ご挨拶とお願い
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【Once more】は、花男(CPつかつく)の二次小説置き場となっております。
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このようなものに抵抗のある方の閲覧はご遠慮下さい。
あくまで個人の趣味である妄想であり、拙文ではありますが、無断転載・二次転載・お持ち帰り等はお断り致しております。
尚、誠に勝手ながら誹謗・中傷等も一切受け付けておりません。返信も出来かねます。
恐縮ではありますが、どうか予めご了承頂いた上でお付き合い下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。
つかつくの幸せを願いながら、皆様と楽しい一時を過ごせたら嬉しく思います。
葉月

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Lover vol.31
組んでいた長い足を解き、立ち上がった司が吐き出したのは、
「決まってんだろ。そこにいるバカ女の態度にだ」
聞く者を怯えさせる声に乗せた、悪罵。
バカ女って⋯⋯牧野のことか?
愛する女の間違いじゃなくて!?
決して小心者ではなく、ただ心配性なだけである俺は、雲行きの怪しさに、ぶるっと身を震わせた。
Lover vol.31
ゆっくりと牧野に近づく司。
その気配に気づいた牧野は、食事こそ止めたが、コーヒーを飲む余裕はあるらしい。
テーブルを挟んだ至近距離。物怖じせずにコーヒーを啜る牧野を、司は鋭い眼光で見下ろした。
「気に入らねぇな」
「⋯⋯」
「俺に対する澄ました面も、尖った科白も、何様だ、おまえ」
「⋯⋯」
⋯⋯マズい。
完全に司の怒りがトップギアに入っている。
一瞬にして暗雲が漂い、静まる空気がひやりとしたものに変わる。
体感温度が、マイナス五度は絶対に落ちた。
「その気取った面の下に隠してんのは、怒りか? 憎しみか? あぁ、それともアレか。振られた女の、つまんねぇプライドってやつか」
「司、言い過ぎだ!」
悪し様に言い放つ司に、堪らず止めに入った俺に返ってきたのは、
「てめぇは黙ってろ」
人を寄せ付けない、切れ味抜群の威嚇。周りの者も揃って顔色を失くしていく。
司のヤツ、本気も本気、マジ切れだ。
つーか、おまえ牧野に惚れてんじゃなかったのか? 惚れた女を馬鹿にしてどうするよ! と思いながらも、それすら口に出せない。
静まる冷たい空気を、凄みのある声だけが震わせる。
「そりゃそうだよなぁ?」
目を細め、見下したように口の端を釣り上げた司の冷淡な笑み。
「おまえ、俺に無残に振られたもんな」
牧野は持っていたカップを静かに置くと、見下ろす司の目とガッチリ合わせた。
バチバチと火花さえ見えそうなぶつかり合う視線。
目だけで疎通を図った俺と総二郎と類に一気に緊張が走り、万が一暴れたら、命がけで押さえつけるつもりで司に近づく。
「振られた男の前じゃ、余裕気取りてぇっつう、くだらねぇプライドだろ?」
「⋯⋯」
「何てことありませんみてぇな顔しやがって、良い女にでもなったつもりか? 笑えんな」
「⋯⋯」
「その男に、もう一度告られて、振って、どうだ? 仕返しできて、さぞかし気分いいんじゃねぇの?」
告ったのか。
で、振られて逆上し、腹いせに誹謗の連打!?⋯⋯最低なんだが。
「庶民派上がりの安い自尊心も満足したろ」
「⋯⋯」
「何なら、その自尊心をもっとくすぐってやってもいいぜ?」
「⋯⋯」
「捨てた女に対する慰謝料代わりに、跪いて縋ってやろうか? それとも⋯⋯、」
前屈みになった司が手を伸ばし、牧野の顎を掴んで持ち上げたのを合図に、
「甘い言葉でも囁いて、キスでもお見舞いしてやろうか?」
これ以上は本気でマズい、と俺たちが動き出したときだった。それより先に、牧野の細い腕が素早く動く。
顎を掴む手を振り払い、立ち上がって高々と持ち上げられた手。それは、司へと向かって容赦なく振り落とされた。
乾いた音が盛大に響いたのは、手加減が一切ない牧野が繰り出した平手打ち。
と同時に、総二郎と俺で、両サイドから司の腕を拘束する。
こちら側に付くと思っていた類は、いつのまにか牧野側にいて、二人でこのバカを抑えきれんのかよ!と焦りながらも掴む手に更なる力を加えた。
「ふざけんじゃないわよっ! あんたに侮辱される覚えはないわっ!」
「⋯⋯」
「最低男に成り下がったあんたに、馬鹿にされる筋合いはないのよっ!」
遂にキレた牧野の怒声が耳を劈く。
当然だ。牧野が怒るのも無理はない。殴られたって仕方ねぇよ。それだけのことを司は言ったんだから。
だからここは、黙って潔く殴られとけ!
絶対に怒り狂うな!
反撃とか考えんじゃねぇぞ、頼むから!
腕を掴みながら必死の念を送る。
――その念が届いたのだろうか。
掴んでいる腕は、全く動きをみせない。力すらも伝わってこない。
それどころか⋯⋯。
「⋯⋯⋯⋯くっ、くくく」
殴られた衝動で、顔を右下に傾けていた司から聞こえてくるのは⋯⋯わ、笑い声か!?
顔を持ち上げ真っ正面から牧野を見た司は、
「おまえ、ちゃんと怒れんじゃん」
さっきまでの悪魔顔はどこへやら。嬉しそうに屈託なく笑っている。
「ムカつくときはムカつくって言え。怒ってんなら怒りゃあいい。それでこそ牧野つくし、だろ?」
――――まさか、わざと牧野を?
だとしたら大成功と言わざるを得まい。顔を真っ赤にし、怒りと悔しさで歪む牧野の顔を見る限りでは。
「つーか、おまえらいつまで掴んでんだよ。痛ぇだろうが」
ジロリと睨まれ「あ、悪い」と思わず謝り総二郎と同時に手を離せば、ドカンとソファーに座った司は、牧野が飲みかけのコーヒーカップに手を伸ばす。
「甘めぇなこれ。牧野、どんだけ砂糖入れたんだよ」
勝手に人のもんを奪いながらいちゃもんまで付けた司は、それでも全部を飲み干した。
「滋、もう一杯コーヒーくれ」
「りょーかーい!!」
嬉しそうに跳ねながら近づいた滋にカップを渡す司の左頬には、くっきりはっきり真っ赤なもみじ。
うっ⋯⋯、痛そうだ。
「牧野、さっき言ったのは全部嘘だからな、気にすんなよ」
真っ赤に腫れた自分の頬は気にも留めず、さらりと言う復活猛獣。
だがな、今更気にするなと言われて、納得するヤツがどこにいる?
おまえの態度で体感温度上げたり下げたり。
今度は、メラメラと怒りの炎を燃やす牧野の熱で、急激に温度が上昇したじゃねぇかよ。
一体、これをどうやって鎮めるんだ!?
「あんた、あたしを馬鹿にしてんの?」
「してねーよ。おまえの怒りも恨みも、俺は全部受け止める。愛情も受け取る気満々だから、早いとこさっさと寄越せよ?」
「⋯⋯⋯⋯ざけんじゃないわよ」
俺には聞こえた。
小さくとも俺にははっきり聞こえたぞ!
気圧の下がった牧野の本気の怒りの声が!
牧野の握りしめた拳はわなわなと震え、吊り上がった眉はピクピクと痙攣止まらず⋯⋯って、やべぇ! 牧野が目にも留まらぬ速さで動きやがった。
司を抑える必要がなくなったと思ったら、今度はこっちかよ!
