Secret 29
「あ~、スッキリした!」
トイレから戻って来る途中の滋に捕まり、引っ張られるように俺たちの元へ連れて来られたあきらは、今しがたの発言に盛大に顔を顰めさせた。
潔癖なあきらからすれば、滋のデリケートからはみ出た発言は堪えらんねぇんだろう。
「出すもの出したら、今度は水分補給かよ。全く、少しは女らしく出来ねーのか滋は!」
「ニッシー煩い!」
「お前の方が煩いって」
戻って来た滋は、ジュースでも飲むようにアルコールを一気に飲み干してる。
「滋、酔い潰れんなよ」
「お酒くらい好きに飲んだっていいじゃん」
俺の忠告も無視して飲み続ける滋。
そんな滋を不思議そうに見ていた総二郎は、俺の傍にピッタリと距離を詰めると、声を潜めて話しだした。
「司。滋といい、桜子といい、何かあったのか?」
「いや、分かんねぇ」
滋が何となくおかしいのは俺も気にはなっちゃいるが、あの1ヶ月前のメープル以来、表立った妙な動きはないはずだ。
「そうか? 司、牧野の方も大丈夫なんだろうな?」
「……ああ、元気だ」
過剰な程に、っていう拭えない不安な補足は、胸の中に据え置く。
「ならいいけどよ」
「ちょっと、男だけで何コソコソ話してんのよ! こんな良い女が居るんだから、滋ちゃんも仲間に入れてよね!」
そう言うなり一気に距離を縮めて来た滋は、俺の腕に自分のものを絡ませてきた。
「てめっ、離れろっ!」
「いいじゃん別に! それよりさ、今日お昼に食べたブイヤベース美味しかったよね。司、また連れてってね!」
「なに、お前ら二人でランチとかしてんのかよ」
冗談も笑いもなく、総二郎の顔つきが真面目なものに変わる。
「違ぇーよ! 取引先の店がオープンしたから仕事の一環で行ったまでだ。そもそも二人きりじゃねぇし、もう一人の男性秘書も一緒だ。滋、紛らわしい言い方すんな! 行きたきゃ勝手に行けっ!」
「つめた~い!」
しがみついて離れない滋の腕を何とか乱暴に振り解き、空を泳いだ滋の腕を、今度はあきらが掴む。
「滋、飲み過ぎだ。少しあっちへ座ってろ」
あきらに窘められても、まだごちゃごちゃ煩ぇ滋は、あきらと総二郎の二人がかりで強制連行。ソファーの方へと、強引に引きずられて行く。
ったく、何考えてんだよ、滋は。ふざけんのも大概にしろよ。
つくしだって居るってのに。
無駄に疲れた、と首を鳴らせば、ふと気付く違和感。
リビング全体に目を走らせ、そこでその正体に気付く。
あいつ、何処行きやがった。
さっきまでソファーに座っていた奴の姿が見えねぇ。
もしかしてつくしの所か?
人の目盗んで類の奴、油断も隙もあったもんじゃねぇ、と慌ててつくしの元へ向かった。
✢
「まーきの。まだ何か作ってくれてんの?」
ひょっこりキッチンへ顔を覗かせたのは類だ。
「これでもう終わりだよ。類、まだ食べられそう?」
「俺、まだ何も食べてない」
「えーっ、何も!?」
「うん、牧野だって食べてないでしょ」
「もしかして、待っててくれたの?」
返事の代わりに類はにっこりと微笑む。
これは急がねば、と慌てて深みのある大皿を取り出した。
残すは、このブイヤベースだけ。
まさか、類がまだ何も口にしていなかったとは思わなかった。
お腹を空かせているだろう類のために、早く用意しなくちゃ、と益々動きを早めた時だった。リビングからの会話が耳に届き、動作をピタリと止める。
『 滋、離れろ』
『いいじゃん別に! それよりさ、今日お昼に食べたブイヤベース美味しかったよね。司、また連れてってね!』
『なに、お前ら二人でランチとかしてんのかよ』
滋さん達の大きな声で初めて知る、自分の間の悪さ。
そっか、お昼も……。
動きが止まっていた私の頭に突然感じる重み。類の手が乗っかっていた。
「当ててあげようか?」
「え、何を?」
「ブイヤベース出そうか悩んでんでしょ」
「え、あ……いやぁ……。はぁー、ちゃんとリサーチしとけば良かったなぁ」
「牧野、ムカツク」
突然のクレームにギョッとして、背後の類を見る。
怒らすことでも言ってしまっただろうか。
何をやらかしたのかと類の顔を窺ってみても、クレームに反して類の表情は穏やかだった。
「類、ごめん。私なんか言ったかな?」
「今日は『俺のため』の手料理じゃないの? 司はどうでもいいじゃん。俺、昼にブイヤベース食べてない」
