魅惑の唇 7 【最終話】
────腰が重い。
軟禁から明けた翌日、ベッドから半身を起き上がらせるなり感じる鈍痛。
隣でまだスヤスヤと眠る司を恨めしく思いながら、体に鞭打ってベッドからゆっくりと這い出る。
「ん? もう時間か?」
「あ、起こしちゃった?」
静かに動いていたつもりが、直ぐに反応した司に腕を掴まれた。
「つくし、体辛くねぇか? 無理させたよな? でもよ、久々だったし、お前が可愛いこと言うからよ」
気になるなら、こうなる前に気遣え! と、言いたい言葉も、心配そうにあたしの腰に手を回し、申し訳なさそうに上目遣いで見られると、またもやコイツが子犬に見えてきて。
「大丈夫だから、それよりシャワー浴びてきていい?」
「おぅ」
と、言いながらも離そうとはしない司の手。もう片方の手では、あたしの腰を擦っている。
心配と反省と、複雑そうに顔を歪める司。
……仕方ない。元気を与えてやりますか!
「いいよ、発表しても。司が守ってくれるんでしょ?」
愛されてると、愛していると、確信を得て覚悟を決めたあたし。
「へ?」
打ち明けた覚悟は、擦っていた手の動きと共に、司の思考までも止めてしまったらしい。
「だから! 婚約発表してもいいって言ってんの! じゃ、あたしシャワー浴びてくるから!」
フリーズしている司を置き去りにバスルームへと急ぐ。
そして、その数秒後。
「やりーーっ!」
遠い昔のいつだかにも訊いた変わらないはしゃぎようが、追っかけで轟く。
それを耳にしたあたしもまた、ハミングしながら広いバスルームを泡だらけにしたり、シャボン玉を作ったり、子供みたいにバスタイムを楽しんた。
❇
司が用意してくれたスーツに身を包み、いつもと変わらず出社したのは、1時間前。
そのあたしに待ち受けていたのは、
「牧野くん。いつまでここにいる気だね。今日の仕事はメープルじゃないか。早く行ってくれたまえ」
「はい?」
上司からのふざけた命令だった。
今日は、ゆっくりでいいんだと言う司を残して出てきた、あのメープルへまた戻れですと?
そんなの聞いてないんだけど。いつ予定が変更になったんだろう。あたしは腰が痛いんだってば!
そんな言い訳が通るはずもなければ、言うことも出来ないあたしは、また朝来た道をトボトボと戻るしかなかった。
「良かった、先輩やっと来た。もう待ってたんですよ」
「ちょっと、急に変更なんて何かあったの?」
メープルに着くなり、エントランスで待ち構えていた後輩に事情確認をする。
「先輩こそ何を言ってるんですか? 今日の仕事は予定通りで、何も変更なんてありませんよ?」
「いやいや、今日はメープルで仕事なんて入ってなかったでしょ?」
「大丈夫ですか? 相当、疲れてるとか……目の下もクマが出来てるし」
えぇ、まあね。疲れはこの休日で相当なもんで……。
だからってね、仕事の内容忘れるほどボケちゃいないわよ。
「ね、仕事って取材?」
「ホント大丈夫ですか? 今日は、例の雑誌の第3弾ですよ? 私達も中へは入れなかったんですけど、取材はもう終わっているとかで、後は写真撮影だけだそうです」
「3弾って何? あたし聞いてないよ? まぁ、いいや。とにかく急ごう。どこの部屋?」
後輩と小走りでやって来たその部屋は、軟禁現場となったあのスイートルームで。
そこには、子供のようにはしゃいでいた男がその姿を隠し、貫禄十分、オーラを放ち捲くりながら優雅にソファーに座っていた。
数時間前まで一緒に過ごしていたこの部屋で、しかも、他の人達がいる中で司に会うのは妙に照れ臭い。
そんなあたしを知ってか知らずか。司はにこやかに「牧野、ちょっと来い」と、手招きして呼ぶ。
「何でしょうか、副社長」
「発表の日取りが決まった」
バカ男、浮かれてんじゃないわよ!
仕事場でそんなことわざわざ言うことでもないでしょうが!
「そうですか。その件でしたら、また別の日に」
直ぐに司の元から離れようと背を向け、一歩足を出す……はずが。
………おかしい。
もう一度チャレンジ! と、また一歩足を踏み出すけど。…………何で引き戻すのよッ!