「牧野落ち着けっ!」
「殺す気かっ!」
俺と総二郎の声が重なり、慌てて牧野へと駆け寄る。
近くにいた類は、止めようともせず全くの役立たず。寧ろ、敢えて止めないでいるようにも見える。
完全に目が据わった牧野の両手は自らの頭上。
その手には、一人掛けのソファーがしっかりと持たれていて、流石にそれを投げつけられてはヤバいと、総二郎と一緒に取り押さえた。
女のくせして、どんだけ馬鹿力なんだよ。
呆れると同時に、ソファーを奪ってホッとする俺たちの前では、
「司、お待たせ~」
「おぅ、サンキュー」
何事もなかったように、滋からカップを受け取り、優雅にコーヒーを啜る諸悪の根源。
武器を失くした牧野は、恨みやら憎しみやら殺意やら⋯⋯。
おまえが望む愛情とやらは、今んとこ微塵も放出されてねぇぞ! と忠告してやりたくなるほど、黒い感情総出演の眼光ビームで司を睨みつけている。
怒りを滾らせたギラギラした目は一点集中、冬眠から目覚めた猛獣に向けたままで、
「⋯⋯滋さん」
出てくる声は異様なまでに低い。
「ここまで昔を真似るなら、用意してあるんですよね?」
「うん? なんのこと?」
「港で道明寺を刺してくれる人」
「えっ⋯⋯、いやぁ、流石の滋ちゃんも、それはちょっと⋯⋯。あはは、参ったな」
遂には、シャレになんねぇことまで言い放つ。
滋の苦笑を見て、『ちょっと言い過ぎたかも』と思ったのか、一瞬だけ硬い表情が解けたのを俺は見逃さなかったが、しかし、牧野も引くに引けなくなったんだろう。
自分の失言よりも怒りを優先させたらしい。
「どうせこんな男、刺されても死にやしないわよ!」
「んなこと言って、道明寺死なないでー、ってボロボロ泣くくせに無理すんな」
⋯⋯司、悪いこと言わねぇから黙っとけ。
「誰が泣くかっ、自惚れるんじゃないわよ!」
「まぁな、俺も泣かせたくねぇし。たとえ死の淵に落とされたとしても、おまえのために這い上がってきてやるから安心しろ」
猛獣だけじゃ飽き足らず、ゾンビにだって躊躇いなく化けられるらしい男の異色の愛の告白に、感動する女はここにはいない。
「這い上がってくんなっ! あんたみたいなバカ男、刺されて記憶でも何でも消しちゃえばいいのよ!」
「二度も同じ失敗すっかよ。他の奴らは忘れても、おまえだけは忘れねぇ、絶対に」
「忘れて! つーか忘れろっ! 宇宙の遙か彼方、あたしの記憶だけブラックホールまで飛ばして消し去れっつーの!」
⋯⋯⋯⋯放っとくか。
好きな女の前では、ダチを忘れても胸も痛まないらしい友達甲斐のない親友と。怒りが頂点を超えたあまり、発言が幼稚化していくもう一人の親友。
クールに決めていた女の姿こそが、遙か彼方、宇宙の塵となって消えた模様。
二人のいつまで続くかわからん悶着に付き合いきれなくなった俺たちは、「司、完全復活!」 と、喜ぶ滋の言葉を合図に、それぞれがソファーに座り勝手に寛ぎ出す。
つーか、久々に見る奴らの言い合いに懐かしさを覚え、こっそり笑みが零れたのは秘密だ。
「おぅ、好きなだけどんどん喚け叫べ。どんなおまえでも、俺の愛情は全く変わんねぇからよ」
「少しは大人になったかと思えば大間違い! あんた、昔より更に輪をかけてバカになったんじゃないの? そんな救いようのない男、誰が好きになるもんですか!」
「心配すんな。ぜってぇおまえを振り向かせてやるからよ」
「いい加減にしてっ、この自己中男!」
「何かいいな、こういうの。すげぇ、生き返った気がする。牧野もそうじゃね?」
「冗談でしょ! 地獄に引きずり込まれた気分よっ!」
「牧野、俺は全力で行くからな」
「来ないで、絶対来るな、近寄るなっ! あたしの人生に関わらないでーっ!」
「逃げんじゃねーぞ。覚悟しとけ」
「人の話を聞けーーーーっ!」
多分、恐らく、いや絶対。
ガキ臭い言い争いだと気づかない二人は、止め時も掴めやしないんだろう。
終わりの見えない騒音に、軌道修正でも加えてやろうかと思うお人好しも、残念ながら見当たらない。――勿論、俺も含めて。
司が暴れない限りは、ささやかながら牧野に声援を送るから、それで勘弁してくれよ。――――なんて他人事のように余裕かまししていたから下った罰なのか。
「しょーがねぇだろ。俺とおまえは関わり合う運命にあんだよ。俺だって一度は諦めたつもりでいた。けどよ、あきらからおまえの話を聞いたら、もう無理だった。自分に嘘はつけねぇよ」
「ブホッ!」
突然に自分の名が躍り出て、飲みかけのコーヒーが気管支に入り噎せ込む。
馬鹿ヤロー!
こんな場面で俺の名を出すヤツがいるかっ!
牧野が、ギシギシギシと、錆びついたブリキ人形のような硬い動きで俺の方へと振り向く。
これでいつ終わるともしれなかった言い争いも、無事軌道修正完了⋯⋯、なんて呑気なこと言ってる場合じゃない。
細まった牧野の視線が危険すぎる。
これは完全なる八つ当たりの巻き添え事故だ!
「ちょ、待て。牧野、落ち着け!」
身の危険を察知した俺は、いつでも逃走できるよう立ち上がり、座っていたソファーの背後に回る。
「ふーん、美作さんが余計なことを言ってくれちゃったわけ?」
「いやいやいやいやいや⋯⋯」
「この前会ったとき、確かボランティアとか言ってたわよね? まさかそれが、この計画のことだったとはねぇ」
違う、とは言えない。
まさにその通り過ぎて、ピキーンと硬直する俺に浴びせられるのは、鼓膜が震えるほどの牧野の怒声。
「何がボランティアよーっ! あたしにとっちゃ罰ゲームだっつーのっ!」
何で俺にだけ皺寄せが来るんだよ!
ここにいる全員が共犯者だろうが!
なのに、どいつもこいつも揃って知らぬふり。
視線で救いを求めても、
「今度は俺も泊まりがけで旅行してーなー」
とは、相棒の危機を無視した総二郎の言。
「みんなで行ったカナダとか懐かしいですよね」
優紀ちゃんまで、そりゃなくね?
「えー、ずるい! 滋ちゃんもみんなでカナダ行きたい!」
おい、実行犯なら少しは責任感じろ!
そして桜子。
俺を見てくれるだけ他の奴らよりはマシだと思うべきか⋯⋯。
だがな、こんなときに無意味なウィンクなんていらねぇんだよ!
残るはただ一人。
両手で持ったカップに、ちびちび口をつけている、そこの類くんよ?
こんな時でも呑気に抹茶ミルクか?
そもそもおまえが黒幕だろうがよっ!
「牧野、聞いてくれ! 俺は類に嵌められたんだっ!」
よし、言ってやった。言ってやったぞ!
「類が?」
うんうんうん、と頷けば類を見る牧野。
視線を向けられた類は、首をコテッと傾けると、天使の微笑みってヤツを瞬時に作りやがった。
「類、それ美味しい?」
「うん、牧野も飲む?」
「うーん、じゃあ後で」
なに平和に会話してんだよ! そうじゃねぇだろ!
類の微笑みにやられてないで、黒幕に厳しい追求をしろ!
「類! 牧野とイチャつくんじゃねぇっ! 牧野も微笑みかけてんじゃねぇよっ!」
司、おまえも面倒くさいヤキモチなんか焼いてないで、俺の危機的状況を少しは心配しろ。
見てみろ、おまえが余計な口を挟むから、仁王立ちしている牧野の目つきが、一段とガラ悪くなったじゃねぇかよ。
「美作さん? 類のせいにしないで、責任持ってこのバカ男を説得して」
人のせいにしてるのは、間違いなくこいつらだ。そう反論したところで、信じてもくれなければ、同意してくれるヤツもいない。
俺は悟った。我が身を守れるのは、自分自身だけなのだと。
周りからの援護は諦めて、ここはこれ以上、牧野の神経を逆撫でしないよう、司の説得に回る。
「まぁ、司、アレだ。おまえの気持ちも分かるがな? なんせブランクがありすぎだろ。そりゃ、牧野だって戸惑うって。
高校生のガキじゃねぇんだし、ここは大人の余裕ってやつで、まずはゆっくりと離れていた時間を埋めていく方がいいんじゃないのか?
