Secret 24
壁に両手をつき項垂れた頭上からは、シャワーの冷水が容赦なく降り注ぐ。
「情けねぇ」
バスルームに反響するくぐもった声は、言葉同様に陰湿だった。
メープルのキープしてある部屋に入るなり、こうして煩悩を払う滝行の如く水に打たれ続けている。
守ってやると、支えてやると決めたのは自分だ。
なのにこのザマだ。何やってんだよ、俺は。
冷え切ったせいか、それとも自分の不甲斐なさに込み上げる怒りからか。体が小刻みに震えるが、己の体を労る気はなく温めもせずにバスルームから出た。
バスローブを羽織っても冷たいままの体は、アイツの温もりを手放してきた俺を責め立てるかのように、痛みを伴ってジンジンと痺れている。
温まれば治まるだろうが、そんな気力すらどこかに置いてきた俺は、ソファーに力なく腰を落とし、何をするでもなく途方に暮れた。
「マジ、どうしようもねぇ」
漏れ出た自嘲と同時、重なる別の音を拾う。
音の発信元はテーブルに置いてあるスマホだ。
もしかして、つくしか?
胸がドクンと疼いた。
自分からつくしの元を去って来たっていうのに、つくしかと思えば胸が跳ね、我が事ながら勝手が過ぎる。
逸る気持ちで凭れていた体を急いで起こし携帯を手に取れば、疼いた胸は、正直なまでに大人しくなった。
無視するか、と束の間考えたのちに息を一つ逃すと、結局画面をタップした。
「どうした?」
『今、部屋の前にいるんだけど、何度もベル鳴らしても出ないから』
何も答えず電話を切り、ドアを開けに向かう。
開けるなり、
「何? どうしちゃった訳? そんな冴えない顔しちゃってさ!」
高いテンションで現れたのは滋だった。
「どうしてここに居るのが分かった?」
「SPに聞いたの。それよりちょっといい? パパから書類頼まれて持ってきたんだ。司にすぐに確認して貰いたいんだって」
手渡された資料はプロジェクトに関する訂正案。
「別に今すぐじゃなくてもいいだろ」
「パパは至急って言ってたけど? とにかく、早く確認してサイン貰える? ねぇ、それより中入っても良い? 」
「ダメだ」
「あー、司変なこと考えてない? もしかして滋ちゃんといるとムラムラしちゃうとか?」
「しねぇよ!」
「じゃあいいじゃない。 大丈夫だよ。私も襲ったりしないからさ」
「おまっ、ちょっと待て!」
制止するのも構わず、俺の横を猫のような身軽さですり抜けて行く滋。
遠慮なしに中に入り込み、当たり前のようにソファーに座って出て行く素振りもない。
「滋、場所考えろ! こんなとこまたマスコミにでも狙われたら厄介だろうが!」
「だって仕事で来た訳だし問題ないでしょ?」
「俺が困んだよ」
「ふーん。つくしに気を遣ってるんだ」
「そうじゃねぇ。俺が嫌なだけだ」
「だったら、なんで司はこんな所にいるの? どうして、つくしの傍にいないのよ」
くそっ!
苛つくままに、乱暴にソファーに座る。
触れられたくねぇ痛いとこを衝きやがって。咄嗟に言葉が出てこねぇ。
「城崎でしょ? つくしが城崎と騒がれたのを気にしてるんでしょ?
少しだけ城崎のこと調べてみたけど、あまり良い評判は出てこない。立場を利用して女性を狙うって話も聞く。
でも、つくしのいる世界では、特別珍しい事でもないんじゃない? そういう世界につくしはいるんだから」
「何が言いてぇ」
「司は、高校生の頃のつくしと今のつくしが違うことに戸惑っているんじゃないの?
昔なら、どんなことがあってもつくしの傍に司はいたと思うけど、今はこうしてつくしから離れてきた。
今のつくしは司だけのつくしじゃない。世間に期待されて、自分の事務所を守る事も課せられた、自分の世界がある。
司を信じて待っていれば良かっただけのあの頃とは違うんだよ?
