魅惑の唇 6
慣れないことはしない方が良い。
『今日、泊まってく?』
あんならしくないこと言うべきじゃなかった。そう実感した休日。
あれから道明寺は、あたしと進が住むマンションに泊まっていくことになった。
流石に8年も付き合っていれば、泊まるのが初めてってわけじゃないけれど、私から誘ったのは皆無に等しい。
いつもなら、たまたま仕事が早く終わった司が突然現れて、勝手に今日は泊まって行くと言い出したり、進が泊まっていくよう引き止めたり。
振り返ってみても、あたしから誘った記憶は何処にもない。
それでも、普段なら絶対に言わない事を口にしたのは、一ヶ月ぶりと言うのもあったし、何より誤解が誤解を生み出し、司を失うかもって局面に立たされた時、自分自身の気持ちを改めて思い知らされたからに他ならない。
まぁ、誘ったからには、それなりにこの後待ち受けているのが何なのか、分からない筈もないし、そう願ってもいる自分もいたりなんかして……。って、何言ってんのよあたしったら! と、一人赤面し捲くる30分のバスタイム。
…………なのに。
意外や意外。
先にお風呂に入って貰った司に続いて、入浴を済ませたあたしも部屋に戻ってみれば。
「……嘘?……ね、寝てる?」
セミダブルのベッドの端に寄り、大きな体を横たえている司。
あたしのスペースを空けてくれているのだろう司は、瞳をしっかりと閉じ、一段と目立つ長い睫が、綺麗な顔をより一層引き立たせ眠っていた。
本当に寝ちゃったの!?
それとも寝てるフリ!?
「こらぁー。もしもーし。おいっ!」
ダメだ、反応がない。
男の癖に滑らかな肌をしている頬をツンツン突いてみても、クルクルの髪の毛を、びよーんびよーんと軽く引っ張って遊んでみても、全く起きない。
本当に寝ちゃったんだ。
司が言ってたように、ずっと寝不足だったのかもしれない。
肩透かしを食らった感は否めないけど、寝顔まで綺麗だなんてズルイとか思いながら、思わず見惚れてしまうその姿に、こうして傍にいられるだけでも幸せだと思えるあたし。
顔を緩ませながら、「ごめんね、ありがとう」と、ポツリ呟いてから、その隣に体を滑り込ませた。
ベッドに入った途端、あれ、起きた? と思うほど、当たり前に伸びてきた腕に抱き寄せられ顔を覗いてみるけれど、やはりぐっすりと眠っているらしく、一定したリズムの寝息が聞こえて来る。
無意識に求めてくれたんだ。
そう思うと、顔が緩んでしまうのを止められないあたしは、腕の重みと体温の温もりに包まれて、規則正しい司の心音を子守唄に、久しぶりに安心して深い眠りへと落ちて行った。
────と、ここまでは良い。
この時までは穏やかに流れる時間に確かに幸せを感じていた…………のだけれど。
「ダァーーーーっ!!」
ぎゃっ! な、何? 何が起こったの!?
突然、鼓膜を直撃したのは、この狭い部屋全体を揺らしたんじゃないかってほどの、至近距離から聞こえた耳を劈く音。
休息していた脳内は、想定外の騒音に危険とだけはとりあえず察知したようだけど、己の体を起こす指示を与えるのが精一杯で、一体、この騒音が何なのか。的確に思考をめぐらすには、寝起きの頭では到底無理な話だった。
ダァーーーーッ! って、聞こえたよね?
1、2、3、ダァーーーーっ?
元気ですかーーーーぁ! の、アノ人が脳裏を掠め、それを振り切るように稼動しきれない頭を左右に振ってから、隣にいる司を見た。
「…………えーっと。つかさ?……うっ!」
どうやら騒音の根源は、この男にあり。
それは、険しいこの表情を見れば一目瞭然で、思わず、その形相に怯んでしまう。
「物……」
マネしてないよね? と、訊ねる勇気は維持できず、その言葉を呑み込んだ。
物マネなんぞするような奴ではない。
決して物マネをしていた訳ではないだろう。そう理解すると同時に、囚われたあたしの瞳。
動かしたいけど、動かしたら騒音ではなく爆音が降りかかる事が予測され、眼球から後頭部を貫通しているに違いない鋭い眼差しに射抜かれたあたしは、身動き一つ取れずにいた。
「……てめ」
さっきとは相反する小さく低く発せられた声もまた、人を脅かすのには効果的で、頼んでもいない青筋出現と言うオプションつきにより、この男が相当怒っていることを知る。
「……は、はい?」
怒られる原因に心当たりはないと言うのに、相変わらず存在感があり過ぎるこの男を前にして、自ずと声が小さくなる。
あたしの寝相が悪かった?
