Secret 25
一日が長い。
正確には、昨夜司が出て行ってからの時間が、やけに遅く流れているように感じる。
今夜、司は帰ってくるのだろうか。
それともまた、滋さんと……。
想像したくもない思考が頭を占領して、数時間前に見た光景が鮮明に思い返され、嫌だ、と心が悲鳴を上げる。
突如、止めようのない不安が襲いかかり、バクバクと激しく鼓動が鳴り、血の気が引いて体が震え出す。
不安で体が震えるなんて初めての経験で、それが余計にパニックを引き起こし、一気に冷静さを欠いた私は、司の傍に行きたい衝動に駆られた。
もうすぐ始まる仕事を放り出してもかまわない。不安を払拭してくれるのは司だけだと、一方的な思考に傾ぐ。
控え室の鏡に映る、化粧で偽られたこんな自分なんて捨て、一人の女として司の元へ飛んで行きたい。
偏った思考だけに完全に囚われ、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がると、ここから逃げ出すために一目散に走り出した。
けれど、控え室を出て直ぐの廊下でスタッフの一人に見つかり、無視してまた走り出そうとした私の手は、簡単に繋ぎ止められてしまう。
「つくしさん? どうしました? どこに行かれるんですか?」
「…………司の所」
周りにいる事務所スタッフは、私が司と結婚している事を皆知っている。
知っているからこそ素直に告げ、「お願いだから行かせて」と震える声で懇願しても、目を瞠った相手は、掴んだ私の手を離そうとはしない。
「つ、つくしさん! 何言ってるんですか? もうすぐ会場入りする時間ですし、それでなくとも、会場には沢山のマスコミがいるんですよ? 桜子さんだって打ち合わせしている最中ですし、お願いします。一度、部屋に戻って落ち着いてください」
「行かなきゃ。……どうしても行かなきゃ」
取り憑かれたように理性を失くし、もうそれしか考えられなかった。
私の異変に気付いた他のスタッフも慌てて駆け寄り、たちまち囲まれて行く手を塞がれた私に、噛んで含めるようにスタッフが言う。
「今、道明寺さんのところへ行けば、マスコミだって放ってはおきません。間違いなく道明寺さんに迷惑を掛けてしまいますよ? それでも良いんですか?」
司に……迷惑?
自分の思考は浮遊でもしていたのだろうか。
徐々に頭がスッーと冷えていき、まるで自分らしくない行動から漸く正気を取り戻す。
暫く深呼吸を繰り返して、気持ちの安定を図ってから言う。
「ごめんなさい。もう大丈夫だから」
安堵する数人のスタッフに囲まれたまま、控え室として使用しているホテルの一室へと戻ろうとした時。
それはあまりにも突然に、そして偶然にも呼び止められた。
「牧野さん? 牧野つくしさんでは?」
声の方へと、その場にいる全員が一斉に視線を向ける。
顔に見覚えがあった私は、心配顔のスタッフを何とか説き伏せ距離を取らせると、声を掛けてきた人物へと近づいた。
「やはり牧野さんか。いや、話には聞いていたが、すっかり美しくなったねぇ。今じゃ、あなたを知らない人はいないくらいの人気だ。
今、そこの部屋で大事な取引先と会談をしていたのだがね、あなたを見かけて思わず声を掛けてしまったよ。
あ、私とした事が挨拶が後回しになってしまって申し訳ない。いつもうちのお転婆娘がお世話になっているようで、滋の父としてお礼を言わせて貰うよ」
「いえ、こちらこそ、お世話になっております」
出来れば会いたくなかった。
過去に一度だけ会ったことのある、滋さんのお父さん。
「昔、会った時は、まだ高校生だったね。それが今じゃ押しも押されぬスターだ。
牧野さんがいるべき場所がこの世界で見つかったように、やっと、うちのじゃじゃ馬も自分の立場が分かったようでね。親としては一安心している所なんだよ」
「……そうですか」
「牧野さんも知ってると思うが、滋は今、司君の秘書をしていてね。そこでやっと分かったようだ。自分がどうすべきかをね。
滋だけじゃない。司君も自分の置かれた立場を理解し納得したようで、楓社長もそれはそれは喜んでいたよ」
二人が分かったこと?
お義母様も喜んでいる?
柔らかな口調ながら、しかし、私の心証への配慮などまるでない。
迂遠な言い回しは、私が邪魔だと仄めかしている。
じゃなきゃ、ここに居ない司やお義母様を、わざわざ話題に引っ張り出してくるはずがない。
思っていた通り、私の知らない所で何かが動き始めている。
シナリオは作られ、事は静かに運ばれているんだ。絶対的な力を持つ人間の恣意によって。
────その力を持つ一人が、今目の前にいるこの人だ。
理不尽で溢れている世の中にある権力。
太刀打ち出来ないその威力の凄まじさは、まだ10代という若さの身で思い知らされた。
きっとそんな力の前では、私の存在なんてひと捻りだ。
「どうかしたかな、牧野さん。顔色がすぐれないようだが」
「……いえ、大丈夫です」
「ならいいんだが。では、私はそろそろ失礼するよ。急に呼び止めて済まなかったね」
「いいえ」
「また近いうち会うことになるだろうがね」
「近いうち?」
それには答えず、意味深に笑って立ち去って行った後ろ姿を、黙って見送るしかなかった。
逃げ切れず舞い戻った控え室。
スタッフが監視するように私を見守る中、椅子に腰を下ろし思いを巡らせる。
力も地位も確実にした司は、何かが動いているとすれば、それに気づかない筈がない。
その肩には、守らざるを得ないものが伸しかかり、その為には切り捨てなければならないものだって存在し、何が必要で何を捨てるべきか、決断しなくてはならない立場にいる。
荷の重さこそ違えど私だってそうだ。
司が力も地位も確実なものにしたように、今の私も昔とは違う。
高校生の頃、後先考えずに司だけを求めて、一人NYへ追いかけて行ったことがある。
今の私にあの頃と同じ行動が取れるだろうかと問えば、無理だ、と答えるしかないのかもしれない。
事実、車に飛び乗ればすぐにでも司の元へ行ける距離にいるというのに、さっきだって結局は諦めるしかなかった。
自分だけの責任だけでは済まされない。事務所のスタッフの生活も担い、自分の気持ち一つで突っ走ることを許されない環境に身を置いてしまったのだから。
それでも、絶対に譲れないものがあって、それが司だった。
窮屈な身での唯一の我儘として、司を私のものにしたいと望んだ。もう離れていたくなかった。
例え、世間から隠れなければならない結婚でも、司が傍にいてくれれば何もいらない。そう思って。
しかし、そんな形で始まったこの結婚は、果たしてこのまま未来へと続くのだろうか。
お互いを思うだけでは済まされないものを背負ってしまった私達に、現実には苦しい選択が待ち受けているのではないだろうか。
守るべきもののために、切り捨てる決断を迫られる時が……。
そしてその時、切り捨てる側に振り分けられるのが、────私だ。
────覚悟をしておくべきかもしれない。
今朝の光景と、滋さんの父親が匂わせた科白が、いつまでも頭の中で渦巻いていた。

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