だから今回だって城崎に言われっぱなしで、つくしは何も動けずにいるじゃない。つくしはもう、そういう世界の住人になったんだよ」
薄汚れた世界に、つくしが染まったとでも言いてぇのか。
「分かった口利くな。つくしはつくしだ」
言いつつ不安な思いが胸を掠める。
牧野つくしと言うモデルの顔を持つ、洗練されたあいつの顔を見た途端に嫉妬に狂った自分。
つくしが他の奴等の目に晒され、もしかして奪われるかもしれないという恐怖だけじゃねぇ。
俺との未来を見つめていれば良かった時は過ぎて、つくしは自分の立場も考えなくてはならなくなった現実に、俺は怖気づいてんのか?
「だったらそんな顔しないでよ。司のそんな顔見たら、滋ちゃんの決心も鈍っちゃうんだよね」
「滋、」
「待った! 分かってるから何も言わないでいいよ。本当は、私だって司の秘書をやる時点でケジメをつけようと思ってた。
でも上手くいかなくて。だったら、どうせ諦めつかないなら、司の秘書でいる間だけでも司のこと好きのままでいればいいって、そう思ったの。
秘書を辞めれば時間かけて諦める努力するからさ、その努力もしたくなくなるような、そんな顔見せないでよ」
笑顔は保っちゃいるが、目には涙の膜が張っている。
だが、そんな姿を見せられても俺にはどうしてやる事も出来ねぇ。
一瞬でも怖じ気づいた自分を一蹴し、例え置かれた環境が変わろうとも、昔とは違う一面があったとしても、根っこの部分までは変わっちゃいねぇつくしは、俺にとって全てだ。
真っ直ぐに滋を見据え、敢えて責めるように指摘する。
「滋、お前にとってもつくしはダチじゃねぇのか?」
「それが何?」
取り繕ってた笑顔は消え、滋は俺を睨めつけた。
「私は、友達の彼氏を好きになったわけじゃない! 18の時のお見合いで司と知り合って、あの時初めて一目惚れしたの。
司が誰を好きだとも、つくしが司をどう思ってるかとも知らずに、ただ目の前にいた司を好きになっただけ。それがそんなにいけない?……全てを知って報われない恋だって気付いた時には、自分でももうどうしようもなかった」
どんなに真っ直ぐに言葉をぶつけられても、気持ちは少しも揺るがねぇ。
「ねぇ、教えて? 司を忘れる方法があるなら教えてよ。それが出来ないなら、自分が納得出来るまで勝手に好きでいさせてもらうから」
「止められねぇ想いもあるのは俺にも分かる。つくしに対する俺の想いがそうであるように、一生、お前に向かうことはねぇ想いだ」
滋は唇を噛み、だが次には予期せぬ言葉を吐き出した。
「でも、…………もし私が大河原の力を使ってでも司を手に入れる。そう言ったらどうする?」
一瞬にして胸が冷え、自覚する。息を詰めた自分の顔が険しさを纏うのを。
「おまえが言うのか、それを。言わせてぇか、俺に」
また唇を噛み目線を落とした滋は、自分の発言を取り下げようとはしない。
ならば言ってやる。確固とした俺の答えを。
「つくしを傷付ける奴も、俺たちの邪魔をする奴も、一切の例外なく許すつもりはねぇ。おまえであっても同じだ。そこに迷いはねぇ」
「…………そう」
こいつは何を考えてる?
だが確信もある。
「滋、お前にはそんなこと出来ねぇよ。心底悪にはなれねぇはずだ」
「どうして言い切れるのよ」
「お前は、つくしって人間を良く知ってるからだ」
何も言わずに薄く笑む滋に、
「もう遅い、早く帰れ」
そう告げても動く気配はない。
「その書類確認して貰うのが目的だから。それまで待ってるよ」
目の前に置かれた書類はやたらと分厚い。
今更訂正なんて認めるはずもねぇのに、何なんだこの嫌がらせのような書類は。
確認するだけで、どれだけ時間食うと思ってんだよ。
「朝までに確認しておく。お前は帰ってそう親父さんに伝えろ」
俺は書類を手に取ると、ベッドルームへと入り鍵を掛けた。
書類に目を通す羽目になったお蔭で、昨夜は睡眠不足だ。
だが、明るい朝日に照らされて、自然と目が開く。
────つくし。
真っ先に愛する妻の名を心で呼ぶ。
昨日からの苛つきは鳴りを潜め、冷静さを取り戻した俺は、つくしの顔を思い浮かべながらベッドから起き上がると、リビングへと続く扉を開け────そこで息を呑んだ。
どうしてまだいるっ!
