Secret 23
桜子が帰ってからも司はまだ怒っている様だった。
あれから何度となく城崎さんのコメントについては、『私だって理解出来ない』と説明してみても、返ってくるのは『分かってる』の一言のみ。
言葉とは裏腹に、記事を見る前と後では明らかに司の態度は違う。
朝食を一共に済ませ、食後のコーヒーを飲む段になっても、新聞に視線を固定し私を見ようとはしない。
話し掛けても司は口数少なく、気まずい時間を拭えないまま滋さんが来て、司の出社時間となった。
「つくし、何かあったの?」
滋さんも異変に気が付いたのか、司と私を交互に見て聞いてくる。
「ううん。別に何もないよ」
言いたくなかった。
最近、滋さんとの間に溝を感じる。
ふとした時に覚える違和感。司が見ていないところで向けられる言葉の端々や態度に、尖った印象を受ける時がある。
私の方も、司の面倒を見れないとの指摘を受けて以来、滋さんに対してどこか気持ちが怯み、だからこそ余計にそう感じてしまうのだろうけれど、司との遠距離時代にもあった滋さんとの距離感よりも、もっと悪化したように思えてならなかった。
何も言わずに玄関に向かう司の背中を見ながら、私も黙ってその後を付いて行く。
靴を履き終え振り返った司は、苛立ちを逃すように軽く息を吐き出すと、触れ合うだけのキスをして私の頭を一撫でした。
「行って来る」
その声は硬く、向けられた背中に問わずにはいられなくなる。
「今夜は、約束だよね? 絶対大丈夫だよね?」
司は踏み出した足を止めた。
「あぁ」
たった一言の中に感じる声の強張り。
振り返りもせずに出て行った背中に、不安は消えるどころか募る一方だった。
✢
記事を読んでからというもの、苛つきが理性を蝕み、悉く俺の集中力を阻む。
油断すれば脳裏に去来する、他の男に凭れ掛かるつくしの姿。
その度に嘆息し己を落ち着かせようとするが、霧散した集中力をかき集めるのは一苦労で、一向に仕事は捗らなかった。
くそっ!
家では吸わない煙草も今日は何本目か。
気を紛らわすために、また煙草に手を伸ばしてみるが中身は空で、握りつぶしてゴミ箱に投げるも、理性の乱れからか縁に当たっただけで床に落ちた。
苛立ちを抑えられないまま仕方なく目が滑るだけの書類を眺めていると、ノックが鳴る。
「入れ」
入って来たのは滋だ。
「何だ」
「一応、知らせた方が良いかと思って」
重い口調で言った滋は、執務室にあるテレビのリモコンに手を伸ばし、スイッチを入れた。
途端に耳障りな男の声を拾い、一気に頭に血が昇る。
画面には、マスコミに囲まれた城崎甲斐斗が映し出されていた。───気取った面構えを晒して。
『彼女は聡明な女性です。でも時折見せる寂しそうな顔を見ると、守ってやりたいと思うんですよ』
…………ふざけるな!
耐えようのない怒りが底なしに湧く。
「消せ」
「…………」
「消せって言ってんだ」
努めて声音を抑制した二度目の指示で、滋は黙ってテレビを消した。
「何かの間違いだよ」
気を使ってんのか、慰めてるつもりなのか。
当たりまえなことをわざわざ口にされんのも神経に堪える。
当たりまえに決まってる。つくしは、そんな器用な女じゃねぇ。
そんな女じゃねぇが、釈然としねぇのは、あのふざけたヤローの言葉だ。
時折見せる寂しそうな顔ってなんだよ。
俺の前では笑って、あの男にはそんな顔見せたのか?
じゃなきゃ、どうしてあのヤローからあんな科白が出てくる。
「司、大丈夫?」
「…………ああ」
「コーヒーでも淹れようか? 疲れてるみたいだし、たまには甘いものでも……」
「いい。一人にさせてくれ」
「……でも、」
「いいから一人にさせろっ!」
遂には抑制出来ず感情の赴くままに滋を怒鳴りつけた。
滋を追い出し用がない限りは誰も近づけず、しかし、その日の俺は、荒立った気持ちの立て直しを図れないままで、時間だけが無情にも過ぎていく。
片付けなきゃなんねぇ仕事は、いつもの倍以上の時間を要し、気付けば時間は既に21時過ぎ。
今夜は二人だけで過ごす約束の日だ。
だが、俺の気持ちは浮上せず、こんなんでつくしとまともに会話が出来んのかと、自分に自信がねぇ。
勝手なのは分かってる。
たった一度、週刊誌に載ったぐらいで嫉妬に狂うなんて。
つくしは、こんな思いをもう何度も味わってきただろう。
そして、今だって進行形だ。それも過去一の厄介さを以て。
だが、つくしに負担を強いて我慢させてる分際ながら、思わずにはいられなかった。
俺以外の男に寂しそうな顔なんて見せんじゃねぇって。
そうやって隙きを作るから城崎みてぇな男に狙われ、挙げ句、脈ありって思われたんだろうが。じゃなきゃ、週刊誌でもテレビでも、あんな堂々とふざけたことを抜かすはずがねぇ。
そんな苛立ちを抱く一方で、そんな顔を見せたんだとしたら気を許した証拠だと、危機感を覚えずにはいられなかった。
こんなしがらみの多い俺なんかより、別の男に気を移すんじゃねぇかって畏怖まで生まれてくる。