殊更に『俺のため』を強調した類の言わんとすることが分かり、自分の失態を打ち消すように笑顔を作る。
「そっか、そうだよね! そうでした、ごめんなさい。じゃあ、折角沢山作ったんだから、全部食べてもらおうっかな。スープまで全部ね、勿体無いから!」
「全部か……うん、了解」
とてもじゃないけど食べきれる量じゃないのに、覚悟を決めたように真面目腐った顔で言う類がおかしくて、思わず吹き出す。と突然、和んだこの場の空気を破壊するように、苛立ちを乗せた声が割り込んできた。
「何、つくしに触ってんだっ、離れろ、類!」
こんな攻撃性の高い声を出せる人物は、一人しかいない。
「邪魔されちゃった」
「てめっ、俺が目を離した隙に、つくしにちょっかい出すんじゃねぇ!」
「ふぅーん。司も大河原にちょっかい出されてたから良いのかと思った」
「な、何言ってんだ! そんなんじゃねぇよ。 変なこと……、」
「牧野、『ブイヤベース』早く持ってきてね!」
司の存在はまるで無視で私に微笑みかけた類は、涼しい顔をしてキッチンから出て行ってしまう。
類をこれ以上待たせるわけにはいかない。今度こそ、とブイヤベースを装うためにお玉を手にすれば、背後から司に抱きしめられる。
「ちょっと、装うのに邪魔なんだけど。ごめんね、司はお昼も食べたんでしょ?」
「食うよ」
「いいよ、無理しないで」
頭と気持ちが連動せず、可愛げのない言葉が口を突いて出る。
自分でも呆れるほどの可愛げのなさだ。
「無理なんかしてねぇ」
抱きしめられる腕の力が強くなる。
「……ごめん」
「いや、俺こそ嫌な思いさせて悪かった。俺もつくしが作ったの食いてぇ」
「うん」
司との約束が果たせなかった翌日に、私は一つの覚悟を決めた。
いつか別れなければならない覚悟。
それからは、どんなに司が泣きたくなるような優しい言葉を重ねても、表面上は受け取った振りをして、内では頑なに受け付けなかった。
どんな言葉を告げられても、いつかきっと別れる時が来る、と諦めにも似た覚悟は、司に悟られないよう、心に頑丈な鍵まで掛けて。
なのに、こんな些細な事で乱されてしまう。
私達の結婚生活が、この先短かったとしても、今を楽しもう、一日一日を大切にしよう、それ以上は望まない。そう決めた筈なのに。
「つくし、あいつ等も待ってる。早く行こうぜ」
「そうだね」
乱れた想いをまた胸にしまい自分を立て直した私は、飾りの刻みパセリを散らしたブイヤベースを手に、司と一緒に皆のいる方へと急いだ。
「おまえら、どんだけ好きなんだよ、それ」
ポカンと口を開けて見ていた美作さんが呟く。
それもその筈で、他の皆が手を出せないくらいの勢いで、司と類がブイヤベースを競い合って食べている。
競うと言っても、一方的に仕掛けているのは司のような気もするけれど。
普段は品よく食べる二人の、あまり見ることのない光景に、誰しもが唖然としているようだった。
「類! てめぇはもう食うな!」
「司の方こそ普段はそんなに食べないんじゃないの? 無理しないで良いよ」
「無理なんかしてねぇ! お前だっていつもはそんなに食わねぇだろがっ!」
「今夜は特別。牧野が『俺のため』に作ってくれたから」
わざと司を挑発するためか、余裕の王子様スマイルまで私に飛ばしてくる。
「糞ムカつくこと言うんじゃねぇーっ! もう食うなっ! つくしを見んなっ! つーか、お前はとっとと帰れっ!」
「まだ用事済んでないし」
予想通り挑発されて喚き散らす司だけど、類の言う用事って何だろう。
司も途端に口を噤んでしまい、余計に疑問符が浮かぶ。
私の知らない何かがあるのだろうか、そんな事を考えていると、訪問を告げるチャイムの音が部屋に響き渡った。
こんな時間に一体誰が?
そう思ったのは司も同様だったらしく、
「誰だ?」
思い当たる節はないようで、怪訝に顔を曇らせる。
「見てくるね」
インターフォンへと小走りで急ぎ、来客者を見るや息を詰めた。
「つくし、誰だ?」
振り返ると背後に立っていた司。
その司もモニターを見て驚きに目を剥いた。
「なっ、ババァ……」
四角い画面の中には、この場所へ来た事がないのは勿論、久々に見るお義母様が映っていた。

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