魅惑の唇 2
会社の仲間と合流し打ち合わせが済むと、再び戻って来た部屋の前。
取材スタッフの準備が整い次第、司達に声を掛ける為にこの場で待機している。
「牧野先輩、向こうはいつでもオッケーだそうです」
一緒にいる後輩の無線にGoサインが入り、その旨を知らせる為、目の前の扉をノックし開けた。
「失礼いたします。準備が整いましたなら、移動の方宜しくお願い致します」
「あぁ、もう大丈夫だ」
副社長として振舞う司は、数十分前に雄叫びを上げていた人物だとは到底思えない。
「タマ、行くぞ」
司が隣の部屋へと続く境界線で声を掛けると、衣装チェンジをしたタマ先輩が姿を現す。
それにしても、その格好……。
思わず堪えられなくなり、頭を下げる振りをして肩を僅かに震わせた。
「いたっ!」
「牧野先輩どうかしました?」
小さな悲鳴に気付く後輩。
「ううん、ごめん。何でもないの」
痛みに顔を引き攣らせながらも、どうにか笑顔を作り出す。
……恐るべしタマ先輩。
あたしが下を向いたまま笑っているのを見逃さず、目にも留まらぬ早業で、あたしの爪先に狙いを定め、杖で一突きし通り過ぎていった。
頭を上げれば、司がフッと笑みを浮べ、口の動きだけで『バーカ』と言っているのが分かる。
ただの年寄りだと侮るなかれ。司が言うように、やはり妖怪なのかもしれない。
その妖………タマ先輩は、今年数えで御年88歳になられた。
米寿の祝いに合わせ、取材用にと黄色いちゃんちゃんこを用意したわけだけど、同色の帽子までしっかりと被った先輩の姿は、普段見慣れていないせいか、やけに私の笑いのツボを刺激した。
でもきっと世間からしてみれば、いつものメイド服の方が大いに笑いを誘うはず。
ともあれ、どんな格好であろうとも、体は小さく丸まっていようとも、まだまだ元気に歩くその後ろ姿に、嬉しさが込み上げ幸せの笑みが自然と混じってくる。
日頃、口も悪く乱暴者の司も、根は優しい心の持ち主だ。
歩調を合わせ、段差があればすかさずタマ先輩の背中に手を添えて、何があっても直ぐに支えられるように気遣っている。
その二人の姿は、さながら血の繋がっている祖母と孫。
何とも微笑ましく、見ているあたしの頬も更に緩んでいく一方だった。
自分の中にある割り切れない感情も息を潜め、ほのぼのとした時間は、乱れそうな心も穏やかに落ち着かせてくれた。
────この場に足を踏み入れるまでは。
いつも見掛けるのは、あたしの自宅マンション前だ。その人が、まさかこんなところ居るなんて思いもしなかった。
何で? どうしてこの人がいるの?
取材場所となる広い応接室に入った途端に息を呑んだあたしは、一人の人物に釘付けとなる。
目の前には司の背中。その向こう側には、ここ最近、あたしが不安に悩まされる原因となった女性が、にこやかに司と握手をしながら挨拶を交わしていた。
笑顔の合間にその人から送られてくる、敵意剥き出しの視線が痛い。
あたしを見る時だけ、その目は全く笑わず憎しみに満ちている。
ねぇ、司? 今、どんな顔をしてその女性と話をしているの?
挨拶も終わり、セッティングされた椅子にタマ先輩と共に座る司を確認すると、視線はその女性を無意識に追いかけ回してしまう。
………一体、誰なの? 司、どう言うこと?
やっぱり何かあるに違いない。
今すぐ駆け寄って司に問いただしたい気持ちと、何か理由があるはず、と思い込む事で答えを避けようとする自分。
だけど、今は考えるべきではない。
ここは仕事の場だ。チクチクと痛む胸をひた隠しにし、社会人として当然の振る舞いを見せるしかなかった。
それは、相手の女性も同じらしく、数週間前からあたしにだけ見せる顔を消し、穏やかな表情のみへと切り替えた。
「先輩、あのインタビュアーの女性って、どこか先輩に似てますよね?」
「え?……似てる?」
和やかな雰囲気で取材が始まってから二十分は経っただろうか。
カメラマンの背後から取材の様子をあたしと並んで見守っている後輩が、突然そんな事を言い出した。
そのインタビュアーこそが、あたしに憎悪まみれの視線を投げてくる女性だ。
「やっぱり似てますよ」
「いや、似てないでしょ」
認めたくなくて否定してはみたけれど、確かに目元や口元が似てる気もする。
……だからなの?