それにな? 司が思ってる以上に牧野は色気ないぞ? さっきだって、こっちがビックリするぐらいの姿で帰ってきたんだぞ?
ガニ股、大股、挙げ句の果てに、足をこれでもかってくらい押っ広げて、まるで力士のしこ踏みだ。ありゃ、完全に女を捨ててると言ってもいい。あの姿を見たら、司だって100年の恋も、いや1000年の恋だって一気に冷めるってもん⋯⋯⋯⋯あ」
自己保身のために必死になりすぎていたらしい。
夢中で喋るあまり、吊り上がっていく牧野の目を見ていなかったのも俺の落ち度だ。
司の暴走を抑えることが我が身の安全に繋がると思っていた俺は、夢中になりすぎたあまり無意識に触れてしまった。
正確な女子力論評が、悪口と受け止められてしまった、牧野の逆鱗に⋯⋯。
「みーまーさーかーーっ!!」
果たして俺は、牧野に追いかけられる羽目となった。
逃げながら類の背後を通れば、「あきら、最後までご苦労さま」と、天使の笑みを持つ悪魔からの労いを聞いた俺は、諦めの境地ながら切に願った。
牧野、生け贄になってくれ、と。
うちの猛獣は肉食獣じゃない。突然変異の草食獣だ。
しかも、雑草が何よりも好きときてる。
だから諦めてその身を捧げてくれーっ!
逃げ回りながら必死に願う俺。
でも俺は、少しだけ笑っていたと思う。
走りながらも目に映る、久方ぶりの、猛獣らしからぬ穏やかな笑みにつられて⋯⋯。

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いつもお読みくださり、ありがとうございます。
ここまでリメイクとして大幅な加筆修正をしてきました『Lover』ですが、前サイトでは、この回の内容を書いたところで更新がストップとなっておりました。
次回からは、初お目見えの書き下ろしとなります。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!
Lover vol.30
「おっ、帰ってきたぜ! でもよ、何で別々なんだ?」
総二郎が2階の窓にへばりつきながら首を傾げる。
総二郎や類と共に一日遅れで合流した俺たちは、無人島にひっそりと建つ屋敷の中、司や牧野の関係がどう変化したのか、二人の帰りを今か今かと待ちわびていた。
『牧野がどうにもこうにも⋯⋯』と、プラス思考の滋すら苦笑するあたり、限りなく司の一方通行ってとこか。
まぁ、頑固者の牧野が、そう簡単に気持ちを翻したりはしないだろうが。
「にしてもよ-、牧野のヤツ、すんげぇー息切れしてんぞ」
窓際から実況中継を続ける総二郎の傍に皆で近づき、外の様子を覗いてみる。
⋯⋯なんだありゃ!?
牧野、女、捨てたのか?
Lover vol.30
木々に隔てられた二本の道が、ここからだとよく見える。
司が歩いている道とは別の方からこちらへ向かってくる牧野は、今にも「ぜぇぜぇ」という荒い息づかいが訊こえてきそうなほどの勢いで、地球に優しくない乱暴な足取りの大股ガニ股で、地面を叩き歩いている。
対して司はというと、一見、普通に歩いているように見える。
ゴシゴシと目を擦ってみても、視力の良い俺の目に映るのは、やはり普通に歩く司の姿。⋯⋯と、それに反する首より上。
「なんか司、すっげぇ怒ってないか?」
「みてぇだな」
やっぱり俺だけじゃないらしい。
確かめるように訊ねれば、総二郎の目にも、司の顔は怒り塗れと映っているようだ。
「俺には見える。司の額に浮き出る青筋が⋯⋯」
「すげぇな、あきら。んなもんまで見えんのかよ」
「あぁ、俺には見える。培ったマイナス思考が、著しく俺の視力をアップしているらしい。総二郎、あの様子じゃ青筋三本以上は確定だ」
「牧野と派手に喧嘩でもしたか?」
「かもな。二人の関係が好転するどころか、亀裂入りまくりの修復不可とか? しかも司は全開怒りモード。つまり、俺ら餌食に猛獣暴れる!?⋯⋯ど、どうすんだよ、あれっ!」
煮え切らずだんまりを決め込んでいたときの司を思えば、牧野相手に怒るほど自分を解放したのか、と喜ぶべきなのか。
いやいやいや、それはそれで俺が危惧していた傍迷惑っつーもんも、もれなくオマケで付いてくるやもしれん。
早くも今後の成り行きに不安を募らせる俺の背後から、深い溜息が訊こえてきた。
「何だよ、桜子」
「相変わらず美作さんは、しょうし⋯⋯⋯⋯心配性ですね」
「今、小心者って言おうとしなかったか?」
「そんな失礼なこと、私が美作さんに言うわけないじゃないですか」
その歪な笑顔が胡散臭い。
「それより、先輩と道明寺さんは、喧嘩なんてしませんよ」
「何でわかんだよ」
「だって、喧嘩になんてなりませんもの。先輩が能面の如く表情も感情も隠して澄ましてるんですから」
「そうそう、さっきも極端に表情消してたもんね~」
滋まで便乗してくる。
まぁ、確かに、昨日も牧野はそんな感じだったもんなぁ、と思い返していると、訊こえてきた笑い声。
「ぷっ、牧野面白い」
笑いの発生元、類の視線を追って窓の外を見る。
二つの道が、この建物に向かって一つに繋がる合流地点の少し手前。
立ち止まっている牧野は、だらしないほど両足を押っ広げ、膝に両手をついた前屈姿勢で、大きく肩を揺らしていた。
――オッサンか? いや、オッサン化!?
いくら息を整えているとはいえ、その格好は女としてどうなんだよ。
何とか呼吸が落ち着いたらしい牧野は、今度はスッと姿勢を正し、再び建物へと向かって歩き出した。
さっきまでの姿が嘘のように、気取った足取りだ。
司と同時に入った一本道では、少しだけスピードを上げ司を追い抜くも、悠然とした歩調は崩さない。
どうやら、桜子たちの言うことに間違いはないらしい。
司の気配を意識するや否や、オッサン化現象は忽然と消えた。
「お帰り、牧野」
「えーっ、類たちも来てたのー?」
2階から急いで降りて二人を出迎える。
真っ先に牧野に声をかけた類は、吹き出していたときとは打って変わって甘い笑みだ。
「てっきり3人は仕事で来れないのかと思ってたから、びっくり!」
そう言って俺たち3人を順に見る牧野。
「朝一で乗り込んで、おまえたちを待ってたわけよ」
総二郎が答えれば、「そうだったんだ。待たせちゃってごめんね」と両手を合わせる牧野に、俺は首を振って対応する。
「いや、気にすんな。外の景色見ながら、それなりに楽しんでたしな」
おまえの色気の欠片もない姿も拝ませてもらったし、とは我が身可愛さで言わないでおく。
でもそれは、牧野に殴られるのを危惧したからだけじゃない。牧野の背後に突っ立っているヤツの目を見れば、余計な発言は控えるべきだと、俺の中の警鐘が鳴る。
怒りの炎が揺れている司の目から逃げるように、そっと距離を取るまともな俺に反して、無謀な男が一人。
「よっ、司! ここは一発男として決めたか?」
総二郎、おまえは司のこの顔を見て、何でそんなこと訊けんだよ。
しかも今、もう一人の目もキラリと凶悪に光って見えたぞ!