それとも、寝言? 歯軋り? いびき?
司が怒ってる理由って……何!?
「てめぇ、何で寝てんだよ」
「えーっと、夜は寝るもんだし、司も寝てたから」
「だから、何で起こさなかったんだっ!」
「起こしたよ……一応」
「じゃ、何で俺は寝てたんだ!」
「いや、それは司が起きなかったからであって」
「はぁーーーーっ。俺とした事が」
これ見よがしに盛大な溜息を吐いた司は、ベッドの上で胡坐をかき項垂れている。
この起伏の激しいテンションに付いていけず、暫しボーッと見ていたけれど、カーテンの隙間から差し込む強い日差しに、一気にあたしの頭は回転し始めた。
ベッドサイドに置いてある目覚まし時計に手を伸ばし、長短の針を急いで確認。
わっ!…………じゅ、10時ッ!
「司! 仕事ッ、遅刻だよ!」
日曜と言ったって今のこの時期、司に休みなんてない。暢気にしていられる時間じゃない事だけは確かだ。
とりあえず、西田さんに連絡入れさせなきゃ!
ローテーブルに置かれている司の携帯を慌てて取り、本人に渡す。
手にした司は、何やら電源ボタン辺りを弄っているようで、もしかしたら充電が切れてしまったのかもしれない。
「あたしの使って早く西田さんに連絡入れて! ほら、早くっ!」
「ったく、うっせーなー」
煩くなーい! つーか、あんたも少しは慌てなさいっ!
司の服をハンガーから外し、用意をさせようと動くあたしに、急ぐ気配の欠片もない声が掛かる。
「おぅ、すげぇー。つくし、見てみろよ」
あたしの前に差し出された携帯。それも司のもの。
なになに? と覗いてみれば、そこには、西田・西田・西田・西田・西田──以下略。
司がスクロールしても出てくる名前は西田さんばかり。
「ホント、すごっ! って、感心してる場合じゃないでしょ! もう西田さん絶対困ってるよ。どうしよう……ってあれ? そう言えば充電切れてたんじゃなかったんだ」
「電源落としてた」
「何やってんのよ! 急な仕事とか、大事な連絡があったかもしれないじゃない!」
「つくしとの甘い夜邪魔されたくねぇから、昨夜のうちに切っといたんだよ。なのに寝やがって………」
甘い夜って……。そりゃ、邪魔されたくない気持ちも分かるけど、だけど、寝やがってって言うなら、それはあんただし。
「顔真っ赤にして何考えてんだよ。期待してた甘い夜のことでも考えてんのか?」
「ち、違っ! 慌てないあんたに顔が赤くなるくらい怒ってんの! もういいから、余計なことばっか言ってないで、とっとと電話しろって言ってんでしょうがっ!」
「ちっ、可愛げのねぇ女」
ふん、うっさい!
不貞腐れるあたしをチラッと見ながら、司が携帯を耳に当てる。
ワンコールも鳴ってないんじゃないの? ってくらいの早さで相手が出たようで、
「俺だ!」と、済まなそうに振舞うどころか、偉そうな一言から会話は始った。
「今日の仕事、全部キャンセルしろ。あぁ? 西田、お前も見ただろ、あの興奮状態のつくしを」
な、なに? こいつ昨夜のこと言ってんの!?
「つくしがあんな状態なのに、俺が普通に仕事出来るはずねぇだろが。能率悪くなるだけだ」
何あたしのせいにしてるのよ!
って言うか、もうあんな状態からは脱却したって、司がよく知ってるでしょうが!
