさ、今夜は俺がご飯作っといたよ」
「うわー、助かる! もうお腹ペコペコなの。着替えて来るからちょっと待ってて」
出来の良い弟との同居生活は、本当に助かる。
頼りない親の元で育ったせいか。いつ何時何が起ころうとも対応出来るようにと、弟は、生きていく為に必要な家事労働等も自ずと身に付けていた。
そんな弟と二人で暮らすようになったのは、進が私と同じ大学へ進学が決まってからだ。一度は東京を離れたけれど、先に戻って来ていた私の所へ進も居を置いて以来、ずっと一緒に住み続けている。
田舎で暮らす両親と離れての二人暮らしは、私にとってなかなかに快適だった。
今じゃ弟は、私の唯一の相談相手。
気の小さかった昔が懐かしいほどに。
引き出しから、ボーダー柄のマキシ丈ワンピを取り出し着替える。
その上にはカーディガンを羽織った。
……にしても、アイツ。
着替え終え、脱いだスーツもハンガーに掛けてから、ストンとベッドに腰を落として、パンパンになった脹(ふく)ら脛(はぎ)をさする。
「今はそれすら面倒臭い、かぁ……」
道明寺が吐いた思いをなぞる。
今日1日。
私が何をやっても言っても、道明寺が怒鳴り散らすことはなかった。
もて余した遣りきれなさや怒りを、言動で行動で思うままに発散していたヤツだったのに。
それはそれで、周りからしてみれば傍迷惑なことこの上ないけれど、それすらしない今の姿が物悲しい。
全てを諦めてしまっているのか。
感情は諦めという名の毒に侵され、麻痺してしまっているのか。
だから自分を労れず、食べないのか、眠れないのか、飲むしかないのか。
だとしたら、そんな生き方は哀しすぎる。
道明寺が、私たちの過去の関係を知ってた驚きよりも勝って、あの言葉が重く残った。
本当なら、私は関わらない方がきっと良い。
何が出来るのかも分からない。
だから、特別なことは何もしないと楓社長には伝えてある。
道明寺が副社長という立場であっても、機嫌を取るつもりもないし、頭にくれば意見も言わせて貰うと。
私が出来るのは、私らしく接するだけ。
昔だって、そうしてきた。
そして、どうしても私が無理だと限界を感じた時には、突然だろうが辞めさせて欲しいと条件を出した。
道明寺に対する思いはないから、それ以上は期待しないで欲しいと。
楓社長は、私の意見を全部飲んでくれた。
何も口出しはしないとまで言ってくれて、言うこと聞かないなら降格にでもして下さい! って言った冗談まで受け入れてしまった時は、流石に内心慌てた。
そんな私を受け入れたくはないだろう道明寺を、楓社長の強引な命令と、西田さんの機転で押さえ込み始まった今日は、怒鳴ったり、嫌がらせをしたりで大忙しだ。
連携を取る、何故か男性ばかりの秘書課に始まり、法務部や経営戦略部を駆けずり回り、『この会社、広すぎんのよ!』と、一人ゴチながら道明寺の仕事をこなす。
私の存在を無視する道明寺相手に、大声を張り上げたりと、なかなか体力もいる。
如何せん、静かな日々を送りすぎていた。
嘗て猛獣使いと言われた身は鈍ってる。
その猛獣も、今は冬眠してるみたいだけど、何故か今も昔も、道明寺が相手となると、全力でぶつからずにはいられなくなる。
感情が勝手に動く。
なんて厄介な男なんだか。
それでも……
「姉ちゃん、まだー?」
「ごめーん。今、行くー!」
それを嫌だとは思わない。苦痛だとは感じなかった。
立ち上がり、電気のスイッチに手を掛ける。
あいつ、ちゃんと夕飯食べてるかな。
夜も寝られるといいんだけど……
道明寺を想い浮かべながら、部屋の明かりをパチンと落とした。

にほんブログ村