Category: エレメント 1/2
エレメント 1

───ドクン。心臓が体に悪い跳ね方をする。息も一瞬止まった。全身の血が一気に足元に落ちていくようだった。大脳皮質に収められていた過去の記憶が、目まぐるしい勢いで甦ってくる。身を翻し踊り場の壁に咄嗟に隠れたつくしは、支離滅裂に思考を積み上げた。こんな所に居るはずがない。何かの間違いだ、疲れているからだ、階段を一気に三階まで駆け上がって来たせいで、脳に酸素が行き渡らずに見せた幻覚だ。呪文のように事態を否...
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エレメント 2

玄関で自分に渇を入れてから、一直線に向かった先はキッチンで、水を入れた電気ケトルをセットする。沸くまでの間もじっとはしていられない。暖房を入れ、リビングに置いてあるお気に入りのアンティークポールハンガーに脱いだコートを掛けて、今度はバスルームに向かわなければと、無駄なく動線を進む。取りかかるべくは風呂掃除だ。隅から隅まで丁寧に磨き上げ、終わればお湯張りの自動スイッチを押し、つくしは腰を叩きながらま...
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エレメント 3

居ても立っても居られず、キッチンへと引き返そうとすれば、「こっち来んじゃねぇぞ。大人しく座ってろ」威嚇じみた声が飛んで来る。流石は野生の勘を持つ男。こちらの気配に敏すぎる。仕方なくソファーに座ったものの心配しか生まれず、そわそわと落ち着かない。「鍋はどこだ。うん? これが鍋か?」訊こえてくる独り言がこれでは、不安の加速度は増すばかりだ。鍋の判別すら怪しいのに、大丈夫なのだろうか。「湯煎? 湯煎って...
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エレメント 4

結局、司は余計なことは何一つ声に乗せなかった。チラチラと何度もこちらを窺う様子は見せたものの、互いに何も語らず黙々と食べ、『ご馳走さまでした』『おぅ』交わした会話は完食後のこれだけで、ただただ静かな夕餉(ゆうげ)となった。『美味しかった』などの社交辞令一つも言わない愛想なしの女に、司は気を悪くした風でもなく文句一つ付けてこない。どころか、食後に下げた食器を洗おうとすれば、「手伝う」と、仰天の気遣い...
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エレメント 5

予定より早く起きたつくしは、胸に抱えた錘のような重みを誤魔化したくて精力的に動いた。洗濯機を回し、その間に朝食と司用の昼食作りもやっつけてしまう。一日中晴れの予想である天気予報も確認済みで、シーツがあるために2回回した洗濯物も、天気を気にすることなくベランダに干した。流石に自分の下着だけは他と同じようにベランダに干すわけにはいかず、司の視界から守るように、風呂場の乾燥機機能頼りだ。過去に何度も見ら...
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エレメント 6

残業もなく約束の時間よりかなり早くホテル周辺に着いたつくしは、正面玄関には向かわず、ホテル内の庭園に繋がる門から入ることにした。このホテルは広い庭園が売りの一つだ。庭園をゆっくり散策しながらエントランスを目指せば、時間を潰せる。それに、都内とは思えない自然美が、気持ちを落ち着かせる効果を齎(もたら)してくれるかもしれない。小路を寄り道しながらのんびりと歩く。ぽつぽつと咲き始めた椿を見つけては立ち止...
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エレメント 7

静寂(しじま)が二人を包んだかに思えた。けれど、「何を言うかと思えば、馬鹿かおまえは!」沈黙を簡単に司が払いのける。「俺が死ぬわけねぇだろうが。そんなくだらねぇこと言うくらいなら体調は大丈夫そうだな。ったく、心配して損したじゃねぇかよ。俺は風呂入ってくっから、おまえはとっとと寝ろ」はぁ、ったくよ! と、わざとらしい溜息をつくしに聞かせ、司はリビングを出て行った。司が現れた瞬間から、つくしの頭には司...
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エレメント 8

8年ぶりに見上げたビルは、あの頃と何も変わらず、今も堂々とそこに聳(そび)え立っていた。また訪れることになろうとは⋯⋯。8年前。道明寺HDは苦境に立たされていた。司の父親が病に伏せた中で迎えた難局。それを乗り越える方法が司の政略結婚であり、少なくともあの頃は、それ以外の策を見つけだせなかったのだと思う。────8年前のあの日は、本格的な暑さを迎える前だった⋯⋯。道明寺HDは、M&Aの失敗により巨額の損失を計上。足元...
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エレメント 9

「約束が違うじゃないですかっ!」西田に先導され、8年ぶりに足を踏み入れた道明寺HDの社長室。デスクに座る楓の前に立つなり礼節をすっ飛ばしたつくしは、噛み付くように怒声を響かせた。「どうしてよ! どうして今更道明寺が⋯⋯!」司が現れてからというもの、つくしは恐怖に包まれ生きた心地がしない日々を過ごしている。もしかするとこの人は、もう二度と手の届かないところへ行ってしまうかもしれない。そう思うと、真実を突...
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エレメント 10

口を閉ざし、動きを止めた司に思う。あんたの決断は絶対に間違っている、と。楓や西田がどれだけ心配し、苦悩しているのか分からないのか。自分の人生だから命を削っても良いなんて理屈は、親しい者たちに優しくない理屈だ。自分の命を削る行為は、司を思う者たちの心も削る。命の全てを削り落とされたとき、その者たちは、悔やんでも悔やみきれない後悔を抱え、傷を負った再生の利かない心を引きずりながら生きていくことになる。...
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