Secret 22
不意に温かい何かが触れて身じろぐ。でもそれは、驚いただけで不快を抱くものではなかった。
寧ろ、その温もりは心地よくて、離れたくなくて。本能のままに手を伸ばしてしがみ付く。
夢か現実か。二つの狭間でせめぎ合うも、あまりの心地よさに混濁した意識が再び深い眠りへと沈もうとしたその刹那。額に感じる感触を捉え、今度こそ目を開けた。
「…………え。……えーーっ、司っ!?」
いる筈もない司が、私の額に押し当てていた唇を離し、目を開けた私の目には端正な顔立ちのドアップが映る。あまりの驚きに一瞬にして意識は覚醒した。
「朝から元気だな。耳痛ぇよ」
「な、何でいるの? え、約束って夜じゃなかったの?」
今日は待ちに待った約束の日だ。
「可愛い奥さんの顔見に、帰ってきちゃ悪りぃか? 午前中、少しだけ時間出来たから、つくしの朝飯食いたくて帰って来た。今夜もちゃんと帰ってくっから」
事情をどうにか飲み込みんだ私は、改めて司に抱きつき、思いを吐き出した。
自分をさらけ出すと決めたせいか、積み重なった不安が這い出るように、私の口を止まらなくさせる。
「行かないで。何処にも行かないで」
と、何度も何度も。
何も言わずに聞いている司は、抱きしめる力を強めて髪を撫で続け、何度目かの私の呪文のような「行かないで 」の後、漸く口を開いた。
「二人で仕事休んで、どっか行っちまうか」
「え?」
思ってもいなかった返しに、やっと自分の迂闊に気付く。
幾らなんでも言葉が足りなさすぎた。
「誰にも邪魔されないとこ、隠れちまうか」
隠れるだなんて司には似合わない行為だ。
常に堂々としている司とは対極にある不釣合いな行動なのに、それを、言葉が足りなかったばかりに言わせてしまうなんて、愚かしいにも程がある。
「ううん、仕事は休んじゃだめ。私も休めないし」
「んだよ。お前が何処にも行くなって言ったんだろ?」
「ごめん。まだ寝惚けてたのかも。それに、今夜だって二人で過ごせるんだし。ドタキャン無しだよね?」
「約束する。ドタキャンなんてしねぇよ」
「だったら、ちゃんと仕事しなくちゃね。簡単に休める立場じゃないし、お互いにね。夜、ちゃんと話そう?」
「あぁ、分かった」
司らしさを奪ってまで雁字搦めにしたいわけじゃない。私が求めているのはそこじゃない。
物理的な距離ではなく、目に見えない気持ちの行方が不安だった。
この先に障害があったとして、気持ちはさ迷わずに私の元へと帰ってきてくれるのかと、付き纏う不安を払拭出来ない弱い心が言わせた言葉だ。
──行かないで、何処にも行かないで、と。帰って来る場所はここなのだと、乞い願わずにはいられなくて……。
「なぁ、つくし。まだお帰りのキスも、お早うのキスもしてねぇんだけど」
私が返事する間もなく司の顔が近づいてくる。
一つ、二つと、軽く唇を重ね合わせた、お帰りのキスと、おはようのキス。
舌を差し込まれた理由なき三度目の深いキスに浸れば、やがて当たり前のように動き出した司の手は、私の身体を隈なくなぞり始めた。
意思を以て動かされるその手がパジャマの中を潜り、私が翻弄され始めた時。部屋にベルが響き、互いの動きがピタリと止まる。
「司、今チャイム鳴ったよね?」
「……いや、聞こえねぇ」
動きが止まったからには司の耳も音を拾っただろうに、どうやらそれをなかったことにするつもりらしい。
司は再び手を動かし始めるけど、この間にもチャイムは連打の嵐で、どうしたって私の意識は訪問者へと向かってしまう。
「司、誰か来たってば!」
「来てねぇよ。気のせいだ」
ピンポンダッシュの勢いで鳴らされているこの状況が、気のせいですと!?