似てる、と言われたことが、投げつけられた言葉へと繋がる。
『どっちが身代わりなのかしら。あの人は絶対に渡さないから』
数日前、インタビュアーの女性があたしのマンションで待ち伏せをし、睨みつけながら放った科白だ。
「ほら、やっぱり似てる! 笑った顔なんてそっくりですよ?」
「全然、似てないから!」
絶対に認めたくないあたしは、しつこい後輩にもう一度否定する。
「えー、そうかなぁ」
いつまでも煩い。あたしはあたしだっつうの!
仕事中だって事も忘れ、一瞬にして湧いた苛立ちが、司に向ける眼差しに表れてしまったらしい。
あたし今、睨んじゃってた?
運悪く司と目があってしまい、司の眉がピクッと僅かに動いたのが分かった。
慌てて視線を逸らし、せめて仕事中だけは私情は挟むまいと努力するも束の間。
努力せずとも、あっさり取材に意識を引き戻してくれたのは、タマ先輩だった。
「司坊ちゃんが小学3年までは……」
タマ先輩、初めての取材なのに堂々として流石だわ……って、感心してる場合じゃなーい!
小学3年!? 何を言う気よ、タマ先輩!
「小学3年まで、どうだったんですか?」
例の女性が微笑みながらタマ先輩を促す。
「小学3年まで司坊ちゃんは、おね……おね……ゴホゴホッ!」
そこまで言ってタマ先輩は咳き込んだ。
隣にいる司は、
「疲れただろ。もう切り上げて休もうな?」
優しい声で、それでいて焦った様子でタマ先輩に声を掛けている。
「いえいえ、大丈夫です。心配要りません」
そう言うと、タマ先輩はあらかじめ用意されていたアイスティーに口をつけた。
この場で嫌な緊張に包まれてるのは、誰よりも取材慣れしてる筈の司と、その緊張する意味を知っているあたしのみ。
一番落ち着き払って見えるのは、間違いなくタマ先輩で、グラスをテーブルに置くと再び話し始めた。
「司坊ちゃんは小学3年生まで、おね……おね…………おねえ様である椿様の後をくっ付いて離れない、それはそれは可愛らしいお子でありました」
そんなオチですか?
司は顔を横に向け軽く息を吐き、張り詰めていたものを逃している。
それからも先輩は緊張する様子もなく取材はスムーズに進み、いよいよ最後の質問となった。
「最後になりますが、長いこと道明寺副社長を見守ってこられたタマさんにとって、一番嬉しかった出来事を教えて下さい」
「そりゃあ、22歳の時ですよ」
出た、22歳!
タマ先輩の口から飛び出た第2の禁句ワードに、再び嫌な汗が出る。
「22歳と言えば、道明寺副社長がNYから帰国されたのも22歳でしたね? 久々の再会ですし、立派になられたお姿には喜びもひとしおだったのでは?」
「えぇえぇ、そりゃもう、そのサッパリとした顔を見て……」
さ、さっぱり!?
「スッキリとした表情を見て……」
スッキリですと?
「坊ちゃんも、やっと大人になられたのかと、それはもう大いに喜んだものです」
やっと大人にって……何、その意味深発言!
「サッパリ、スッキリ……ですか?」
タマ先輩の真意を拾いきれない女性に、幾分、顔を赤くした司がすかさずフォーローに回る。
「やんちゃして心配掛けた事もありますからね。向こうに行ってから少し痩せましたし、それが大人びて見えたんでしょう」
苦し紛れの言い訳は、言葉は柔らかくとも声音がどこか投げやりに聞こえたのは、多分あたしの気のせいなんかじゃないと思う。
でも、司。サッパリ、スッキリって。あんたも態度に出てたんじゃない!
どれだけ間抜けな顔してたんだか。
でも、その方がいい。本心を隠されるくらいなら、態度に出やすい昔のあんたの方がずっと良かった。
あんたは、分かりやすく反応する単純な男だったはず。なのに、今はどうして?
司の顔を見ても、今は何を考えているのか、あたしにはまるで分からなかった。
ねぇ、司? 司の心は今どこにあるの?
訊きたくても怖くて訊けない問い掛けが、胸の内を駆け抜けた。

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