失う恐怖と合わさった感情は泥沼に嵌り、後ろ向きな思考に傾くのは、俺に余裕がないせいか。
大河原の一件に縛られ平常ではない今、どうしたって悪い側面を意識せずにはいられねぇ。
そんな余裕のなさが、つくしの前で露骨に出た。
態度があからさまに変わった俺を見て、あいつは、何を思い何を感じただろうか。
『今夜は、約束だよね? 絶対大丈夫だよね?』
朝のつくしの言葉が蘇る。
つくしは、きっと待っている。信じて待っている。今日と言う約束の日を。
つくしと面と向かえば、嫉妬に駆られてる俺は余計なことを口走るかもしれねぇが、例え、感情のままに何かを言ってあいつを傷付けたとしても、約束をすっぽかして泣かせるよりかはマシだ……多分。
同じ泣かせるなら、つくしの元へと帰った方が……。
感情は不安定に揺れながらも、約束を踏みにじるわけにはいかねぇ、と気持ちを決める。
飲み下せるだけの感情を飲み下し、俺はジャケットを掴むとマンションへと急いだ。
玄関のドアの前。
つくしは何も悪くねぇ。俺が無駄に嫉妬してるだけだ。あいつとの約束を破るわけにはいかねぇ。
暗示をかけるように自分に言い聞かせベルを押せば、間を空かずしてドアが開く。
「お帰りなさい」
内からドアを押し開けたつくしは、俺の顔を見るなりホッとしたように息を吐いた。
「私も今帰ってきたところなの。思ってたより、マスコミのマークがきつくて」
玄関に立つつくしが言うように、本当に帰ってきたばかりなんだろう。手にはまだバッグをぶら下げたままだ。
綺麗に施されたメイクには乱れはなく、高価な服を身に纏い、甘い香りを漂わせているつくしは、モデルの姿そのものだった。
俺が見ても、いや、誰が見ても綺麗だと言うだろう。
この女を、どれだけの奴が狙ってんだ。この女は俺だけのもんなのに。全部俺だけの────。
つくしの顔を見た途端、ドロドロとした黒い感情が渦巻き、モデルとしての姿を剥ぎ取ってやりたい欲求に駆られる。
「痛っ」
気付けばつくしを壁に押し付けていた。
痛がったつくしの声も無視し、ビクリと跳ねた華奢な身体を力ずくで壁に押さえ込み唇を貪る。
この唇は俺だけのもんだ。この小さな手も、透き通った白い肌も、全部、全部、俺だけの。
でも、お前は寂しい顔を他の奴に見せんのか?
そんな顔も俺だけに見せろ。例え、そんな顔にさせたのが俺のせいであったとしても。
お前の全ては俺にある。俺の全てはお前にあるんだ。
それとも、嫌になったのか?
俺といて辛いのか?
もう疲れたのか?
乱れた感情の荒波に呑み込まれ自制が利かなくなった俺は、抵抗するつくしを滅茶苦茶にしてやりてぇと、黒い欲望に包まれた。
────だが。
不意につくしは力を抜いた。
どんな俺でも受け入れるかのように、ただ黙って力を抜き、一切の抵抗を止めた。
以前にもパーティーで『モデル』のつくしを見て、嫉妬に狂ったことがある。
その時も、迸る嫉妬の矛先をつくしにぶつけ、顔を見るなり当たり散らすように乱暴に唇を奪って……。
だが、普段とは違う俺に驚きながらも、あの時のつくしには、まだ余裕があった。
好きだと言って抱きつき、俺を窘める程度には。
今は何も言わずに黙っているだけ。
もう何か言う気力すら失せてしまったのかと、気持ちが竦む。
文句の一つも言わねぇ無抵抗な今のお前に、これ以上何が出来るっていうんだ。
────出来る訳ねぇだろ。
ガン、と拳を壁に打ち付ける。
腕で囲っていたつくしから離れ、行き場を失った感情を壁にぶつけるしかなかった。
「……司?」
怯えたような小さな声で俺を見上げてくる。
昔の影すらない、こんなにも弱くなったつくしを、これ以上苦しめる訳にはいかねぇ。
自分を上手くコントロール出来ない今、傍にいるのは危険だ。
と、同時に、こんなつくしにさせた自分の無力さを痛感せずにはいられなかった。
「悪りぃ。今夜は、メープルに泊まる」
「え?」
「ごめんな」
「そんなに私と居るのが嫌? だったら、そう言えばいいのに。嫌なら私が出て行く」
床に落ちていたバックを掴み、出て行こうとするつくしの手を掴む。
そんなんじゃねぇんだよ。
ただ、俺は。
「違ぇ。これ以上傍にいたら、つくしのこと本気で壊しちまいそうになる。俺が悪い。少し、頭冷やしてくっから。お前はここにいろ、もう遅い」
✢
壊しそうになる?
今までだって嫉妬して、その思いの丈をぶつけてきた事だってあるのに、何で今日に限って出て行くの?
それならいっそ壊してくれても構わないのに。
「約束破って、ごめんな」
司は強張った顔で私の頭をクシャリと撫でると、背を向け玄関を出て行った。
その後ろ姿に声にならない叫びを上げる。
『行かないで。何処にも行かないで』と。
今朝、司の腕に包まれて繰り返した言葉を、胸の中で荒れ狂ったように叫ぶ。
誰もいなくなった玄関に一人。
崩れるように座り込んだ私の頬を幾筋もの涙が伝い、泣き乱れた声だけが哀しく響いた。

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