魅惑の唇 3
「先輩、ご苦労様でした。疲れたでしょうから少し休んだ方が良いですよ?」
あれから程なくして、ハラハラさせられたタマ先輩の取材は、何とか無事に終わった。
ホテルに関してのインタビューが残ってる司だけを残し、あたしは、先に上がる先輩に付いて一緒に部屋まで来ている。
「年寄り扱いするんじゃないよ!」
いえいえ、黄色いちゃんちゃんこが似合うお年なんですから。
「それよりつくし。まだ仕事は残ってるのかい?」
「あとは片付けくらいで、今日は土曜日ですし、このまま直帰になります」
「じゃ、一緒に食事でもしようじゃないか。ここでご飯でも食べながら、坊ちゃんの仕事終わるまで待ってるといいさ」
「いや、でも、」
「ウジウジしてんじゃないよ! 全く、一人でぐだぐだ考えてないで司坊ちゃんと話をおし!」
「せ、先輩?」
「あたしを誤魔化せるとでも思ってるのかい? 悩んでるなら、ちゃんと話をしな!」
そんなに顔に出ていたのだろうか。
でも、確かに先輩の言う通り。このままでいい筈がない。
「先輩、じゃ、お言葉に甘えてそうさせて貰います。片付けだけ済ませてきちゃいますね」
タマ先輩の着替えを手伝ってから、まだ他のメンバーが残っている応接室へと戻った。
「副社長の取材も終わった?」
司の姿が見当たらない応接室を見渡し、後片付けをしていた後輩を捕まえ訊ねる。
「はい、もう終わりました」
既にあの女性の姿もなかった。
「そう。じゃ、さっさと片付けちゃおうか!」
「それより先輩! 聞いてくださいよ。私、凄いの見ちゃったんです!」
根っからの噂好きな後輩は、片付けをしながら目を爛々と輝かせていた。
「何? どうせ社内恋愛のくだらない噂話でしょ?」
後輩の話は、大抵この手のものが8割がたを占めている。
「違いますよ! ちゃんとこの目でみたんですから。しかも、今回は大物です!」
「へぇー、そりゃ大変、もうビックリ」
「何ですかその棒読み! て言うか、まだ何も言ってないんですから、ちゃんと聞いて下さいよぉ! 道明寺副社長の話ですよ?」
その名にピクリと反応して数秒動作を忘れた私は、慌てて手を動かした。
「ふーん。ふ、副社長がどうかした?」
「やっばり聞きたいです? そうですよね! うちの女性社員だけでなく、誰しもが憧れる副社長ですもんね! 男に気のない牧野先輩だって、流石に副社長となれば興味も湧くでしょう?」
「男に気のないって」
「あれ? 先輩、恋人いないでしょ? 浮いた噂一つないし、綺麗なのに勿体無いって、みんな言ってますよ?」
恋人いないって、勝手に決め付けられてたんだ、あたし。
「勿体ないだなんて社交辞令をありがとう。それより、話逸れてるんじゃないの?」
「あ、そうそう。でね、私さっき聞いちゃったんです。副社長の取材が終わって直ぐ、私にトイレに行ったんですけど、帰りに迷子になっちゃって。で、声が聞こえて来たので近付いてみたら、何とあの副社長が、インタビュアーの女性と甘いトークを繰り広げてたんですよ!」
「え?」
「ね? ビックリでしょ? あんなにモテるのに、本命がいるのかどうかさえ分からない謎に包まれていた副社長が、『場所を変えよう。ゆっくり話がしたい』って、言っちゃってるんですもん。こっちまでドキドキしちゃいましたよ!
副社長が恋愛の一つ二つしていないはずないですもん、そろそろ結婚の話が出たっておかしくないし。
それにしても玉の輿ですよねぇ。トイレだけで迷子になるこの家が手に入るなんて!
副社長があの女性を気に入って声掛けたんですかねぇ? それとも、元々付き合ってたとか? どっちにしても羨ましいなぁ。私なんて────」
永遠に続くかもしれない後輩の話に痺れを切らし、片付けも済んだ所で、「ごめん、急ぐからと」と言葉を遮った。
それからと言うもの、ずっと上の空で、気付いたらタマ先輩の部屋へと戻って来ていた。
こんなんじゃ、また先輩に気付かれてしまう。
誤魔化すために、タマ先輩の部屋で料理を作る事で極力会話を減らし、食事の時だけは、先輩に心配掛けないよう努力して、今日の取材や他愛ない話をしながら過ごした。
何だかんだ言っても、タマ先輩も疲れていたのかもしれない。
食事が済むと、口数が少なくなった先輩。
いつ帰ってくるのか分からない司を、一緒になって待たせる訳にはいかない。
勝手にこの部屋で待ってればいい、と言う先輩に、
「道明寺とは、近いうちにきちんと話しますから」と告げ、先輩が布団に入ったのを確認してから、電気を消し部屋を出た。
司、今どこにいるの?