凶暴な目の仲間入りを果たしそうな牧野に気づかない脳天気な総二郎は、止めときゃいいのに口を閉じようとしない。
「勿論、俺が言う一発ってのはベッドの上での――――ぐぇっ!」
ほらみろ、命知らずなヤツめ。
無言で右手を伸ばした司は、躊躇いもせずに総二郎の首を絞めた。
加減なしのそれ。ここまでされなきゃ危機感を抱かない総二郎は、黙って両手を挙げ降参アピール。
声を出したくても出せないようだ。
「ゲホッ⋯⋯ったく、冗談だろうがよ、冗談。ゲホッ」
解放された首を擦りながら咳き込む総二郎の冗談に、笑うヤツもいなければ同情するヤツもおらず、代わりにいるのは、
「司、私に怒ってるの?」
嬉しそうに訊ねる、滋という愚か者。
「怒ってねぇよ」
科白と表情が伴わない司に、
「ダメっ、あのときと違う! ここは私に怒るとこっ!」
と拗ねる滋が本気で理解できん。
それだけじゃなく、
「つくし~、潮風に当たったからベトつくんじゃない? お風呂入ろう!」
「まさか、滋さんも一緒に入るとか言う?」
「もっちろーん! だって、あのときも一緒に入ったじゃん! ほら行くよ~!」
滋は、どこまでも昔をなぞる気でいるようだ。
そんな女どもの様子を無言で見ている司に、喉の痛みが治まったらしい総二郎が促した。
「司、おまえも風呂入ってこいよ」
そして総二郎は、俺にもこっそりと言う。
「なぁ、昔はよ、あきらが何か言って司に首絞められたんだったよな? アレ、何って言ったんだっけか?」
素直な俺は、昔の記憶を掘り起こし「確か⋯⋯」と暫し考え答えた。
「どうせなら一緒に入ってきたらどう――ぐえっ!」
完全に自分を解き放ったらしい司は、野性的聴力を遺憾なく発揮し、声を潜めて言ったはずの言葉を簡単に拾って、迷わず俺の首をも絞めた。
「あきら、悪りぃな。首絞められるのは、あきらの役だったのに、さっきは大事なポジション奪っちまってよ」
酸素が上手く取り込めずチカチカする目で捉えたのは、ニヤリと笑う総二郎の顔。
もう少しでお花畑でも見えそうだ、と混乱する意識の片隅で俺は思った。
司だけじゃない。俺の周りにいる奴らは、揃いも揃って頭のネジが外れている。
そのせいで猛獣が暴れ出し、どんだけ俺が被害を被ったことか。
俺の役目はそんなんじゃねぇぞ!
そう叫ぶ代わりに喉元から溢れるのは、首絞めの刑から解放され、ゴホゴホと止まらぬ咳だけだった。
✦❃✦
「ったくよー、いつまでそうしてんだよ」
牧野と司、ついでに滋の入浴が終わって暫く団欒した後、食事が用意された船に全員で乗り込み、今は帰路の途中。
そんな中、一人違う雰囲気を纏っているのは、言うまでもなく司だ。
黒いオーラを背負いながらずっと口を噤んだままで、食事にも一切手をつけていない。
凶暴な目をどこまでもキープする司には感心するが、司に次いで、気の短い総二郎が詰め寄るのも無理はない思えるほど、司の態度は最悪といえた。
「だからっ! 何をずっと怒ってんだって!」
総二郎が話しかけても、目を合わせようとはしない司。
その視線がただ一筋に向かうのは、目の前に並ぶ料理を、片っ端らから平らげていく牧野のみ。
しかし、遂に司の重い口が動く。
「ムカつくんだよ」
地獄の使者を思わせる恐ろしいまでの低い声。
瞬時にして緊張が孕み、皆の視線を集める。
但し、黙々と料理を食べている牧野を除いては⋯⋯。
「何がムカつくって?」
総二郎が問えば、一人掛けの椅子に座っていた司が、組んでいた長い足を解き、立ち上がった。
「決まってんだろ。そこにいるバカ女の態度にだ」

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Lover vol.29
――なっ、何を言い出した、この男は!
自分から別れを告げた女に、しかもこの8年、会ったこともなければ、会話ひとつしたことのなかったこのあたしに⋯⋯「好きだ」そう言ったの?
ぷつり、ぷつり、と自分の中の何かが焼き切れ、腹の底に怒りが溜まっていく。
荒れ狂う感情は今にも内臓を突き破らんばかりで、『ふざけるなーっ!』と咄嗟に叫びそうになる。
と同時に心を占めるのは、捨てられた女の矜持。
それが理性を掻き集め、爆ぜそうな感情を食い止めた。
馬鹿にしてる。そう真っ先に湧き上がった思いを何とか抑え、目を逸らさぬ相手に「ふっ」と笑って見せた表情の下、滾る感情の全てを隠す。
「冗談にしてはちっとも面白くないんだけど。でも、いいわよ。あの頃の話をしても」
そう言って砂浜に座った私の隣に、道明寺も黙って腰を下ろした。
Lover vol.29
「道明寺との別れは、私なりに理解したつもりだった」
どこまでも続く果てのない海を眺めながら、遠い記憶を呼び起こし、抑制した声音で淡々と話し始める。
「でもきっと、全てを受け入れるには、あの頃の私は余りにも幼すぎたのよ」
「⋯⋯⋯⋯」
「わかった振りして、精いっぱい背伸びして。だけど、無理だった。思っていた以上にダメージが大きかったみたい。そのせいか、当時のことはよく覚えてない」
「覚えてねぇのか?」
隣から刺さる不躾な視線は無視して、前だけを見て答える。
「そう、覚えてない。だって抜け殻だったもの。覚えてるのは、どうなっても構わないっていう投げやりな気持ちだけ。
どうやら、道明寺は私の全てだったみたい。今思えば愚かよね、たかが男に振られたくらいで。
つまり、あんたに嵌まりすぎた私が馬鹿だったっていう、それだけの話よ」
過去の自分もまとめて辛辣に斬れば、視界の端に映る道明寺の顔が歪んだように見えた。
「でもそれも一時のこと。あるとき、進と優紀が海に連れ出してくれたことがあったの。そのときに、突然、道が開けたように、何もかもが吹っ切れた。こんな綺麗な海じゃなかったけど」
白い砂を手の平で掬う。
さらさらと指の隙間を落ちていくそれは、風に運ばれ白く泡立つ波に儚く消えた。
その波が、当時の海とリンクする。
私の気持ちを浄化してくれた、あの日の海と⋯⋯。
「広大な海を見ていたらね、ふと思ったの。ちっぽけだなって。なんて小さな人間だろうって。どうなっても構わないと思いながら、こうして自分は生きている。食事や睡眠を碌に摂らなくても、図太く私は生きている。なのに、くだらない考えを巡らす私は、なんて愚かなんだろうって。
寄せては返す波を見ていたら、なんだか急に馬鹿馬鹿しくなったの。だから、弱い自分とは決別した。
ゆっくりでもいい。時間に身を委ねながら人間の再生力を信じようって。そしたら憑きものが落ちたみたいに楽になった」
引いては迫る波は海の鼓動。
そんな躍動する自然に圧倒され、私の中の何かが吹っ切れた。
「ねぇ、道明寺知ってる?」
横目で隣を見れば、続きを待つように黙って私を見つめたまま。
視線を海に戻した私は、静かに言葉を繋いだ。