そこには、ソファーで眠る滋がいた。
「滋! 滋、起きろっ!」
「うん?……あ、司、おはよう」
「おはようじゃねぇだろうがっ! 何でここにいんだよ!」
「書類が……じゃないか。あんな司の顔を見て放っておけなくなったから、かな」
「いいか、滋。二度とこんな事すんじゃねぇ! 分かったな!」
「朝から怖いね、司の顔」
一刻も早くこの場所から出た方がいい。
自分の用意を猛スピードで済ませ、滋を促してこの部屋を後にした。
地下の人目のつかない裏口に呼び付けておいた車に滋と共に乗り込めば、特別困った風でもなく滋が言う。
「服が昨日と一緒だと周りに疑われちゃうね」
ムカつくことにその可能性は捨てきれず、誤解を招かねぇ為にも、滋の服を調達しにブティックへ立ち寄ってから会社へと向った。
✢
何度目の夜だろう。
こうして司の居ない部屋で眠れない時間を過ごすのは。
気付いた時には、外は夜の終わりを告げていた。
もう少しだけ眠る時間はあるけれど、どうせ寝付けやしない。
それに今日は、早くから仕事も入っている。
ならば、さっさと起きて動いた方が気も紛れるかと、冴えない顔をシャワーで引き締めてから身支度を整え、桜子の迎えを待った。
「先輩、昨夜は道明寺さんと話せました?」
迎えの車に乗り込んだタイミングで、桜子が訊いてきた。
「うん、そうだね……」
説明するのが辛い。
桜子に心配をかけたくない気持ちはあっても、器用に言葉を紡げそうになく、曖昧にしか答えられない。
桜子の事だから、私の変わりように気づいているかもしれないけど、それ以上、何も言わずにいてくれることが今は有難かった。
車に揺られながら、窓の外の街並みに目を向ける。
静まり返った夜が明ければ、当たり前のように人々は動き出し、少しずつ街がざわつき始める。
ここにいる多くの人達の中に、眠れない夜を過ごした人は何人いるだろうか。
きっと自分が思っている以上に、沢山いるのかもしれない。
その中のたった一人にしかすぎない自分は、大して意味のないことで悩んでるのかも、そう思えてくる。
ほとんどの店はまだ閉じたままで、多くの人々が律動的な足取りで過ぎて行く。
そんな光景を何の気なしに見ていただけだった。
けれど、信号待ちで停まった車の中から見る先に、それは突如として光景の中に入り込んだ。
見覚えのある黒塗りのリムジン。
視線が一点のみに奪われる。
もしかして、司?
リムジンは、とある店の前で停まり、運転手席のドアが開いた。
出てきたのは、司専属の運転手さんだ。
やっぱり司だ。
でもどうして朝早くからこんな所に?
運転手さんが後部座席へと周りドアを開け、降りてくる人物を待つように見ていれば、予想外の状況が視界に飛び込み、瞬間、私は息をするのも忘れた。
車から降り立ったのは司じゃない。滋さんだった。
昨日と同じ服を着た滋さんが、一人ブティックへと入って行く。
どういうこと?
司は、あの車の中で待っているの?
一晩中、二人は一緒にいたの?
私との約束を破って、それなのに……滋さんと?
バクバクと脈打つ胸は苦しく、知りたいけど知りたくない疑問ばかりが溢れ、押し潰されそうになる。
信号が変わり走り出した車の中、もう外を見る気にはならなかった。
変わりに隣にあったクッションを抱え込む。
「桜子、着いたら起こしてくれる?」
「……はい」
何も目にしてしまわないように、何もかもを遮断するように、顔をクッションに押し付け瞼を閉じた私は、視界を真っ暗な世界へと誘った。

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