周りに気付かれないように、素早く司を睨み威嚇するも、
「何やってんだよ」
何とも意味不明な言葉が返って来る。
それはこっちの台詞だ。
「申し訳ありませんが、この手を離して貰えないでしょうか」
「アホだなお前」
そう言うや否や、捕まれてた腕はバカ力によって強引に引き寄せられ、バランスを崩した身体は羽交い絞めにされる。
「ちょっ──、」
「カメラマン何やってんだ、早く撮れ! こいつは油断すると直ぐ逃げんだよ」
うちの社員は、あたし達の様子に驚きを隠せないようで、後輩は悲鳴まで上げている。
そんな後輩が羨ましい。
あたしだって悲鳴上げたいわよっ!
「いい加減にしなさいよ。何やってんのよっ!」
周りがいようとこの際無視だ。遠慮会釈なく司を怒鳴る。
「だから発表の日程が決まったって言ってんだろうが。この第3弾、お前な。この雑誌で、お前との婚約を発表する。前から3弾はつくしって決まってたんだよ」
「はぁ? そんなのあたし聞いてないよ? それに発表の事だって、数時間前に答え出したばっかりじゃない」
「ほら、つくし。撮られるぞ、あっち見て笑え」
「え?」
カメラの方を見てしまい、思わずニッコリ。って、笑っちゃったじゃない。
うっかり笑顔見せてる場合じゃないっつうの!
「どういう事なのか、全く分からないんだけど。この取材、最初から決まってたわけ? もしかしてと思うけど、あたしが発表をOKしなくても、強引に推し進めるつもりでいたとか?」
「何だよ、良く分かってんじゃねーか。俺が説明するまでもねぇな」
「悪びれもせずに偉そうに言うなッ!」
「お前だって覚悟決めたんだろ? だったら今更ガタガタ文句言うな! 大体な、この取材のテーマ“影で支えた女達”だぞ? お前を外せるかよ。この仕事が決まった時点で気付け、アホ!」
アホにアホとは言われたくない!
「だからって勝手に決めなくてもいいでしょ!」
「お前に黙ってるのは悪いと思った。だからよ、納得させる為に俺、頑張ったろ? 頑張ったよな、昨日一日かけて」
耳元で囁き、最後の言葉でニヤリと口元を緩ました司。
「甘い時間が、お前の凝り固まった脳も体もトロトロに溶かして、ちゃんとOKもぎ取ったじゃねぇか。ギャアギャア喚いてねぇで、もう諦めろって。
それにな、雑誌発売日後の俺の予定は、もう大幅に変わっちまってんだぞ?
婚約したって公になるんだからな。この取材ボツにしたら、あちこちに影響が出る。
その為に、お前の機嫌を損なわないよう、西田だって昨日休みをくれたんだろうが。お前がこの取材拒否れば、西田の仕事は膨大に膨れ上がんぞ? 可哀想になぁ。あんまアイツに苦労掛けさせんじゃねぇよ」
「………」
苦労ですと?
あんたにだけは言われたくないわよ、あんたにだけは!
どうせ、この取材だって、司が我がまま言ってねじ込んだに決まってる。
それくらい想像つくわよっ!
だとしても、西田さんも把握しているとなれば、お母様の耳にだって当然入ってるだろうし、承知しているからこそ何も言ってこないのだろう。
だとしたら、どう足掻いてもこの状況から逃れることなんて出来ないじゃない!
いくらなんでも急すぎる、と騒いだ所で、もう逃走経路は塞がれている。
この俺様のせいで。
「はぁ〜、もう分かったわよ。この取材で発表してくれていいから」
『やりーっ!』って、また騒ぎ出すんじゃないかって言うほど笑み崩した司は、その表情だけに嬉しさを留めとけば良いものを、
「やっとスタミナ切れたか。昨日、あんあんよがらせて体力奪ったのは正解だったな!……ぐえっ」
得意気に話すバカ男。
僅かに残されたスタミナをかき集め、司の鳩尾に肘鉄を食らわすと同時。カメラマンの声がかかりそちらを見れば、フラッシュが焚かれ切られたシャッター。
辛うじて引き攣り笑いを浮かべたあたしと、苦痛で歪んだ司の写真は、流石に後日差し替えられた。
❇
「ねぇ、あんな勝手なことしてタマ先輩怒ってんじゃないの? 少しは考えて行動しなさいよね」
「あぁ、今回ばかりは俺も反省してる」
「……嘘」
『煩せぇっ』と怒鳴り返してくると思えば、貴重な『反省』と言うお言葉。
司の辞書に『反省』の文字があった事実に驚愕だ。
この男、意味を理解しているのだろうかと疑問さえ浮んでくる。
その反省が何かと言えば、あたしが司を誘ったと言う失態を犯したことを、心底喜んだ司が取った行動にある。
それもこれも、あたしが嫉妬に駆られたシチュエーションがあったからこそで、織部君の彼女の誤解から始まり、気持ちを煽った後輩、嫉妬心をMAX状態させたタマ先輩のキスマーク。
全ては、この人達のお蔭で婚約発表をもぎ取ったと機嫌上々の司。
織部君の彼女だって分かるまでは、心配してくれたはずではなかったっけ?