「人間ってね、『忘却』の機能を失うと生きてはいけないって説があるの。辛いことや哀しみが、時間が経過しても薄れずにそのまま残ったとしたら、人間の心は壊れてしまうかもしれないもの。だから忘却は、神が人間に与えた慈悲なんだって。
そして私も、道明寺への全ての想いを消した。別に意識してそうしたわけじゃなくて、流れる時間の中で自然とそうなった。
人間って逞しいと思わない? 自分の中に治癒力を備え持ってるんだから。だから人は何度だって立ち上がりやり直せる」
「そうやっておまえは変わったのか? 昔の自分を捨てて」
滋さんも、変わった変わったと言うけれど、人は誰だって変わる。
誰しもが、そうやって大人になるのが普通だ。寧ろ、成長したのだと言ってほしい。
それに、周りが言うほど普段の私は変わっていない。
変わったと言うのなら、多分それは――――道明寺の方だ。
「強いて言うなら学んだだけ。道明寺と別れて傷ついて、そして学んだの」
道明寺が何か言おうとしているのを察知し、先に牽制する。
「でも勘違いしないで。私は道明寺だから傷ついたんじゃない」
初めてできた恋人が道明寺で、あれだけ情熱的に愛をぶつけられたら、初心な女はコロッと落ちる。その落ちたバカな女が私だ。
些細なことで胸が踊ったり痛んだり。
かと思えば、仄暗い感情が心を掠めたことだってあった。
そのどれもが初めての経験で、そのどれもに翻弄された私は、道明寺にのめり込んでいった。――多分、盲目的に。
別れた後で全部を知り自分を見失ったのは、あまりにも強い恋心が齎した、揺り戻しだと思っている。
「付き合って別れて、傷つくことだって覚えて⋯⋯、そうやって免疫をつけて、みんな大人になっていくものじゃない? 私の場合、その初めての経験相手が、たまたま道明寺であって、まだ免疫がなかった分、衝撃を受け止められるほど成長していなかったってだけ。
だから、たとえ最初の恋人が道明寺じゃなく他の誰かだったとしても、私は傷ついただろうし学んだはず」
思ったこと、感じたことを有りの儘に話すのは、意外と難しくはなかった。理性に頼らずとも淡々と話せる程度には。
でも、これだけは言っておきたい。人の気持ちを簡単に踏みにじれる相手に容赦はしない。
真正面に向けていた視線を道明寺に照準を移すと、意図的に声に重みを乗せる。
「私にとって、道明寺が特別だったわけじゃない。たまたま学んだ相手が、道明寺司っていう男だったってだけの話。その相手に――――同じ過ちは繰り返さない。絶対に」
道明寺の目がすーっと細まる。それでも逸らしはしない。
逸らさないまま手を伸ばした私は、道明寺の右手を掴んだ。
道明寺の身体がピクンと小さく跳ねる。
構わず掴んだ手をそっと自分の左頬に当て、目を閉じた。
「昔もこんな風にしたよね。道明寺に触れたくて、触れてほしくて⋯⋯。道明寺が思っていた以上に私は、幼いなりに私の全てで道明寺を愛してた」
「⋯⋯過去形、か」
ゆっくり瞼を開ける。
「そう。だって、こうして触れても、今は何にも感じないもの。敢えて言うなら、相変わらず体温が高いのねって思うくらい。だからね、こんな時間旅行に意味を持たせようだなんて、所詮無理なの」
「⋯⋯」
「恋愛に向いてないってよく言われるし、自分でもそう思うけど。でも私は、また誰かを好きになる可能性まで否定するつもりはない。また誰かを好きになるかもしれない。でもそれは――――道明寺じゃない」
もう何も言うことはない。
ご都合主義で自分の気持ちをぶつけてきた道明寺が、傷つこうが知らない。
寧ろ、立ち直れないほど傷ついて、私に構わないでくれればそれでいい。
『おまえが好きになってくれた俺は、もういねぇ。おまえだけに惚れていた俺は⋯⋯、もう死んだと思ってくれ』
8年前に告げられた言葉が蘇る。
あのときにはわからなった意味を漸く理解できたとき、私の好きだった道明寺は、本当にいなくなったんだと思い知った。
別れを告げられたときにはもう、私が惚れた道明寺じゃなかったんだって。
結局は、あんただって変わったのよ。私だけじゃない。
そんな男に責められる覚えもなければ、二度と惑わされたりもしない。
核心には触れずに思いつきの情をぶつけてきた道明寺に抱くのは、紛れもなく苛立ち。そして、こんな男を好きになってしまった、嘗ての自分にも。
感情を隠す笑みの仮面を貼り付けて、道明寺の手を離すと静かに立ち上がった。
「思い出話なら、このくらいでいいでしょ?」
「⋯⋯」
「もう行くわ」
「牧野」
踏み出した足を止め、道明寺を見る。
「おまえにどう思われようと、おまえの前で自分の気持ちに嘘はつけねぇ。だからもう一度言う」
「⋯⋯」
「好きだ」
「⋯⋯」
「俺はおまえだけを想って生きてきた」
「⋯⋯」
まだ言うか。まだ私にも言わせる気か。
身体がカッと熱を持つほど、抑えた感情が心の内で暴れる。
だったら言ってやるわよ。返す言葉なら決まってる。
「私は道明寺を忘れたから今を生きている」
これからの私の人生に道明寺は必要ない、そう最後に言い添えれば、訊こえてきた舌打ち。
勝手に苛つけばいい。
あんたが好きになった女は妄想だったと諦めればいい。
誰が思いどおりになんてなってやるもんか。
あたしの好きになった男はもういないように、あんたが好きになった女も消えたのよ、8年前に。
声の落ち着きとは裏腹に、胸の内側ではドロドロとした感情が渦巻く。
掻き集めた理性にもそろそろ限界を感じ、感情が溢れ出す前に海に別れを告げ歩き出した。
道明寺も諦めたのか、深い溜息を一つ吐き出すと黙って後ろを付いてくる。
「牧野、こっちだろ」
あのときとは別方向へと歩みを進めた私に疑問を持ったのか、背後から声をかけられる。
「さっき、滋さんに教えてもらったの。こっちにも道があるって。またあのときみたいに沼にでも落ちたら最悪だし」
滋さんが、立ち去り間際に耳打ちしてきた別の道。
選ぶなら新しい道一択だ。
「知らねぇ道を選ぶ気か? 俺なら知ってる道を選ぶ。危険があるってわかってるからこそ、同じ失敗は繰り返さねぇ」
「だったら道明寺はそっちを行けばいいじゃない。私は危険だと知ってる道をわざわざ選んだりしない。新しい道があるなら、迷わずそっちを選ぶ」
だから道明寺という男をよく知っている私は、あんたを選んだりはしない、と暗に匂わす。
道明寺の顔が険しくなったところを見ると、言わんとしたことは正しく通じたらしい。何よりだ。
「じゃあ、のちほど」と、振り絞った理性の一滴で、にっこりと笑みのオプションを付け加えた私は、道明寺とは別の道を歩いた。
良くやったじゃないのよ、私。上出来よ!
怒りをコントロールしてよくぞここまで堪えたもんだと、いつだかのアスリートの言葉を借りて、自分で自分を褒めてやりたいくらいだ。
私にとって何より危険なのは、道明寺そのもの。
うっかり踏み込んで沼にでも落ちたら、最悪だ。
絶対それは底なしの泥沼で、身を滅ぼしかねない。
そんな道、人生において二度も踏み込んで堪るかっつーの!!