本当に仕事?
こんなことばかりに頭は支配され、体力的にも精神的にもクタクタで、極端に気力が奪われていく。
後輩の話を聞いてからは、司と話をするのが怖いと思ってしまう。
今日、話せないのは丁度良かったのかもしれない。
気持ちを落ち着かせてから、日を改めて……そう思っていた考えは不必要となった。
「来てたのか?」
エントランスへ辿り着くまでもう少しってところで扉が開き、まだ早い時間だというのに司が帰って来てしまった。
「えっと、来てたと言うか、ずっとあれからいたの。じゃあ、あたし帰るから」
「まぁ、待て。折角早く帰って来たんだから少し付き合えよ。それに、お前に話もあったし」
……話?
それが、あたしの想像するものと同じだとすれば、ちゃんと事実を受け止められるだろうか。
「お前、顔色悪くね?」
「……少し、疲れてるだけ」
「メシは喰ったのか?」
「うん、タマ先輩の部屋で一緒に食べた」
「そっか」
心配そうに見つめる司だけど、帰してくれる気は全くないらしく、隣には西田さんがいるというのに、腕をがっちりと捕まれ司の部屋へと連れて行かれた。
司の部屋に入っても、まだ仕事があるのか、西田さんが手帳を広げ何か話をしている。
「つくし、NYへ連絡入れなきゃなんねぇから、もう少し待ってろ」
「うん」
死刑宣告とまでは言わないけど、この待っている時間は緊張に支配されて、自分の体が震えるほど冷えていくのを感じる。
一体、何を司の口から語られるのだろう。
不安だけに飲み込まれていたあたしは、逃げる事も出来ず、西田さんが受話器を渡して、英語で話し出す司をただ黙って見ていた。
流暢な英語で話す司は、頬と肩に受話器を挟み締めていたネクタイを片手で器用に外していく。
そして、ジャケットも脱ぎ捨てた司を見た時、あたしの不安は苛立ちへと変わり、数段飛ばしで怒りの沸点を一気に越えた。
「……最低」
「つくし様?」
小さく呟いたあたしの変わった様子に気付いた西田さんを無視して、
「最低っ!」
司が電話中なのも構わずあらん限りに叫ぶと、部屋を飛び出し、ありったけの体力を使って全力疾走する。
司に「つくしっ!」と呼び止められても、振り向いてなんかやるもんか。
司のバカ! と心で罵り、『何でこんなにこの家は無駄にでかいのよ!』と毒付きながら道明寺邸を後にした。
「……あいついきなりどうした? 一体何があったんだよ」
つくしの変わりざまに見当もつかない司は、つくしの突然の叫びで咄嗟に切ってしまった電話を握り締めたまま、唖然と立ち尽くす。
「司様、……恐らくそれが原因ではないかと」
「あ?…………うおーーーーっっ! あんのバカ女ーーっ!」
西田の視線を追って、どう言う意味かを悟り腹の底から絶叫する。
道明寺邸に響き渡ったそれでタマが飛び起きたことなど知る由もない司は、広い我が家を呪いながらつくしの後を慌てて追いかけた。
何なのよ、あのバカ男!
道明寺邸を飛び出し大通りまで出たところで、流しのタクシーを捕まえ自宅へと向かう。
他の女性と会ってたくせに、何を平然と話があるよ!
開き直って全てを話すつもりでいたってわけ? もう信じらんない!
ミラー越しに運転手さんに見られるかもしれないと思い、俯きながら零れる涙を拭った。
あっという間にタクシーは停まり、お金を払って素早く降りる。
直ぐにでも部屋の中に駆け込みベッドにダイブしたかったのに、それが出来そうもないと察知したのは、マンション横の茂みに立っている人影を見つけたからだ。
もしかして、またあの女性?
数週間前からあたしの前に現れるのは、顔を歪め悔しげな視線を投げつけてくる、あのインタビュアーの女性だ。
文句があるなら訊こうじゃないの。
いいわよ、訊いてやるわよ、上等よ! と、殺気立つのを隠そうともせず近付いて行く。
威勢よく近付いたせいか、あたしに気づいた相手は、ギョッと目を見開いて驚いているけど、それはあたしも同じだ。
どうしてこんな所にいるの!?
そこには、あの女性ではなく、想像もしなかった人物が待ち受けていた。
「牧野、ごめん」
あまりの驚きに思考回路は遮断され、軽い失語症に陥ったあたしの目には、深々と頭を下げる姿がだけが、はっきりと映っていた。

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