そんな言葉を投げかけても、相当機嫌の良い司の耳には届かず、終わり良ければ全て良しの状態で、きちんと私に謝罪をしてくれた織部君の彼女には、いつもより長くインタビューを引き受ける事で気持ちを表し、後輩には、メープルのスイート無料宿泊券を贈るというお礼までする有様。
そして何より、タマ先輩に対する司なりのお礼のつもりが一番厄介で……。
タマ先輩のキスマークだとは露知らず、あたしがヤキモチを妬いたと知ったタマ先輩は、
『つくしを妬かせるとは、私もまだまだ捨てたもんじゃないねぇ』と、言ったとか。
それを真に受けた司が考えたのが、
【タマ恋人募集中!】、この提案だ。
急遽、第2弾のタマ先輩の写真の下に、この一文を付け加えさせたのだ。
タマ先輩の断りもなく、しかもその宛先となる担当部署は、あたし達がいるプロジェクトチーム内。
「これ以上、あたし達の仕事増やさないでよ」と、ぼやくあたしに返って来たのは、
「そんなに忙しくなるはずねぇだろう」と言う、司の至極冷静な返し。
反対するのも忘れて、思わず納得してしまった。
その雑誌が発売されたのが5日前のこと。
今日現在、先輩の恋人に是非! と、名乗りをあげてくる男性は、残念ながらまだいない。
そして、あたし達の婚約を公にする第3弾ももう直ぐ発売される。
司だけでなく、あたしも暫くは慌しく誰かに追い掛け回されたり、精神的に疲れる日々が予想され、その前に先輩に会っておきたかった。
雑誌のことで先輩の様子も気になるし、何より、結婚したら道明寺邸で一緒に暮らす予定になっているための挨拶も兼ね、今は、いつもより帰りの早い司と途中合流し、道明寺邸へと向かう車中だ。
でも、司が反省なんて珍しい言葉を吐くぐらいなんだから、先輩は相当ご立腹なのかもしれない。
「そんなに先輩怒ってるの?」
さっきから黙り込み、窓の淵に肘をつき外を眺めている司に声を掛けると、
「行きゃ分かる」
そう言ってあたしを見た司は、再び溜息を吐きながらまた視線を元に戻した。
きっと、こっぴどく怒られて、あの杖でビシッと叩かれたのかもしれない。
当然って言えば当然よ。あんなこと、先輩の許可なしに強行しちゃったんだから。
────しかし、その20分後。
先輩の杖の先は、あたしにも向けられていた。
タマ先輩の部屋に入りるなり顔を俯かせてしまったあたし。
「な? 俺が反省した意味分かったろ?」
耳元で呟く司にコクコクと頷き返し、危うく噴き出しそうになるのを必死になって堪える。
「つくし、何笑ってんだいっ!」
やばい、ばれた!
あたしの鼻と杖の先端、その距離僅か10cm。
あ、危ないですから、先輩ッ!
「い、いえ、別に笑ってませ……ぷッ!」
「人の顔見るなり何なんだい!」
「つくしの気持ちも分かる。俺だって夜帰ってきて、この顔見るとマジ焦るぜ?」
あたしに小声で告げた司は、腰を少し屈めて視線を先輩に合わせた。
「なぁ、タマ。化粧するのはいいけどよぉ、口紅がはみ出てんぞ! ついに目まで悪くなったのか? だったら無理すんなよ。益々、妖怪に近付いてんじゃねぇかよ」
「何て失礼な子なんだい! これは、ぷっくり唇を目指してわざと大きくしてるんだよっ! いつ恋人になりたいって連絡が入るか分からないからねぇ。手を抜くことも出来やしない」
なるほど。
いつ恋人候補が現れてもいいように、化粧を怠らないでいるってわけなのね、先輩。
あんな恋人募集怒るかと思えば、案外本人はノリノリらしい。
確かに妖……、これ以上は怖くて言えないけど、司が反省した意味は分かった気がする。
「タマ、だったらよ、ちゃんと鏡くらい見ろよ。天ぷらでも食ったのか? 唇、ギドギトにてかってんぞ?」
司が言い終えるなり、大きな音を立て床に振り下ろされた杖。
「これは、“ぐろすぅ”言うもんですわ。坊ちゃんはそんなことも知らないんですかい。坊ちゃんと違って心優しい椿お嬢様が、つくしとお揃いの“ぐろすぅ”いうのをお土産に下さったんですよ!」
「あ? 俺だって優しいじゃねぇか。棺桶に片足どころか、両足首突っ込んでるタマに恋人探してやってんだからよ」
「全く、いくつになっても口の利き方がなってない子だね! あたしゃ、坊ちゃんとつくしの赤ん坊を見るまで、死にやしませんよ。さっさと子作りに励んで、このタマに抱かせて下さいましよ」
「ふんっ! んなの直ぐに出来るに決まってんだろ。なぁ、つくし?」
いきなりそんな話をあたしに振るなッ!