感情を持て余し、地面に八つ当たりするように足裏に体重を乗せズカズカと歩く私は、道明寺より先に着いてやろうと、一気にスピードを加速させた。

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Lover vol.28
「つーかーさーーっ!」
まるで光の届かぬ海底にでも落ちたような、酸素を取り込むのも難しく苦しい時間は、遠い向こう、浜辺から手を振る滋の甲高い声によって一瞬にして引き裂かれた。
「帰ってきましたね」
そう言ってクスリと笑う牧野のダチは、もう顔に困惑を滲ませちゃいない。
寧ろ、清々しいようにも見える。
多分、松岡は、敢えて滋たちと行動を共ににしなかったんだろう。
言い難い話だろうとも俺に全てを打ち明けるために、自らその役を担って⋯⋯。
それは、俺にとって鉛を飲まされるほどの胸苦しいものであっても、訊きたいと思った。全てを知りたいと思った。
全てを知り得た今。俺は切り替えとも、開き直りとも呼べる心境にある。
「ありがとな」
牧野のダチに素直に告げる。
「そんなお礼なんて言わないでください。道明寺さんに知ってもらいたいって、勝手に押しつけただけですから」
胸の前で必死になって両手を振る松岡。
「訊いて良かった」
そう告げれば、また少しだけ困った様に眉を下げた松岡に、総二郎から受け取ったもんのお礼も重ねる。
「総二郎からも訊いた。あんときの俺を、あんたが思い出させてくれた」
――後悔してんなら今の自分をぶち壊せ。
かつて俺が松岡に送った言葉だ。
手の動きが止まり動揺しだした松岡は、勢いよく頭を下げた。
「えっ、あ、あの、ほ、本当にごめんなさい。出しゃばるような真似をして」
「もう大丈夫だ」
「え?」
「あんたのお陰で覚悟が決まった。俺は、もう逃げねぇ」
力強く言えば、パッと持ち上がった顔に一瞬にして広がる笑み。
嬉しいときも目尻と一緒に眉が下がんだな。
素朴な感想を抱きながら、釣られるように笑みを返し、次には太陽の眩しさに細まった目を滋たちの方へと移す。
浜辺には、紫外線を物ともせず大手を振って歩く滋と、日傘を差し、サングラスをかけて大敵である紫外線から身を守る三条。
最後尾には、歩き方からしてふて腐れているのがわかる、牧野がいる。
そして――――。
岩場の影からは、昨日のパーティーで使った滋のとこの客船が、ゆっくりと姿を現した。
Lover vol.28
「もう帰りましょうてば!」
「つくしったら諦め悪ーい! もう船は動いちゃってるのに」
「諦め悪いのはどっちですか!」
牧野の交渉も虚しく第2の目的地に向かうべく、滋によって強引に船に押し込まれた俺たち。
とうに諦めのついた俺は、牧野と滋が言い合って騒がしい船内から一人、デッキへと出た。
見渡しても何もない大海原の上。
潮風を浴びながら考えるのは、今朝、松岡から訊いた、俺と別れた後の牧野のことだった。
俺から別れを告げた8年前。
気丈にも牧野は、いつもどおりに振る舞っていたという。
辛いとも漏らさず、泣きもせず、『あたしより辛いのは道明寺だよ』そう寂しげに言う牧野に、松岡を始めとする仲間たちは、気の利いた科白一つ返せなかったらしい。
松岡曰く、泣いて悲しんで、万が一にでもそれが俺の耳にでも入ったとしたら、余計に俺を苦しませる。負担にはなりたくない、俺を誰よりも理解している、そんな想いが牧野を支えていたんだと⋯⋯。
だからこそ牧野は変わらなかった。
俺と別れてからも、いつものようにバイトや勉学に励み、時に仲間たちと馬鹿をして。
そうしていつか、奥底に隠した悲しみが癒える日を、仲間たちは心から願っていた。
でも、それが突然に変化したのは、俺と牧野が別れてから1ヶ月ほどが経った頃だった。
牧野の弟からかかってきた一本の電話。
それを受け、仲間たちは急ぎ牧野の元へと駆け付けた。
そこは病院の一室。
腕に点滴の針が刺さり眠る牧野は、清掃員として派遣されていたバイト先の企業で倒れ、救急車で運ばれたという。
過労、疲労、貧血。
無理をし過ぎたのかもしれない。我慢させすぎたのかもしれない。
血の気の失せた牧野を見た仲間たちは、それぞれに思いを巡らせ声を詰まらせた。
それでも牧野は、目を開ければ心配する仲間たちに詫びを入れ、そしていつものように笑うのだろう。
だったらせめて、栄養のある旨いもんでも喰わせて、偽りの元気に乗っかってやればいい。
――だが、そう考えていた奴らの願いは叶わなかった。
牧野がゆっくりと瞼を開き、覗き込むように近寄る面々。
そんな仲間たちの顔を視界に収めても、直ぐに彷徨いだした牧野の視線は宙に浮いたまま。
『⋯⋯あたしって、道明寺に捨てられたんだよね』
そう、一言だけを呟き、それっきり貝のように口を閉ざした。
虚ろな目に、開かれない乾いた唇。
無理して取り繕ってきた反動か。それとも、今更ながらに俺との別れに現実味を覚えたのか。
いずれにせよ、何もしてあげられない仲間たちの胸の内はいかばかりだったか。
心配する仲間を余所に、その日から牧野は笑うことを放棄した。
退院し自宅療養となっても、牧野の状態に変化は見られない。
弟との二人暮らしを考えれば食事の心配もあるだろうと、二人の住むアパートに毎日足を運ぶ松岡。
類や総二郎にあきら、滋や桜子も、時間を見つけてはアパートに立ち寄り、だが、何も変わりはしなかった。
言葉をかければ反応はする。
でもそれは、会話とは程遠い頷きや、首を左右に振るだけの返し。
自分から欲しようとはしない食事も、少しずつ少しずつと、口元まで誰かが運ばなきゃ自ら摂ろうとはしない。
時間が必要だ。牧野には心に休息を与える時間が⋯⋯。自分たちに言い聞かせるように何度となく口にする仲間たち。
そんな最中、松岡の頭に『もしかしたら』と、マイナスな思考が過る。
このままで良いのだろうか。本当に元の牧野に戻るのだろうか。
けど、そんなことは恐ろしくて口に出せそうにない。誰にも言えない。
それでも『もしかしたら』が頭にこびり付いて離れない。
牧野のこの行動は、突発的でも衝動的でもなく、もしかしたらこれは⋯⋯。
――――緩慢な『自殺』なのではないか、と。
それからというもの、松岡はアパートに泊まり込むようになった。
弟がいるとはいえ、大学に進学したばかりの身。自分の方が身軽に動けると思い立った松岡は、朝昼晩と一時も牧野から目を離さなかった。
部屋にある刃物という刃物も、念のために全部隠したという。
ある日の夜は、悪夢に魘され飛び起きた牧野に付き合い、二人で眠れぬ夜を過ごしたこともあったらしい。
『それ以来、今もつくしは、電気をつけっぱなしじゃないと眠れないんです。目を覚ましたときに暗いと、自分を見失っていた当時を思い出してしまうのかもしれません』
そう打ち明けられた俺は、昨夜、明かりが消えなかった理由を初めて知った。
⋯⋯憎めよ。
おまえを振った男なんか、始めから憎めば良かったんだ。
そうすれば、牧野の心の負担は多少なりとも軽くなったかもしれねぇのに。
今更、都合の良いことを嘆いたところで、8年前の牧野に届きやしない。
それどころか、今となっては憎しみは愚か、好きか嫌いか以前の問題で無関心。
『ある日を境に、つくしは徐々に元気を取り戻していきました。でも、それと引き換えに大切なものを失くしてしまったような気がします。どこか冷めているんです。愛するということにも、愛されるということにも、諦めを覚えてしまったというか⋯⋯。
このままじゃ、つくしは幸せにはなれません。一歩も前に進めていないんですから』
松岡の話は、俺に容赦ない痛みを与えた。
それでも俺は知らなきゃならない。目を逸らすわけにはいかない。
俺の都合で別れ、あいつをそこまで追い詰めてしまった事実を⋯⋯。