「司、なに訳の分から……っんんッ!」
司の捏造した言い分を阻止しようと大きな声を出したあたしは、腕を引っ張られ、ベッドに腰掛けていたアイツの脚の間に、体がスッポリと嵌ってしまった。
両脚で体を挟まれた挙句、口は手で塞がれ、身動きも取れなければ言葉も発せられない。
それを言いことに、このバカ男は……。
「あ? しょーがねぇだろう? それにな、滅多にないどころか、初めてつくしから誘われたんだぞ? 男として、それに応えるのが義務ってもんだろうが。俺はまだそれに応えてねぇんだよ。そう言う訳だから、邪魔すんなッ!」
なんつー言い訳! しかも、何を晒してんのよ!
そんな理屈が通るはず、
「おう、悪りぃな。じゃ、頼むわ」
って通っちゃうの!? 通していいの!?
つーか通すなっ、西田ッ!…………さん。
何で納得しちゃうのよ、もう少し頑張って司を説得してよ。
こんなんで納得しちゃう西田さんに、あたしは一体どんな目で見られているのだろうか。この先、恥ずかしくて顔を合わせられやしない。
「なに変なこと西田さんに言ってんのよ」
電話が終わり、塞がれてた手が離れると同時に司を睨みつけた。
「変なことは言ってねぇ。事実を言ったまでだ」
「本当だろうが何だろうが、そんなこと人様に言うもんじゃないでしょうが! あたしが変な目で見られちゃうじゃないのよ」
「安心しろ。西田なら元々お前を普通の女だとは思ってねぇよ。それにこの時点で俺と連絡つかねぇんだ。とっくにこの後の調整はしてんだろ」
何ですって!
「普通の女じゃなくて悪かったわね! でもね、そう思われる原因は絶対にあんたにあると思うんだけど!」
「うっせーな。細かいこと気にすんな。それより行くぞ!」
「行くって何処へよ」
「そりゃメープルに決まってんだろ。お預け喰らわせちまったからなぁ、たっぷり奉仕してやんねぇと」
「ひぇ! 結構です。お気持ちだけで充分! お腹いっぱい胸いっぱい!」
「いいからいいから、遠慮すんな」
腰が引けるあたしに意地悪そうな笑みを浮かべる司。
急いで逃げようとしたものの、あっさり捕まり荷物のように肩に抱えられた。
「ちょっと待って! 寝起きだし、化粧も着替えもまだしてないし!」
「車なんだから誰も見てねぇよ。それに、どうせ脱がせんだしよ」
「ぎゃっ! やだ離せ~っ! 獣~っ!」
叫びは空しく響くだけで、バカ男のバカ力には敵うわけもなく車に放り込まれたあたしは、メープルへと連行された。
結局……。
翌朝まで、あたしはメープルのスイートから一歩も出させて貰えない軟禁状態。
『つくしから誘われるなんてなぁ~』と、思い出しニヤつかれること数回。
その度にこの男の餌食となり、合間合間には婚約発表しようと迫られ、
『心配で仕方ねぇんだよ』
甘い声で耳元で囁かれると、相当イカレてるあたしは、猛獣が迷子の子犬のように見えてしまう錯覚に陥り、愛しく思ってしまったのも束の間。
『そう言えば、俺のことよくも疑いやがったな! 何を想像して疑った? 再現しろよ。ほら、そこにしゃがめ』
直ぐにまた獣に戻った司に、
『ここにリップが付くってどんな想像だよ……そのままもっと下に移動しろ。ほら、口開けろって』
とことんお仕置きをされた。
『舌、もっと使って……ぅあ、堪んねぇ……
くっ……すげぇ、いい…………つくし、うっ……』
耳から入る艶のある声は媚薬効果でもあるのだろうか。操り人形の如く操縦されたあたしは、それからも有りと有らゆる体位をとらされ、気分はもう軟体生物か中国雑技団か。
兎に角!
あたしの体と精神は疲労困憊。
限度っつうもんがあんでしょうが! と、怒鳴りたい気力の残滓も奪われた。
こんなことなら、殴ってでも蹴っ飛ばしてでも司を叩き起こして、事は夜だけに済ませておけば良かった、と後悔しても今更遅い。
せめて、同じ過ちを繰り返さぬよう、二度とあたしから誘うまい、と固く心に誓った休日となった。

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