「いい年して、なに顔赤くしてんだい。いつになったらつくしは成長するんだろうねぇ」
「タマ、心配すんな。いざって時は、つくしも大胆になんだよ……痛てぇっ!」
ここは取り敢えずとばかりに、パンチを繰り出しておく。
蹲ってる司には気にも留めず席に着き、先輩は全員分のお茶を出すと自らも椅子に座り、顔にシワを増やして笑みを浮かべた。
「こんなバカな坊ちゃんでも、子供の頃からお世話してきたからねぇ、あたしにとっちゃ誰よりも可愛いんだよ。その坊ちゃんがやっと結婚出来るんだい。それも相手がつくしとなれば尚更嬉しいのさ。だからつくしも照れてないで、早くタマに赤ん坊を抱かせておくれよ。
この手に抱くことが出来たら、もうこの世に思い残すことなんて、何一つありゃしないんだから」
「……先輩」
言い終えた先輩は、ズルズルとお茶を啜っている。
そんな先輩に、痛みが治まって椅子に腰掛けた司が、いつになく優しい声で、それでいて照れ臭そうにハニカミながら言葉を掛けた。
「子供抱いたからって、ポックリ逝くんじゃねぇーぞ。俺らのガキの成長もちゃんと見ろ。つくしが忙しい時は面倒見てもらわなきゃなんねーしな」
「やれやれ、まだこの年寄りをこき使う気かい」
「あったりめぇだ!…………だから、長生きしろよ」
ぶっきら棒なその言葉に先輩は、それでなくても皺くちゃな顔を一段と崩しながら嬉しそうに微笑んだ。
司が産まれた時から築かれてきた二人の絆。
血の繋がりなんて関係ない。そんなものなくても、二人の間にあるのは確かに家族愛だ。
そしてこの家に、私と言う血の繋がらない他人が、その一員として新たに加わる。
大変な家柄ではあるし、苦労も多いかもしれないけれど、両親の分もタマ先輩が惜しみなく愛情を注いでくれていたことを、大人になって気付いた司と共に、もっと笑みの絶えない家族を作りたい。
幸せを分かち合える家族となれるように。
不安がないと言ったら嘘であったあたしの気持ちは、今、迷う事無く定まった気がする。
こんなにも愛情が溢れているのだから、きっとあたしにとってもかけがえのない場所となる気がしている。
いつかは訪れるであろう別れ。
それでも願わずにはいられない。
誰も欠ける事無く幸せを感じられる時間が、少しでも長くありますようにと……。
「そうですよ! まだまだ長生きして、あたし達の子供の面倒見てくださいね!」
ワンテンポ遅れて大きな声を出すあたしに、
「急にでけぇ声出すんじゃねぇよ」と、驚く司と、
「つくしまで、あたしをこき使う気かい」呆れる先輩。
「だって、大事な家族ですもん! まだまだ元気でいてもらわないと! その為には、生き甲斐があった方がいいんです!」
いつまでも先輩には、元気であたし達を叱りつけながら傍で見守り続けて欲しいもの。
言い切ったあたしの前で、司と先輩は顔を見合わせて笑っている。
その笑顔を見ながら思う。
先輩の生きがいになるだろう私達の子供が生まれてくるまでは、もう暫く時間がかかりそうだから、それまでは、司にお願いして、先輩にプロのメイクさんでもつけて貰おうって。
だって、お洒落は生きる力を与えるって聞いたことあるし、それで恋なんてしちゃって毎日笑って過ごせれば、免疫力は高まるはず。
この年で恋人いるなんて、結構かっこいいかもしれないしね!
思いを巡らすあたしを不思議そうに見つめる大好きな二人に、思いっきり笑顔を振り撒きながら一人胸の内で呟いた。
恋人と言う名の素敵な生き甲斐、本気で見つけちゃいましょうか?
いつまでも若々しく元気でいられるために、素敵な男性を誘惑しちゃいましょ?
その魅惑の唇で……ね、先輩!
fin.

にほんブログ村
最後までお付き合い下さいました全ての皆様に感謝申し上げます。
ありがとうございました!