「司! 何かあったかもしれないでしょ? 早く出なきゃ」
胸の上に置かれた司の手を叩く。
「あっー、くそっ! 何だってこんな朝っぱらから!」
そうは言っても家に来る人物なんて決まっているわけで、しかも早朝からなんて絞られるのは二人だけだ。
「どっちだろ?」
「三条だろ。俺はまだ時間ある。なのに邪魔しやがって!」
そうブツクサ言いながら、
「三条なら、お前に話があんだろ。着替えとけ」
ベッドから降りた司は、鍵を解除するために部屋を出ていった。
✢
全く、早くから出没すんじゃねぇよ。
イラつきながら無言で2箇所のオートロックと玄関の扉を解除する。
入って来たきゃ勝手に入って来い。
間もなくして、勝手に入って来た三条のでかい声が響いた。
「せんぱーい! 先輩ってばっ!」
ったく、何で朝からこうも馬鹿でかい声が出せんだよ、つくしも三条も。
勢いよく扉を開け入って来た三条は、俺を見るなり、その足も声もピタリと止めた。
「朝っぱらから喧しいな。何かあったんかよ」
「ど、道明寺さん! 何でいるんですか?」
「居ちゃ悪りいのか。俺んちだ」
「いや、そう言う訳じゃないですけど……」
珍しく歯切れの悪い三条を怪訝に見ると、その手には一枚の紙が握られていた。
「んだよ、それ」
「こ、これは……、」
明らかに様子のおかしい三条が持つ紙からは、つくしの顔写真がチラリと見え、俺は強引にそれを奪った。
「道明寺さん先輩は?」
「何だよ、これ」
「あの、先輩は?」
「あっ? 今、着替えてる。それより何だって聞いてんだこれは!」
三条は「はぁ」と溜息を一つ落とした。
「どうせばれるんだし、しょうがないですよね」
開き直ったのか、俺にソファーに座るよう促すと、自分も向かいに座って淡々と話し始めた。
「先輩の記事です。今日、週刊誌にそれが載ります。もう防ぎようがなかった。狙われていたんでしょうね」
「狙ってただと? 幾ら狙ってたからって、何でこんな写真が撮れんだよ!」
「司、大きな声出してどうしたの? あ、桜子おはよう」
着替え終えてリビングに入ってきたつくしは、三条に挨拶すると俺の顔を覗き込む。
「先輩、おはようございます。道明寺さんが怒っているのは、その記事を見たからですよ。今日、先輩と城崎甲斐斗の記事が週刊誌に載ります」
「え? 何よ、これ?」
俺が持っていた紙を手にしたつくしは、大きな目を最大限に見開いた。
「それはこっちの台詞だっ! どういうことだ。何でこんな男と抱き合ってんだよ」
「あ、これはね、……その、この前、……」
たどたどしいつくしの話に業を煮やしたのか、三条が口を挟む。
「先日、仕事のスタッフ達と飲みに行ったんです。そこで先輩が貧血で倒れて城崎甲斐斗が支えてくれただけですよ。疚しい事はありません。ね、先輩?」
「そうなの。ごめんね、司」
倒れただと?
一気に自分の血の気が引く。
「大丈夫なのか?」
「うん、体調は本当に大丈夫。もうすっかり元気だし」
つくしの顔を見ても、確かに今は具合が悪そうには見えない。
ホッと胸を撫で下ろすも、安心すればするで苛立ちが増幅する。
体調を崩したつくしを、善意で支えたとしてもだ。他の男がつくしに触れたという事実だけでも嫉妬心を掻き立てられるのに、それだけじゃ済まねぇものがここにはある。俺の神経を逆撫でするもんが。
「つくし。じゃ、これはどういう意味だ」
三条が持ってきた紙は、週刊誌に載る全文コピーで、その記事の中にはご丁寧に城崎のコメント付きだ。
その一文を指先で叩きつくしに突き出した。
【僕にとって大切な人です】
「いや、こんなこと言われても、私だって困るし」
眉を下げたつくしを見かねてか、また三条が口を挟んだ。
「先輩は利用されただけだと思います。今度、彼が主役の映画が公開されるので話題が欲しかったんでしょう。前作が不評だっただけに巻き返しを狙ってるのかもしれません。大手事務所の息子でも、人気ばかりはどうにもなりませんし。
でも、やはり相手が悪すぎる。相手の顔を潰すわけにもいかないし、ここはノーコメントで通します。
今日はスタジオ撮影のみですけど、明日は新作コスメ発表の公の場に出なくてはいけません。沢山のマスコミに囲まれますけど、ノーコメントで通して下さい。いいですね、先輩?」
「うん、わかった」
眉根を寄せ困惑を隠せない顔のつくしは、三条の指示に大人しく頷く。
「じゃ、私は一度事務所に顔を出してくるので、時間になったらまた迎えに来ますね。道明寺さん、先輩のこと苛めないで下さいよ? 今日をずっと楽しみに待っていたんですから」
三条は用件が済むと、『何かしたら只じゃおかない』と目で訴えるように、最後は俺を睨みつけながら出て行きやがった。
つくしを信じてないわけじゃねぇ。
だが、自分でもどうしようもねぇ激情の波が、俺の理性を浚っていった。

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