その先へ 9
医者が帰って静まり返る執務室。
暫くすると、
「本日の業務はこれで終わりです」
女と一緒に入ってきた西田が告げる。いつもより早い時間だ。
「まだいい。仕事持って来い」
「本日、片付けるものはもうありません」
西田の言葉に舌打ちする。
「今日は薬を飲んで、ゆっくり休んで下さい。では、私はこれで、お先に失礼します」
そう言い置いて出て行こうとする女を呼び止めた。
「おい」
振り返ったはいいが、誰が呼ばれたんだか分かんねぇのか。
俺と西田の間をキョロキョロと大きな目を行き来させ、それを西田に固定させると、小鼻を指差し、自分か? と確認している。
西田が頷けば、顔だけ背け面倒臭そうに溜息を吐きやがった。
…………吐きたいのは俺の方だ。
「何かご用でしょうか」
「お前に話がある」
そう告げれば、西田が頭を下げ部屋を出て行った。
無駄な音などない静かな部屋の中、怪訝に見る女を真っ直ぐに見据える。
「おまえ、あん時の女だよな?」
「あの時?……見合いのことでしょうか?」
「違げぇ。高校ン時、俺が入院してた病院や邸にまで押し掛けて来た、あの女だろ?」
女が目を剥く。「ッ! 覚えてたの?」と小さく問いながら。
「見合いの後、思い出した」
驚く表情を隠しもしない女を置き去りに、引き出しから取り出したものを見せ、静かに告げる。
「幾らだ。お前の要求額を言え」
俺の手元にある小切手。
理解が出来ないのか、
「なに言ってんの?」
首を傾げる女に、俺の知らない過去を突き付けた。
「あんたと付き合ってたらしいな、俺は。覚えちゃいねぇけど」
さっきの比じゃなねぇほど、丸くなる女の目。
「そのお前を忘れた俺への仕返しか? 復讐か? だったら、望むだけ払ってやるから金額を提示して、とっとと俺の前から失せろ」
漸く俺が言いたいことを理解したらしい女は、丸い目を落ち着かせる……かと思ったら大間違いだ。
まん丸かったのとは正反対に、目を据わらせている。腕を組むまでに態度もでかい。
「お金なんて要らない。必要ない。てかね、お金で解決しようとする、その金持ち気質に鳥肌が立つわ」
「だったら何が望みだ。言えよ。ババァと組んで、何の陰謀を企ててる?」
「陰謀って、あんた……」
やれやれとばかりに、女は頭を左右に振った。
「何にも企ててないよ。確かに昔、付き合ってたこともあったし、私だけ忘れられたのも事実。だからって、もう12年も前の話だよ? 通り過ぎて来た遠い過去の一つでしかないの。そこに何の思いももうないわよ」
「だったら、お前がうちに来た背景に、結婚を狙ってるってこともねぇんだな?」
「あるわけないでしょうがっ! 泣いて頼まれたってお断りよ! あんたを心配した社長に頼まれて、仕方なく昔のよしみで引き受けただけ。その私のボランティア精神を疑うなんて、割に合わないったらないわよ!」
「ババァが心配? それこそ、疑惑満載じゃねぇかよ」
兎に角……と、溜息混じりに女が話続けた。
「私が邪魔なら、少しでも人間らしい生活を心掛けなさいよね! そしたら、お役御免で消え失せてあげるわよ。…………に、してもさぁ……」
少しだけ前屈みになって、不思議そうに俺を探り見る。
「あんたって、怒ることも忘れたの? 私が知ってるあんたはさ、面白くないことがあれば直ぐキレて、煩せぇ! とか、ぶっ殺す! とか怒鳴っては人や物に当たってさ。今は怒ったりしないわけ?」
「怒鳴って喚けば何か変わんのか? 今はそれすら面倒くせぇ」
瞬きを忘れてるらしい女の、何故か沈んだ様に変わった視線が鬱陶しくて言葉を足す。
「だが、普通にイラつき位はする。例えば、目の前にウザイ女がいる、今のこの状況とかな」
沈んだ様に見えたのは思い過ごしだったか。落ち着きのない女は、瞬時にして落ちそうな目ン玉をギラギラと漲らせた。
「ホント頭くるっ! だったら、あたしをくだらないことで呼び止めるなっ! もう帰る、お疲れさまでした! 今夜は酒なんか飲むんじゃないわよッ! 良いわねっ!」
ガツガツと歩き、重厚なドアが乱暴に閉まる。
…………ドア壊れんぞ、おい。
ドアの向こうに消えて行った女は、最後までがなり立てていきやがった。
結局、時間を潰すあてもなく、邸に帰るしかなかった俺は、いつになく疲労感に包まれている。
あの騒がしい女のせいだ。
喚く女にうんざりしながら条件を見直して。
呪文を唱えられれば『食うから出てけ』と言っても出て行かず、捨てる気でしょ?と見透かされた俺は、結局、弁当を半分も食わされた。
西田も女の味方なのか、頼んでも出てきやしないコーヒーを諦め飲んだほうじ茶に、金切り声で渡された契約書。
でも、その契約書に女の能力を垣間見た。
契約書作成には能力の差が出やすい。
選ばれた文言といい構成のセンスといい、今までになく読みやすかったそれは、優秀だと思わせるものだった。
そんな女の言いなりになっちまった今日1日。
…………一体、何なんだあの女は。
突然覆えされた日常の変化に疲れ、更に睡眠薬を飲めば、久方にぐっすり眠れるかと口に含む。
ベッドに沈めばいつになく早く訪れる、意識が奪われて行く感覚。
夢か現実か移ろう中、顔の見えない制服を着た少女の『道明寺!』と、待ちわびた声に導かれ安息の時に身を委ねた。

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