俺が惚れた女は、感情豊かで情に満ちた女だった。
その女の核を俺が損なったのだとしたら、この俺が何としてでも取り戻す。
手遅れだなんて言わせねぇ。手遅れだっていうには、俺はまだ何にもしちゃいねぇ。
始まってもいないもんを諦めるなんて、俺らしくもねぇ。
松岡の話を振り返り、もう一度覚悟を誓った丁度そのとき、船が速度を落とし始めた。
船首の向こうに広がるのは、またもや懐かしい光景。
小さな手を二度と離さねぇと、18の俺が心に決めた無人島が、俺たちの到着を待ち構えていた。
✦❃✦
「⋯⋯次はここですか」
船を降りた牧野が、げんなりと溜息を吐く。
「どうよ~、懐かしいでしょう? リゾート計画が延び延びになってて、ほとんどあの当時のままなんだよね~!」
滋のテンションは相変わらずで、全く下がりは見えない。
寧ろ、まだ伸びしろがあんじゃねぇかって疑わせるほど、ぴょんぴょん跳ねて陽気に話す姿は、牧野を呆れさせ半目にさせた。
滋のことだ。昨夜に引き続き過去の再現をさせようって腹づもりなら、
「宝物探し第二弾!! さーて、つくしと司は、ここで無人島気分を味わっちゃってね? あのときと同じようにさ!」
当然、言う科白はこれだ。
項垂れた牧野は、魂まで抜け出しそうな溜息をまた吐いている。
「せめて1時間くらいは二人で過ごしなよね~。折角、ここまで来たんだし。私たちも、あのときと同じで、奥の建物にいるからさ! じゃあ、楽しんでねぇ~!」
「ちょっと待った! 滋さん、もう昨夜のだけで充分でしょう? こんなことしたった、ハッキリ言って時間の無駄です!」
「無駄な時間なら、た~くさんあるよ? なんせ超多忙な司までお休み取ってるし、時間の心配は全く要らないから~!」
笑いながら牧野の肩を叩く滋に、「だから、そうじゃなくて⋯⋯」がっくりと肩を落としながらも、牧野は抗議の声を上げ続ける。
「滋さんのご期待には応えられないって言ってるんです!」
「えっ、嘘! つくし、あのときみたいにアマゾネスの格好してくれないの? 滋ちゃん楽しみにしてたのに」
「あのですね、あのときだって好きでアマゾネスの格好したわけじゃありませんからねっ! それより滋さん?」
「なになに?」
「お願いですから、私とまともに会話してください」
「やだ、私の日本語可笑しかった? 司よりは得意だと思ってたんだけど、滋ちゃんショック!」
もう本気でヤダ、と牧野が嘆げいても、どこ吹く風。
ふざけ口調で躱す滋相手じゃ、会話が成り立つはずがない。
今回ばかりは滋に丸投げの三条は、ここでも余計な口を挟まず、松岡に至っては、間に入ってやれってのも残酷だ。
誰よりも終わりの見えない会話を止めたかった俺は、率先して牧野と滋に近づき口を挟んだ。
「いつまでそうしてんだよ」
牧野は期待を寄せた目で俺を見る。まるで俺を味方につけたように⋯⋯。
だが、それは勘違いだ。残念ながら、牧野の望むところに俺の希望はない。
「滋、もう行っていいぞ」
え? と漏らす牧野の声を無視して、
「牧野、諦めろ。切り替えは早ぇ方じゃなかったのか?」
意地悪く牧野を追い込めば、瞬く間に期待の籠もった目は消え失せ、代わりに完全武装にも似た無表情を貼り付けた。
滋の前では感情を露わにしていたのに、俺には気持ちを読み取られまいとする意思さえ感じる。
「俺に少し付き合え。話がある」
「世間話なら遠慮させてもらう」
「そんなんじゃねぇ」
「私には話したいことなんて何もないけど」
頑なな牧野を窘めるように滋が割って入る。
「まぁまぁ、そんなつれないこと言わないでさ! ともかく、私たちは司の命令に従い先に行ってるからね~!」
最後に何か牧野に耳打ちした滋は、他の二人と共に去って行った。
離れていく後ろ姿を見つめる牧野は、もう何も言おうとはしなかった。
視線でがっちりと捉えて放さない俺を前に、感情を出すのは止めたようだ。
「懐かしいな」
「まさか、思い出話でもしようって言うんじゃないわよね」
二人きりになって切り出した俺に返ってくるのは、抑揚のない声。
「ダメか?」
「今更?」
「今更だろうが、俺は訊きたい」
「何を?」
「あのときの牧野の気持ちを」
「⋯⋯」
「別れたとき、おまえは何を思い何を失くしたのか。俺はおまえの口から全て訊きたい」
馬鹿馬鹿しい。そう吐き捨てた牧野は、視線を海へと移した。
風が小さな波を運び、牧野の艶のある黒髪をも嬲る。
嬲られた髪の隙間から覗く牧野の瞳は、冷淡な色を湛えていた。
「そんなこと訊いてどうするの?」
「知りてぇんだよ。俺はおまえをどれほど傷つけたのか」
「昨日も言ったでしょ? とっくに許してるって。今更、道明寺が気にすることじゃないわ」
「でも、おまえは変わった」
「それが何? 滋さんの言うことに感化されたわけ?」
「違う⋯⋯なぁ、牧野」
呼びかけても反応を示さない牧野。
どこまでも広がる群青の海から瞳を引き離せない。
それでも諦めずに、俺はもう一度愛しい名を呼んだ。
「牧野」
気怠そうに髪を掻き上げた牧野は、ゆっくりと向きを変え俺を見た。
交差する二人の視線。邪魔するものは何一つとしてない。
牧野がガードするように取り繕った無表情さえ、今の俺にとっては何の意味も成さない。
瞬きもせず牧野を目に映す俺は、風や波の音に攫われてしまわぬよう、声に力を持たせた。
「おまえが好きだ」
射るような視線を寄越す牧野と俺との間に、一際強い潮風が駆け抜けていった。

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Lover vol.27
Lover vol.27
「つべこべ言っててもしょうがないでしょ。何か私たちのことを勘違いしてるみたいだけど、こんなことしても意味ないってわかってもらうには、丁度良いかもしれないし?」
あっさりと牧野言われ言葉に詰まる。
俺への気持ちが微塵も残っちゃいねぇってわかってはいても、いざ言葉にされりゃ気持ちが怯んで。
そうして声を失っていた一瞬の隙。牧野は止める間もなくドレスを着たままプールに飛び込んだ。
「牧野っ!」
名前を呼んでももう手遅れで、水しぶきを上げ牧野の身体が水中に消えた。
「あのバカ!」
服を着たままじゃ下手すりゃ溺れる。正気の沙汰じゃねぇ。
慌ててプールサイドに駆け寄り飛び込んで牧野を引き上げよう、そう思った矢先。牧野が水面に顔を出し、ひとまず胸を撫で下ろす。
とはいえ、夏でもねぇ季節。だらだら水に浸かってたら風邪を引く。
「牧野っ、大丈夫か?」
「意外と気持ちよくてびっくりした」
「いいから早く上がれ!」
人の気も知らずにマイペースな牧野に、すかさず手を伸ばす。
「掴まれ! いつまでも浸かってたら風邪引くだろうがっ!」
濡れた身体に夜風が当たれば、マジで熱だって出るかもしんねぇ。
頼むから早く上がってくれ! と、心配で堪らず差し出した手に、意外にもすんなりと牧野は応えた。
水を含んで重くなったドレスを掴んで俺の方へと歩いてきた牧野は、白くほっそりした腕を伸ばしてくる。
手が触れ、互いにギュッと掴んだ瞬間。引き上げようとした俺を牧野の言葉が止めた。
「道明寺って、滋さんのことわかってないよね。滋さんのことだから、」
話の途中で区切った牧野は、見てみろとばかりに、滋たちがいるだろうコテージに向かって顎をしゃくる。
掴んだ手を離さぬまま、素直に背後のコテージを振り返ってた――その刹那。
「あそこから絶対見てるはずだから諦めて」
急に早口になったかと思えば、
「うおっ!」
「なんで私一人が、ずぶ濡れになんなきゃなんないのよ」
華奢な身体のどこにそんなパワーを隠し持ってんのか。凄まじい力で引っ張られ、俺は見事水ん中。
覚悟もないまま水の中に落とされた身体は、水中でバランスを崩す。
服が邪魔して動きにくい身体をどうにか立て直し、水中から顔を出せば、
「あ、ごめんごめん」
全く重みがない軽い謝罪を寄越してきた。
「だってしょうがないじゃない。あのときの再現を滋さんは望んでるみたいなんだから。だったら道明寺にだってプールに入ってもらわないと」
「⋯⋯⋯⋯」
「それに、みんなに無駄に期待されるのは、道明寺だって迷惑でしょう? 私だってそう。こんなことしたって何の意味もないじゃない。風景の変わらないこの場所にあるのは、宝物のような思い出じゃない。単なる記憶。プールに飛び込んだくらいで、それは何も変わらないってことを、滋さんにはしっかりわかってもらわなきゃ」
何も言えなかった。
何気なく言う牧野の言葉一つ一つが、俺の胸を抉ってく。
――思い出ではなく、単なる記憶。
あの頃の俺たちには、もう何の価値もねぇって切り捨てられたも同じで、
『夢なら叶った』
かつて、この場所で言った自分の言葉も何もかもが、俺に都合の良い幻だったんじゃねぇかと錯覚するほど、幸せに彩られた思い出が悲しみに塗り替えられていく。
「上がろっか」
二人で水に落ちる、その状況さえクリアしたら後は用はねぇとばかりに、牧野は沈みかけた制服を求めて動き出す。
両腕で水を掻いて歩く牧野は、ドレスが纏わり付いて歩きにくそうで危なっかしい。
案の定、制服を掴んだ途端に体勢が崩れ、咄嗟に腕を掴みそのまま抱き上げた。
どんなに傷を受けようが、どんなに大切な思い出が悲しみに染まろうが、牧野を想う俺の気持ちだけは、あの頃と何も変わらず不変で、愛する女を放っておけやしない。
「大丈夫だから下ろして」
「いいから黙って掴まってろ」
裾が長いドレスを纏って水中で歩くのは、容易じゃねぇ。
何と言われようと下ろす気のなかった俺は、もう二度と触れることはねぇと諦めていた身体を大事に包み込み、落とさぬよう慎重に水の中を歩いた。
「ありがとう」
プールの縁に辿り着き、牧野をそこに座らせる。
続けて自分も這い上がり、プールサイドから立ち上がった牧野に不意に目を向ければ、途端に心臓が騒ぎ出す。
水を含んだせいで、身体にぺったりと貼りついたドレス。くっきりと身体のラインが見て取れ、一気に身体が熱くなる。
けど、そんな俺を気にもしねぇ牧野は、あろうことか裾を捲り上げて素肌を露わにした。
たとえそれが、吸い込んだ水を絞るためとはいえ、闇夜に青白く映える牧野の肌は太股まで晒され、直視するには刺激が強すぎる。
俺の心臓は異常な速さで鼓動し、急いで背を向けた。
牧野の素肌を見るのは初めてじゃねぇ。
片手で足りる程度だったが、牧野の全てをもらい、何にも遮られずにありのままの姿を目にしたことだってある。
なのに当時も今も、牧野を前にすりゃ、いつだって俺の鼓動はこんなんだ。慣れることはない。
他の女に裸で迫られてもなんも感じねぇし、寧ろ、気色悪くて仕方ねぇのに、相手が牧野となると別人のように意識が変わる。
それに比べ牧野に動じた様子はなく、これが俺たちの今の関係なのかと思い知らされる。
俺を全く意識してねぇからこその恥じらいのなさ。⋯⋯多分、そういうことなんだろう。
衣擦れの音を拾う耳は熱いのに心は凍てつきそうで、背を向けた身体は棒のように動けなかった。
「どうかした?」
「⋯⋯⋯⋯いや」
暫くして背中越しに聞く牧野の声に遠慮がちに振り返れば、太股は皺ができたドレスに覆い隠されていて、人知れず安堵の息を吐いた。
「なら、コテージに入らない? 流石に寒くなってきたし、シャワーでも浴びにないと流石に風邪引くかも」
「ああ」
「じゃ、私行くから。おやすみ」
「待て。おまえ、行くってどこにだ?」
「決まってるじゃない。滋さんたちのところよ。道明寺は一人でゆっくり休むといいわ」
「滋のヤツ、すんなり部屋に入れてくれんのか?」
「だったら道明寺と一緒にコテージに泊まれとでも? あのときのように、裸で抱き合いながらキスまでして? 冗談でしょ」
羞恥の欠片もなければ、過去の思い出を端で笑うような言い様に、
「そうじゃねぇ」
己の声も自ずと低くなる。
「あいつがすんなり部屋に入れてくれるか心配なだけだ。身体が冷えんだろうが」
「意地でも入れてもらうわよ。結局、何も変わらないじゃない。プールに飛び込んだくらいで何も変わらない。そんなわかりきったことを敢えて妥協してやったの。当然、滋さんにだって妥協してもらうわよ」
じゃあね、と濡れた制服を抱え、牧野はあっさりと俺を置き去りにした。
「確かに変わんねぇな」
風に攫われるような小さな呟きは、未練なく背を向けた牧野には訊こえやしなかっただろう。
もし、訊こえていたとしたら、牧野は何を思うのか。
牧野が言い捨てた『変わらない』とは意味の異なるそれが、俺自身の気持ちだと知ったら⋯⋯。
どんなに鋭利な言葉で胸を切り刻まれようとも、変わらない、変えられない、18歳で知った揺るぎない想い。
あの頃から抱いているこの気持ちを――――俺はどうやったって捨てられやしない。
その晩、俺は一睡もできなかった。
ベッドルームから覗く滋たちのコテージもまた、朝まで煌々と明かりがついていた。
✦❃✦
「道明寺さん、おはようございます」
脳が休むことなく迎えた朝。
テラスに出れば、向かいのコテージの窓から顔を出した、牧野のダチであり総二郎の恋人。
確か⋯⋯、松岡と言ったか。
「朝食を用意してあるんです。こちらで召し上がりませんか?」
シャワーを浴びてから、誘われるままに向かいのコテージに来てみたものの、不思議なほど静かで波の音以外訊こえてこない。
朝食が用意されたテラスに出てみても、騒がしいはずの滋たちの姿は見当たらなかった。
「今、みんな散歩に出かけてるんです」
俺の様子を見て察したのか、コーヒーをカップに注ぎながら、静かな理由を教えてくれた。
「随分、元気だな。昨夜だってろくに寝てねぇだろ」
差し出されたコーヒーに口をつけてから何とはなしに言えば、松岡は不思議そうに首を傾げた。
「いえ、結構みんな疲れてたみたいで、早めに寝ましたよ? 初めこそ、つくしと滋さんが何だかんだと騒いでいましたけど、その後は直ぐにぐっすりで」
「明かりが見えたから、朝まで騒いでたのかと思った」
「あ、それはつくしが⋯⋯。あの、道明寺さん?」
突然、松岡の顔が強ばったかと思えば、いきなり頭を下げた。
「ごめんなさい。勝手に道明寺さんとつくしの思い出を話してしまって」
思い出か⋯⋯。
あいつにとっちゃ『記憶』らしいけど。
思わず自虐的な笑みが漏れる。
「気にするな。牧野もたいしたことじゃねぇって思ってんだろうし」
「でもまさか、こんなことになるとは思ってもなくて」
「どうせ、滋に強引に吐かされたんだろ」
図星か。下がり眉に困惑が滲み出ている。
だが、その困惑顔に変化が生まれた。
下がった眉はそのままなのに、口元を僅かに緩め、遠くを見つめる眼差しは、何かを懐かしんでいるようにも見え⋯⋯。
「あの当時のつくしは、本当に幸せそうでした。道明寺さんをとても大切に想ってたし、そんなつくしは、とても輝いていました。私は、あの頃のつくしに、もう一度会ってみたいんです」
切実に訴えてきた松岡は、「道明寺さんもそうですよね?」と付け加えると、俺の相槌を待って、穏やかに、且つ、芯の強さが窺える口調で全てを詳らかにした。
俺が知ることのなかった、空白の時間を⋯⋯。
知りようのなかった、牧野の隠れた一面を⋯⋯。
滋たちが戻ってくるそのときまで、詰まる想いを飲み下しながら、俺は松岡が語る話に黙って耳を傾けた。

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